ロサンゼルス市内のスケートボード・パークにて。後列左からスケボーコーチのミッチェル・バスクさんとエディ・ベセラさん。前列でニット帽を被っている11歳のアレックス君は滑るとすぐにSNSにアップしている(写真:筆者撮影)

8月4日に行われたオリンピックのスケートボードの女子「パーク」では、日本人3人が決勝に進出し、2人が金・銀メダルを手にした。先月行われた「ストリート」では、男女ともに金メダルを獲得しており、若い日本人選手の活躍が光っている。

今回のオリンピックで新たに正式種目となったスケボーはその選手層の若さや日本人の活躍はさることながら、ファッション性の高さや、それぞれの国の選手がさわやかに抱き合ったり、たたえあったりする姿に心を打たれた人も少なくないだろう。スケボー発祥の地であるアメリカ・ロサンゼルスではスケボーはどう受け止められているのか。現地からレポートする。

プロを目指すなら「路上に出ろ」

「ユウトは金メダルにふさわしい実力の持ち主だから、今回の結果は納得だよ」。オリンピックのスケートボード「ストリート」競技の決勝の翌朝に、ロサンゼルス市内にある公営のスケートボードパークを訪れると、スケートボード・コーチのエディ・ベセラさんがそう言った。

彼の隣で、ヘルメットを被って技の習得に励んでいる10代の教え子たち数人も、首を縦に振ってうなずいている。

「ユウト」とはこの街在住の堀米雄斗選手のことだ。ロサンゼルス(以下ロス)では1950年代初めに、サーファーたちの間で、波が来ないときにサーファーたちが娯楽がわりに空のプールで滑ったのがスケートボードの始まりではないかと言われている。1963年には第1回スケートボード・チャンピオン大会がロスで開催された。今もプロを目指すスケーターたちが世界中から集まってくるメッカだ。

本場のスケートボード文化とはいったいどんなものなのか?

「ここでプロを目指すなら、とにかく街に出て、路上で自分の好きな場所を見つけて滑り、その様子をビデオ撮影しないと始まらないよ。スケートボード・パークで滑ってその様子をいくら撮影しても、相手にされないからね」とベセラさんは言う。

コーチの傍ら映像カメラマンとしても働く彼は、こう続けた。「ロスのサウスサイド地区は、治安が悪くて危険だけど、かつてレジェンドたちが滑った有名な場所がたくさんあるから、今も人気だよ」。

もともと路上で自由に滑って楽しむことから始まったスポーツだけに、何よりもまず、路上で滑り、それが認められることが大前提なのだという。

「スケートパークでならうまくできる技も、凸凹のある路上でやってみると数倍難しい。路上では『出ていけ!』と追い出される苦労もあるし。だからこそ路上で技を決めると、仲間から尊敬されるんだよ」
 
そう語るのは11歳のアレックス・エニス君だ。ちなみに、彼がSNS上にアップした路上撮影の映像を見てみると、5段の階段の手すりを彼が滑り降りるビデオに、「So clean」(見事だ)や「butter」(バターのように滑らか)などという視聴者からの賞賛のコメントが多数ついている。

さらによく見ると、ビデオには「#スポンサー」「#スケートこそ我が人生」「#スケートボーイ」などのハッシュタグが、20以上びっしりつけられている。これは、検索でひっかかりやすいキーワードをあらかじめ散りばめておき、ネット上で映像を多くの人に見つけてもらうための工夫だ。それを11歳の少年がごく当たり前にやっている。

ほかの人の技をスマホで簡単に学べる

今回のオリンピックの女子ストリート競技では日本とブラジルの13歳同士が金メダルを争い、その若さに世界が衝撃を受けた。ロスのスケーターたちの多くは、「彼女たちはビースト(超人的)」という賛辞で褒め称える。

なぜあの若さで金メダルが取れる程の実力がすでにあるのか?ベセラさんと共同でスケートボード教室を立ち上げた25歳のコーチのミッチェル・バスクさんはこう説明する。

「今の若い子たちは、インスタグラム上で、同じ年頃の子どもがすごい技を軽々とやってのける映像を見て育ってきた。しかも自分の指先を動かすだけでスマホ上でそんな映像が無限に見られる環境でね」

ちなみに、バスクさんが子どもだった20年前には、インスタグラムもYouTubeもなく、同年代のスケーターたちの技をネット上で頻繁に見ることはできず、ときどき、テレビ放映でプロの大会を見るチャンスがある程度だったという。

彼が最初にボードに乗ったのも12歳と遅かった。

「今の子は何もかもが違う。例えば9歳の子が15段ある階段の手すりを華麗に滑り降りていく映像がネット上にある。そしてそれを見て、同じ年の自分だってできる、と思う子がいる。子どもは限界にとらわれない。テクノロジーの発達とともに、素晴らしい技の映像を見る機会が飛躍的に増え、それによって、技の進歩もぐっと加速したんだ」

市内に20を超える公営スケートボード・パークがあるロスの最大の利点は、そんなパークにプロ・スケーターたちやうまいスケーターたちが頻繁にやってくることだ。

スケボーパークには多種多様な老若男女の姿

中でもスケーターたちの聖地といわれるのがベニスビーチのスケートボードパークである。現地に行ってみると、平日の昼にもかかわらず30人ほどの老若男女のスケーターたちが滑っていた。


スベニスビーチには、年齢、人種、性別、体型、ファッション、実に多様性豊かなスケーターたちが楽しんでいた(写真:筆者撮影)

年齢は7歳の男児から60代の女性までと実に幅広い。白人、黒人、ラテン系、アジア系など、さまざまな人種、あらゆる体型のスケーターたちが仲良く声をかけ合い、笑顔だ。ロスのスポーツ風景はこれまでかなり見てきたつもりだが、これほど参加者の多様性が豊かなスポーツを目の当たりにしたのは初めてだ。

海岸の砂浜の中に、階段や手すりなどがあるストリート型の設備と、複数の深い鉢状のパーク型の設備があり、どちらも無料で滑ることができる。パークの外側の手すりをぐるっと観衆や観光客が取り巻き、技が決まるたびにヒューッっと歓声が上がる。まるで野外劇場のような空間だ。

「うちの息子たち、10時間ぐらい平気でずっと滑ってるよ」と言うのはブラジル出身でベニス住民のマルセル・ボルペさんだ。10歳の長男カウエ君と7歳の次男ザイアン君は大人に混じっても臆することなく次々に技を披露している。


ベニスビーチのスケートパークで。父のマルセル・ボルペさんと10歳の長男カウエ君、後ろが次男で7歳のザイアン君(写真:筆者撮影)

父親であるマルセルさん自身はスケーターではなくサーファー歴40年。いい波が来ると、なじみの仲間たちに子どもたちの面倒を頼んで、目と鼻の先の海に、ちょっと波乗りに行くこともある。なぜ息子ふたりがスケートボードにはまったのかと聞くと「スリルがあって自由で、型破りな雰囲気で楽しいんだろうね」と答えた。

バック・フリップを覚えつつある次男ザイアン君の滑りをスマホで撮影するマルセルさん。その映像を息子のインスタグラムにアップしていた。「最近作ったばっかりのアカウントなんだけど、誰か見てくれればいいなと思って」と見せてくれた画面のザイアン君の技のビデオは、すでに72人が視聴済みだった。

まったくの無名のほぼ初心者の7歳男児の滑りをこれだけ多数の人が見ていることに驚く。ビデオの下につけた「ベニスビーチ」のハッシュタグが絶大な効果を生んでいるのか?

何度も何度もコンクリートの上で転び、その度にすぐ立ち上がって再び滑り出す兄弟たち。防護用のヘルメットを被っているのは彼ら2人と数人だけだが、大人のスケーターたちは、彼らを子ども扱いすることなく、1人前のスケーター同士として対等に接しているのが、態度や声かけから伝わってくる。

「聖地」の問題は治安の悪化

「長男は手を骨折して2カ月ほどボードに乗れなかったけど、ギプスが取れたらすぐ練習したがった」とマルセルさんは言う。

観光客で賑わうベニスビーチはコロナ禍でホームレスの人々が急増し、昨今はドラッグ問題など治安が悪化し、先日は殺人事件と傷害事件が起きたばかりだ。


聖地とされるベニスビーチのパークのほか、ロス市内には21の公営スケボーパークがある(写真:筆者撮影)

「親の目が届き、常連スケーターの多いこのパークで滑るのはいいけど、近所の路上で滑るのは危なすぎるからうちの子には禁じてる。自治体はホームレスの人々への住宅支援をもっとしてほしいよ。以前は、自治体がこのパーク自体も毎日高速洗浄していたけど、そんなサービスも最近はないし」と住民のマルセルさんは言う。

この「聖地」ベニスビーチからクルマで1時間半ほど北西の内陸部にあるシーミーバレーには、「スケートボーディング・ホール・オブ・フェーム博物館」がある。

館長のトッド・ヒューバーさん(56)は、1950年〜1960年頃に使われていた古い手作りスケートボードを30年間以上かけて蒐集し、5000点以上を展示している。


スケートボーディング・ホール・オブ・フェーム博物館館長のヒューバーさん(写真:筆者撮影)

スケートボードがいつから始まったかは諸説あって誰も本当のことを知らない。僕が初めてスケートボードを体験したのが1971年で6歳のとき。母がボードを買ってきてくれた。学校に持っていって滑って遊んでいたら、先生に怒られた。それでよけい大好きになったよ」

シーミーバレーの街は海から離れた土地のため、サーファーに憧れていたヒューバー少年は、サーフィンに動きが似ているスケートボードにのめり込んだ。「用水路とかドブ川の縁のコンクリートで毎日滑りまくった。それ以来、今もずっと滑ってる」。

当時からさらに20年前の1950年代には既製のスケートボードはまだ存在せず、人々はローラースケートの車輪を切って、小さな板に車輪を貼り付けて、それをボードにして乗っていた。彼はそんなヴィンテージの手作りボードを集め続けてきた。

「ガタガタで酷いシロモノだが、それでも当時これで滑るのは楽しかったんだろうね。カリフォルニア住民は、誰もが人生に一度は必ずスケートボードを体験しているはずだよ」

ヒューバーさんがスケートボードの博物館を個人で作ってしまうほど、このスポーツを愛している理由は、自由で型破りで滑りに無限の可能性があるからだと言う。

「例えばフィギュアスケートなら、3回転の一番難しい技はトリプルアクセルでそれ以上はない。回転の方向は一定で、いつも同じ。つまり次にどんな技が出るか観客は予測できちゃう。でも、スケートボードは違う。『スイッチ』と呼ぶ逆軸足バージョンでもできるんだ。まるで右利きの人が左手で字を書くように、瞬時に軸足を切り替えて、反対方向に動くことができる。こんなに自由でスリルのある競技、ほかにはないよ。雪や土や水ではなく、コンクリートに直接叩きつけられて、骨が折れるかもしれない危ない競技って、ほかにある?」

失敗のほうが多いから互いにリスペクトしあう

また、ボード1つさえあれば、ほかには金銭的負担がかからないため、経済格差が障壁にならないスポーツでもあるとヒューバーさんはいう。


こんな形の自作スケート・ボードも昔存在した(写真:筆者撮影)

前述のコーチのバスクさんいわく、もしあまりにもボロボロなボードを使っている子どもがいたら、周囲のスケーターたちが、その子に自分のボードを譲ることも多いという。

「このスポーツでは、技が成功する数よりも、失敗して身体が固い道に叩きつけられる数のほうが圧倒的に多い。何度失敗しても立ち上がる。それは人生とまったく同じ。それをスケーターたちはみんな理解しているから、互いに優しくリスペクトしあうんだ」

コロナ禍のロックダウンの中、ヒューバーさんの博物館と併設するスケート場兼スケート用具ショップは約1年間の間、営業できなかった。やっと最近営業を再開したばかりだ。
 
この先、何歳になっても板に乗って滑り続けるつもりだとヒューバーさんは言う。「転んで満身創痍になっても、すぐ立ち上がってまた滑っていく。カリフォルニアで育った自分は、そういう生き方しか知らないから」。