戦国時代のハニートラップ!日本初の火縄銃づくりに貞操を捧げた17歳の乙女「若狭」【後編】

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前回のあらすじ

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戦国時代の天文12年(1543年)、南蛮人が日本へ持ってきた火縄銃をどうにか国産したいと、主君・種子島時尭(たねがしま ときたか)より鉄砲づくりを命じられた鍛冶屋の八板金兵衛(やいた きんべゑ。清定)。

「もし戻せなくなったら困るから、分解は禁止な」

金兵衛に火縄銃の量産を命じた時尭(イメージ)。

モノの構造を知るには分解するのが手っ取り早いのですが、何せ1丁につき黄金1,000両(諸説あり)とも言われる超がつくほどの高級品ですから、万が一のリスクを心配するのも無理はありません。

「初見のモノを外から見ただけで、内部まで再現(≒想像)せよとは、御屋形様も無茶を仰せじゃ……しかし、こんな難問を申しつけられたのは、我が腕前を見込んでのこと……よぅし、オラわくわくしてきたぞ!」

……と思ったかはともかく、日本人らしい変t……もとい職人魂を発揮して火縄銃を徹底的に研究した結果、南蛮人から購入したものとそっくりな火縄銃を作り上げてしまいました。

「よっしゃあ、出来たぁ!」

しかし、銃身の底をふさぐ尾栓(びせん)の強度がどうしても出せず、発射すると底が抜けてしまって弾丸が飛び出してくれません。

「うーむ、ここ以外は完璧なんだけどなぁ……」

いくら悩んでも尾栓の課題だけは解消できず、それでも「分解だけはダメ!」と許可が出ません。そんな苦しむ父の姿を見かねて、声をかける者がありました。

父の鉄砲づくりに貞操を捧げる若狭の決意

「……父上」

金兵衛が顔を上げると、そこには17歳になる娘の若狭(わかさ。大永7・1527年生まれ)がいます。

「ん、何じゃ」

「鉄砲の秘密……わたくしが聞き出して参ります」

「誰に?」

「南蛮人にございます」

「伝手でもあるのか?」

「なければ……作るまでにございます」

南蛮人に嫁ぎ、遠く異国へ連れ去られる若狭(イメージ)。

何か嫌な予感がして問い質すと、若狭は自分が南蛮人に嫁ぎ、懇ろとなって火縄銃の秘密を聞き出そうと言うのでした。

「何をバカな!そなたが犠牲になる必要はない!そもそも、たとい嫁いだとしても、その南蛮人が知っているとも限るまい」

「……我が夫となった者を通じて、知っている者から聞き出せばようございます……ですから父上、どうか此度のこと、わたくしにお手伝いさせて下さいませ!」

それでも、得体の知れない南蛮人に大事な娘を嫁がせるのは忍びない……金兵衛は言葉を尽くして説得したものの、若狭は決して折れませんでした。

「……相分かった。左様に堅き決意なれば、ゆめゆめ無には致さぬ」

「……ありがたき仕合わせ……少しでも御恩を返せて、嬉しゅうございまする……」

かくして若狭は天文12年(1543年)8月、南蛮人フランシスコ(牟良叔舎)に嫁ぎ、あの手この手で火縄銃の秘密をすっかり聞き出したということですが、現代なら最先端の技術情報を盗み出すためのハニートラップとも言えそうですね。

答えは「ネジ」の技術だった!

さて、火縄銃の御栓をふさぐ秘密とは、何と「ネジ」の技術でした。

それまで金兵衛は銃身の底を鍛接(たんせつ。熱して打ち、鉄同士をくっつける≒ふさぐこと)しており、どれだけ丹念に打っても接合面が火薬の爆発力に負けてしまっていました。

しかし、素材同士が螺旋状に絡んでしっかりと噛みあったネジであれば、ネジ山(雄ネジ)とネジ溝(雌ネジ)が火薬の爆発力を分散・吸収して押し返し、弾丸を発射する推進力とできるのです。

(※解りやすいよう、ごくざっくりと紹介していますので、専門的なツッコミはご容赦願います)

果たして金兵衛が日本で初めてとなるネジ技術を用いて尾栓を作ってみると、とうとう発射に成功。何度撃っても暴発しない強固な銃身を実現できたのでした。

親子愛の結晶?ついに完成した火縄銃(イメージ)。

「ついに出来たぞ!若狭。そなたのお陰じゃ……」

南蛮船に乗って嫁いでいってしまった愛娘に感謝しながら、遠く南洋に目を向けた金兵衛でしたが、その翌年(天文13・1544年)に若狭はあっさり帰って来ました。

「……もはや我慢の限界にございまするっ!」

「そうか……しからば、病にて亡くなったことと致そう……」

再会から数日後、夫・フランシスコを欺くために若狭の葬儀を執り行い、わざわざ棺に納めて埋葬(のフリ)をしたそうです。

「何だ、鉄砲の情報を聞き出すためだったのか!とんだ茶番につき合わされたモンだぜ!」

……天文13年蛮船に駕し来り父子相見る。数日して若狭大病にて死亡たると詐り、棺槨を当てて殯葬す。蛮人これを見て涙を流さず……
※「八板家系図」より。

【意訳】天文13年に若狭が帰ってきて、父娘の再会を果たした。その数日後、若狭が病死したと偽って棺に納め、葬儀を上げた。南蛮人は(呆れて)涙も出なかった。

そりゃそうですよね。フランシスコ氏もお気の毒に……と思わなくもありませんが、そもそも価値観も習慣も、それこそ言葉も人種も何もかも違う同士の結婚ですから、よほどの愛情がなければ乗り越えられないであろうことくらい、予測できそうなものです。

まして大航海時代の白人と言えば世界中を侵略し、有色人種を片っ端から奴隷としていましたから、もしかしたら若狭は南蛮人の妻ではなく、女奴隷くらいにしか思われていなかった?のかも知れません。

エピローグ

月も日も 大和(やまと。日本)の方ぞ なつかしや わが双親(ふたおや。両親)の あると思えば

若狭

右側の石碑かと思いきや、左側に生えているソテツの根元にある小さな石が若狭の墓。ソテツというのが南国らしい。Wikipedia(撮影:みっち氏)より。

ともあれ、若狭が捨て身の覚悟で南蛮人から聞き出したネジの技術は、火縄銃の量産化を進めると共に、日本のものづくりを大きく発展させることとなりました。

若狭の没年については未詳ですが、その墓所は鹿児島県西之表市にあり、今も蘇鉄(ソテツ)の陰から人々を見守っています。

【完】

※参考文献:
佐々木稔『火縄銃の伝来と技術』吉川弘文館、2003年3月
徳永和喜『種子島の史跡−歴史寸描』和田書店、1983年9月