危機管理意識の乏しい安田純平氏の「自己責任」 - 渡邉裕二
※この記事は2018年11月05日にBLOGOSで公開されたものです
シリアで武装組織に拘束され、3年4ヶ月ぶりに解放されたフリージャーナリストの安田純平氏(44)。何はともあれ結果良ければ…ということである。無事に解放されて帰国したのだから、ここは「不幸中の幸い」と言うべきかもしれない。1977年9月。日本赤軍が起こした航空機ハイジャック事件で「ダッカ日航機ハイジャック」があった。この時、日本政府は「超法規的措置」として身代金の支払いに応じたが、当時の福田赳夫総理は「一人の生命は地球よりも重い」と述べたことがあった。もちろん、シリアの武装集団に拘束された安田氏と、日本赤軍の起こした航空機ハイジャックとでは全く比較にはならないのだが、フッと思い出した。それにしてもこれは名言だった。
しかし、安田氏についてはどうもスッキリした気分にならない部分が多い。 正直言って「解放されて良かった良かった」と手放しに喜べないところがある。
「ジャーナリストとして勇気のある行動だった」
確かに〝同業者〟筋からは安田氏の行動を称賛する声が多かった。中でも、テレビ朝日の情報番組「羽鳥慎一モーニングショー」では、コメンテーターの玉川徹氏が、戦場ジャーナリストの役割を力説した上で〝英雄〟扱いしていたが、果たして、そんな単純な出来事だったのか?
拘束を甘く見ていた?常習者の安田氏
そもそも安田氏が武装集団に拘束されたのは今回だけではなかった。2003年にイラク軍やイラク警察などに拘束され、さらに翌04年にもバクダットで武装勢力に拘束されている。要するに拘束される〝常習者〟。ある意味で慣れっこだったようだ。
「これまでの拘束は緩く、自由も許されていたようなので、緊張感もなく甘く見ていたところもあったんじゃないでしょうか」(週刊誌記者)。なんて言い方もされているほどだ。
今回は15年6月にシリアで行方不明となっていたが、実際にはシリアでアルカイダ系テロリスト集団「ヌスラ戦線」(現在はタハリールアルシャーム機構)によって拘束されていた。そういった中で、安田氏の解放に向けてはトルコの治安当局と情報機関の活動があった。河野太郎外務相も「カタール、トルコをはじめとする関係国と緊密に連絡を取り合い、連携して安全のためには何がベストかを考えながら全力を尽くしてきた」とし、カタールやトルコ両政府に感謝していた。
一部情報では、今回の解放劇にあたっては、カタール政府が身代金として3億4000万円を肩代わりしたという。が、ただ、これまで「テロには屈しない」と言い続けてきた安倍政権だっただけに、ここは人道的な観点もあったとは言え「実は裏で身代金が動いていた」なんて思われては都合が悪い。菅官房長官は会見で「そういったことはない」と否定してはいるものの、あるいは官房機密費の中から捻出したとは言わないまでも、今後、何らかの形で(カタールに対して)返済していくことは間違いなさそうである。
「世界でもまれにみるチキン国家」
もっとも安田氏は、武装組織に拘束される前の15年4月3日のツイッターで、「戦場に勝手に行ったのだから自己責任、と言うからにはパスポート没収とか家族や職場に嫌がらせしたりとかで行かせないようにする日本政府を『自己責任なのだから口や手を出すな』と徹底批判しないといかん」と綴っていた。
その他にも、
「いまだに危ない危ない言って取材妨害しようなんて恥曝しもいいところだ」などと言い放っていた。
「世界でもまれにみるチキン国家」
もちろん、ジャーナリストとしての反骨精神、主義や主張は大切なことだ。しかし、今回の解放に際しても、NHKのインタビューの中で、
「とにかく荷物がないことに腹が立って」
「3年、40ヶ月全く仕事ができなかった上に、全ての資産であるカメラであったり仕事のための道具まで奪われたというか、そこまでするかという。解放の瞬間はまずそれですね」
と、解放されるや、この捨てゼリフ。さらに、
「トルコ政府側に引き渡されるとすぐに日本大使館に引き渡されると。そうなると、あたかも日本政府が何か動いて解放されたかのように思う人がおそらくいるんじゃないかと。それだけは避けたかったので、ああいう形の解放のされ方というのは望まない解放のされ方だったということがありまして…」
これも「権力には屈しない」というジャーナリスト精神を見せたいのかもしれないが、安田氏の言葉からは「殺されるかもしれない」という恐怖感のようなものが感じられない。もちろん「我々は殺すことは絶対にない」と再三言われていたからかもしれないが…。
それに、日本語で日記を書くことも、テレビを観ることも許されていたとも言う。武装集団ではあるが、とりあえずは「紳士的な組織だった」だろう。しかし、だからと言って「殺されない」「解放される」という保証はないはずだ。
その一方では、拘束されていた時の様子について、
「地獄ですよ。身体的なものもありますが、精神的なものも、今日も帰されないと考えるだけで、日々だんだんと自分をコントロールできなくなってくる」
とは言っていたが…。
だが、一部からは「身代金狙いの拘束だった」とか「テロ支援に利用された」と言った疑惑の声も出ている。しかし、正直言って、そう疑われても仕方がないだろう。
ちなみに、安田氏は解放の経緯について「身代金の支払いは望んでいなかった。解放された理由は分からない」などと話しているというから、身代金の受け渡しがあったことは少なからず認識していたのだろう。
安田氏は2日、日本記者クラブで帰国後、初めての記者会見をした。
会見の冒頭では「解放に向けてご尽力いただいたみなさん、ご心配いただいたみなさんにおわびしますとともに、深く感謝申し上げたい」と深く頭を下げた。その上で「私自身の行動によって日本政府が当事者にされてしまったのは大変に申し訳ない」と、一応の反省は口にしていた。が、これは自身のこれまでの発言に対して各方面から批判が相次いだことから、ここは形式的にでも謝罪をした方がいいと周囲から言われたのだろう。
ただ、事件が事件なだけに「全てを話す」と言っても、その真偽は分からない。解放されて1週間。話す内容を整理し、吟味したはずである。国際問題でもあるだけに根は深く語り尽くせない部分が多いはずである。
それはともかく、太平洋戦争終結から28年。グアム島で発見された残留日本兵の横井庄一氏のように「恥ずかしながら生きながらえておりましたけど…」とまでは言う必要はないが、突っ張ってばかりいては理解されない。
取材活動が生む二次被害
以前にも、この欄で書いたことがあったが、91年に長崎・雲仙普賢岳で多数の報道関係者が火砕流にのまれ死亡したことを思い出す。この痛ましい事故は、火砕流の取材競争が加熱し、マスコミが「取材」と称して避難勧告地域内の「定点」に入り込んだことが要因となった。・「一億総カメラマン」で“想定外”に変貌するニュース・報道番組
犠牲者は読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、NHK、日本テレビ、テレビ朝日、九州朝日放送、テレビ長崎、そして雑誌記者ら16人の他、火山学者、地元消防団、マスコミがチャーターしていたタクシーの運転手など合わせて43人だった。
「危険な状態だったのでマスコミに対しては何度も制止した」というが、少しでも近くで取材したい、撮影したいというマスコミは「定点」を超えた。「自分の身は自分で守る」と言い放った記者もいたらしいが、結果的に身を守れなかったどころか、記者の無謀な取材を制止し、避難させようとしていた人たちまで巻き込む大惨事となった。
今回、安田氏も「自己責任だった」としているが、戦場カメラマンの渡部陽一氏は「退く勇気も持って欲張らない取材をする」と言う。やはり、危険地帯での取材の基本は「危機管理」であろう。
安田氏について、10月27日放送のTBS「新・情報7daysニュースキャスター」で、ビートたけしは「フリージャーナリストっていうのは、現地に行って記事を書いて、それを出版社に売って儲けるわけでしょ。戦場カメラマンと同じで、危険を冒してもいい写真を撮りたいわけじゃない。仕事のために危険を冒すのはリスクだから、それに政府がお金を出したのかどうかは分からないけど…」と疑問を投げかけ、
「成功すればいい写真や名誉を得られるけど、失敗したら救助隊に金払うでしょ? この人は失敗したんじゃないの?」
と指摘していた。