その心の傷は誰のものなのか - 紫原 明子
※この記事は2019年02月21日にBLOGOSで公開されたものです
先日、哲学者・千葉雅也さん、AV監督・二村ヒトシさん、現代美術家・柴田英里さんの共著による『欲望会議』(角川書店)を読んだのですが、これがもうとても面白かったのです。
この本の趣旨について、序章で千葉雅也さんはこんな風に書かれています。
「現代の我々はどのような主体であるのか」という大きな問題を、性(ジェンダー、セクシュアリティ)の観点から考察しています。本書は、ひとつの「主体論」の試みであると言えるでしょう。
さらにその少し先に、こんなことも書かれています。
現代人は、かつての、つまり二〇世紀までの人間から、何か深いレベルでの変化を遂げつつあるのではないか、というのが本書の仮説なのです。
この本の中では、人が傷つくことと、それをもとに怒ることもある種の享楽なのだということが語られています。そして傷つきとは、アウグスティヌス以降に人間が「内面」を発明するまで存在しなかったもので、弱者が自分の境遇を嘆く“嫌だな”というような気持ちは、ギリシア・ローマ時代までは傷つきでなく“ムカつき”に近いものとして表現されていただろう、とのこと。
さらに、本来“怒り”とは、このように傷つく内面からは切り離され、外側から、強さや攻撃性を伴って生じるものであるべきではないか。しかし現代のインターネットに多く見られる怒りはそうではなく、傷つきからくる“泣き叫び”に近い。人間の内面しか存在しないインターネットにおいて、人々が境界線なく個人の傷つきを交換し、共感し合い、ずるずると溶け合っている。この状態は、最早対話とは言えないのではないか、ということが語られています。
一連の指摘に、はっとしました。個人的には、表出する他者の怒りを、傷つきからくる“泣き叫び”なのか、あるいはギリシャ・ローマ的な“怒り”なのか判断するのはとても難しいことではないかと思うし、それが他者でなく自分の怒りであったとしても、同じように判断が難しいだろうとも思います。
また、私がもし何かについて怒っており、それについて他者に「あなたは今、怒りながら快感を得ていますよ」と言われたら、実際どうかはさておき、やはり相手をぶん殴りたくなるだろうなと思います。
しかしそれでも尚、昨今のネット、特にTwitter上において、『欲望会議』で指摘されているような、対話と言えない言葉の交換がなされているという点は、事実でないと言い切れないと感じます。
私はこんな不当な仕打ちを受けた。私はこんなふうに傷ついた。私が傷ついたことを知ってほしい。
そこに至る前後の文脈を切り取られ、140文字でまとめられる心の傷。前後の文脈を知らない遠くの人たちから、共感や同情が寄せられ、連帯が生まれます。Twitterのようにフォロワー数やリツイート数で連帯の規模が可視化される世界では、連帯を作り出しやすい個人の傷は、ともすれば誰かの思考や言動にプレッシャーをかけたり、制御したりする強い力にもなり得るものです。「私の傷」の形が「多くの誰かの傷」の形に近ければ近いほど連帯の規模は急速に拡大し、社会問題として扱われることもあります。
「私が傷つかないこと」が正しさの根拠でいいのか
かくいう私も、自分の受けた傷が少なからずきっかけとなって、ウーマンエキサイトさんが展開する「WEラブ赤ちゃん」プロジェクトで、赤ちゃん「泣いてもいいよ」ステッカーを作りました。そしてこれは、私と似たような心の傷を持つ親御さんや、その親御さんたちの姿に共感し傷つきを持っていた社会の人たちの共感を受け、大きな運動に育ちました。ただこれについて私は、以下のように考えています。
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私はかつて自分が公共の場で子供を泣かせたことに対し「うるさい」と言われたことが少なからず心の傷になっていて、それが「泣いてもいいよ」ステッカーを作ることに繋がったんだけど、「泣き声を許容しろ」と大人全体に強いるものにしたくなかったのも、やっぱり自分の心の傷と関係があると思う
- 紫原明子 (@akitect) 2019年2月4日
社会にいる大勢の人に何かを訴えるとき、自分の信じている正しさの根拠が「私の心の傷をつけないこと」で本当にいいのか? そこにはどうしても自信を持ちきれないからだ。もちろん、他人を傷つけない努力はした方がいいと思う。でも、人が何で傷つくかはわからない。だって私と他の人は違う。
- 紫原明子 (@akitect) 2019年2月4日
それで、「社会、赤ちゃんの泣き声を許容しろ」ではなく「私は赤ちゃんの泣き声が気になりません」の声を可視化する、ということにした。それが沢山になることで、無駄なヘイトを溜めずに空気を変えられるのではないかと思ったので。
- 紫原明子 (@akitect) 2019年2月4日
私は傷つきたくないし、私の大切な人たちにも傷ついて欲しくない。女性にも男性にも子どもにも大人にも傷ついて欲しくない。でも、「自分が傷つかないこと」を正しさの根拠としていいのかどうかについては、慎重に考えるべきだろうと思う。
- 紫原明子 (@akitect) 2019年2月4日
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自分だけの傷か、社会の傷か
自分が傷ついたのと同じ体験を周りの人にはしてほしくないな、と思います。でも、そのために何か運動をしたり、制度を作ったりして、結果として他者の行動を何かしら制限しようとするのは、本当に正しいのか。もちろんそれが必要な場合もあると思います。が、そこについてはとても慎重に考えなければならないと思います。でなければ傷がむやみに権力化し、今度は自分が他者を傷つける側に回ってしまいかねないのです。
たとえば、子どもが保育園に落ちて失業してしまった親御さんの受ける心の傷というのは、社会制度の不備で起こる傷つきであって、そういうものは社会制度を変えていくことによって起こらなくするべきだろうと私は思います。が、こんな風にすべての人の心の傷が、必ずしも社会のせいであるはずはないし、社会制度を変えることで防げるものでもないのです。
ですが、傷による他者との連帯を可能とするプラットフォーム上では、そのような錯覚を容易に起こさせてしまう危険が強くあると感じます。
自分の傷は自分で抱えるべき?
心の傷は、どうやって癒えるのだろうと最近よく考えます。
ネット上で不特定多数の人と傷による連帯が生まれれば、傷は癒えるのだろうか。自分の傷を取り出して見せたときに返ってくる「それは辛かったですね」という共感の言葉というのはたしかに、傷を癒やすのに効果的なように感じられるけれど、でもその癒され度合いは結局のところ、言葉を発した人との関係性の深さにもよるのではないかとも思うし、同時に『欲望会議』で語られているように、結局のところ、他者には癒せないものなのかもしれないとも思います。
インターネットによって、それまで見えなかった沢山の人の心の傷が見えるようになりました。それ自体は、必ずしも悪い結果ばかりをもたらしたわけでもないと私は思います。が、『欲望会議』を読んで、こういう社会を生きる上では個々がこれまで以上に強さを身に着けていく必要があるのだと感じました。
「すべての人が傷つかない社会は作れない」というもどかしさと折り合いをつけていく強さ、自分の傷を自分で抱え続けられる強さ。こういった強さを培いながら、世界に流されない自分でいたいと思います。