天下分け目の攻防戦!陥落する城から脱出した少女の回想記「おあむ物語」

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戦国時代のハイライトと言えば、やっぱり合戦。時代劇や大河ドラマでも、合戦シーンのあるなしでは盛り上がりが断然違いますよね。

野戦に城攻め、夜討ち朝駆け、さまざまな場所や状況で鎧武者たちの死闘が繰り広げられる一方で、最前線からちょっと引いた舞台裏(?)はあまり描写されません。

逃げ惑う人々。勝っても負けても、戦争とは悲惨なものである(イメージ)。

たまに混乱の中で村人やお姫様など非戦闘員が逃げ惑っていることもありますが、画面映えしないし視聴者のテンションも上がらないので、脚本家の好みによって「戦争は悲惨なんだよ」と添えられる程度です。

しかし、彼ら非戦闘員も最初から逃げ惑うばかりではなく、場合によっては戦闘員をサポートするなど、村や御家の存亡をかけた総力戦に参加していました。

今回はそんな合戦絵巻の舞台裏を伝える『おあむ物語』を紹介したいと思います。

父・山田去暦と共に大垣城へ

おあむ、とは本作のヒロインを指し、漢字では「御庵(おあん)」と書きますが、これは本名ではなく、庵に隠棲する老婦人に対する敬称です。

つまり物語はリアルタイムではなく、幼かったころの合戦経験を幼子らに語り聞かせる形となっています。

子どもあつまりて。おあん様。むかし物がたりなされませといへば。おれが親父(しんぶ)は……

【意訳】
子供たちが集まって「御庵様、昔話をお聞かせ下され」とお願いしたところ、「私の父上は……」

『おあむ物語』はこのように始まり、若き日の思い出が語られるのですが、果たして彼女(※便宜上、名前をおあんとします)はどんな体験をしたのでしょうか。

おあん達が立て籠もった大垣城。

……時は慶長5年(1600年)9月。美濃国大垣城(現:岐阜県大垣市)に山田去暦(やまだ これきorきょれき)という武士がおりました。

近江国彦根(現:滋賀県彦根市)の出身で石田三成(いしだ みつなり)に仕えておりましたが、天下分け目の関ヶ原(せきがはら)合戦では主戦場より東方の大垣城に配置されます。

「ははぁ……粉骨砕身、何としても敵を食い止めまする!」

去暦は決死の覚悟で妻と3人の子供を連れて大垣城に入りました。おあんは去暦の長女で当年17歳(天正12・1584年生)、他に兄・山田助丞(すけのじょう。生年不詳)と14歳の弟(本名不詳。天正15・1587年生)がいました。

「母上、怖い……」

「そのような事ではなりませぬ。そなたたちもお侍の方々を助けて、立派に戦い抜くのですよ」

かくして9月15日の払暁、合戦の火蓋が切って落とされたのでした。寄せ手は水野日向守勝成(みずの ひゅうがのかみ かつしげ)以下11,000に対して、城方は福原右馬助長尭(ふくはら うまのすけ ながたか)率いる7〜8,000。

古来、城を攻め落とすには10倍以上の兵力差が必要と言われており、1.5倍程度の兵力差では、なかなか攻めあぐねたことでしょう。

生首の中で寝起きする日々…後方支援も大忙し

さて、去暦たちが前線で奮闘している最中、後方ではおあんたちも自らの任務に励んでおりました。その中の一つに「首級のメンテナンス」があります。

『おあむ物語』より、首級のメンテナンスに勤しむ女性たち。

味方が前線から持ってきた首級に、名前などを記した首札(くびふだ)をつけて帳面につけ、論功行賞の参考とするのです。

※首級の取り扱いについてはこちらも参考に。

戦国時代、討ち取った敵の首はどうなる?首級が本物か確認する儀式「首実検」とは

また、ちょっとでも評価が上がるよう、討ち取った敵が立派だったとアピールするため首級はキレイに洗って死化粧を施し、お歯黒までつけたと言います。

(※当時、身分の高い者は貴族だけでなく武士でもお歯黒をしていました。ちょっと意外な気もしますね)

とつた首を。天守へあつめられて。それそれに。札をつけて。覚えおき。さいさい。くびにおはぐろを付て。おじやる。それはなぜなりや。むかしは。おはぐろ首は。よき人とて。賞翫(しやうくわん)した。それ故。しら歯の首は。おはぐろ付て給はれと。たのまれて。おじやつたが。くびもこはいものでは。あらない。その首どもの血くさき中に。寝たことでおじやつた。

【意訳】
討ち取った首級を天守閣に集め、それぞれ首札をつけて細かく記録した。首級にお歯黒をつけるのはなぜか?昔はお歯黒が貴人の証しであったから、白い歯の首級はお歯黒をつけるよう言われたが、少し慣れると生首も怖くなくなり、その血腥い中で寝起きしていた。

また、怖くなくなったと言えば、最初は城内へ撃ち込まれる鉄砲や石火矢(いしびや。大砲)の轟音に生きた心地もしなかったそうですが、それが何時間も何日も続くと不思議なもので、だんだん感覚が麻痺して何とも思わなくなったそうです。

むしろ城内へ撃ち込まれた弾丸や砲弾をせっせと回収して熔かし、用意した型に鋳込んでリサイクルしていたと言いますから、そのしたたかさには感心させられます。

明日は落城…差し伸べられた救いの矢文

さて、そんな調子で徹底抗戦していた大垣城でしたが、調略によって城将が次々と寝返り、また誘いに乗らなかった者たちは一網打尽に謀殺された結果、総大将の福原長尭を除いて指揮官がほとんどいなくなってしまいました。

日に日に銃撃も激しくなり、弾丸が天守閣にまで届くようになると、おあんの弟が被弾し、そのまま死んでしまいます。

この分なら、明日にはいよいよ落城だ……覚悟を決めたある夜のこと、おあん達の元へ父・去暦がやって来ました。

「よく聞け……今夜、城より落ちる。他言は無用ぞ」

話によると、去暦が守備する城門へ一通の矢文が射込まれ、そこにはこう書かれていました。

三成のライバル・徳川家康。ここ一番でコネが活きて、命拾いのチャンスが得られた。

去暦事は。家康様御手ならひの御師匠申された。わけのあるものじやほどに。城をのがれたくは。御たすけ有べし。何方へなりとも。おち候へ。路次のわづらひも。候まじ。

【意訳】
あなた(去暦)はかつて、家康様に手習いを教えられたとのことで、家康様も殺すに忍びないと仰せである。もし城を脱出するなら、身柄の安全を保障しますから、どこへでも落ち延びて下さい。

矢文の主は田中兵部(たなか ひょうぶ。吉政)とのことで、この時は近江国の佐和山城(現:滋賀県彦根市)を攻めていた筈ですが、ともあれ、おあんの記憶ではそうだとの事です。

(※)一説には、大垣城にいたというおあんの記憶違いで、本当は佐和山城にいたのでは?とも言われています。

「そう言えば、先刻不思議なことがございました……」

真夜中(九つ時分。午前0:00前後)になると、男女30名ばかりが「田中兵部どのゝう、田中兵部どのゝう……」と叫び声を上げたと思ったら泣き出して……他の者に確認しても「そんな声は聞こえなかった」とのこと。

「これはきっと、田中兵部殿がお助け下さることの暗示だったのかも知れませんね」

「ともあれ、決行は今夜。持ち物は最低限とし、断じて口外するでないぞ」

『おあむ物語』より、大ダライを漕いでお堀を渡る場面。

さて、いよいよ大垣城からの脱出です。去暦はじめ妻と兄とおあんの4名は天守閣の西側から大ダライを吊り下げ、1人ずつ漕がせて渡らせることに成功します。

「よし、急げ!」

約束どおり敵兵が見逃してくれたので、大急ぎで城から脱出。北へ5、6町(1町≒約109m)ほども走ったところ、にわかに産気づいた母が出産。女の子でした。

逃亡中なので満足な用意もなく、田んぼの水で産湯をつかうような状態でしたが、ともあれみんな無事に逃げ延びることが出来たのでした。

エピローグ

それからと言うもの、浪人となった去暦一家は土佐国(現:高知県)で仕官していた親族の雨森儀右衛門(あめのもり ぎゑもん。氏行)を頼って移住。

「何とか口利きを……」

「ならば相応の礼を……」

と言ったかどうだか、おあんは儀右衛門に嫁ぐこととなり、お陰で兄の助丞は土佐の大名・山内一豊(やまのうち かずとよ)の馬廻役に取り立てられたのでした。

『おあむ物語』より、這う這うの体で大垣城を脱出。

「それまでは着るものも食べるものも、本当に苦労したものでした……」

何かにつけて昔の苦労話を引っ張り出して、子供たちの好き嫌いや贅沢などを戒めたため、この土地ではそういう行為や人を「彦根婆(ひこねばば。おあんの故郷)」あるいは単に「彦根」と言うようになった、と言われるそうです。

その後、おあん達が天寿をまっとうできたのかは知られていませんが、山田家の子孫は代々土佐藩に仕え、近現代に至るまで活躍してます。

※参考文献:
中村通夫ら校訂『雑兵物語 おあむ物語 附おきく物語』岩波文庫、1943年5月
『高知県人名事典新版』刊行委員会『高知県人名事典』高知新聞社、1999年9月