卑弥呼のモデルとされる「倭迹迹日百襲姫」とはいったい誰?正体を日本書紀の記述から推測【後編】

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日本古代史最大の謎とされる邪馬台国女王の卑弥呼。その有力なモデルと目される倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)の正体とは?後編では、『日本書紀』に書かれた記述を紐解き、その核心に迫っていきましょう。

【前編】の記事はこちら

卑弥呼のモデルとされる「倭迹迹日百襲姫」とはいったい誰?正体を日本書紀の記述から推測【前編】

大物主神のお告げの意味するもの

実在する最初の天皇と考えられている第10代崇神天皇。(写真:wikipedia)

 

『日本書紀』によると崇神天皇5年の条に、国内に疫病が大流行し、多くの人が死に絶えるという惨事が起こったとされます。

天皇は、八百万の神を集め占ったところ、大物主神が倭迹迹日百襲姫に憑依し「我を敬い祀れば、必ず国中に平穏が訪れるであろう」と語った。

天皇はすぐさま大物主神を祀ったが、何の変化も起きなかった。そこで、さらに祈ったところ、大物主神が天皇の夢の中に現れ「我が子の大田田根子に我を祀らせれば、たちどころに国中は平穏を取り戻すだろう」と告げた。

天皇は大田田根子を探し出し、大物主神を祀らせたところ、疫病の流行が終息、国中が平穏を取り戻し、五穀豊穣に恵まれた。

大物主神(おおものぬしのかみ)とは一体どんな神様なのでしょうか。実は、国造りの神である出雲大社(いずもおおやしろ)の祭神・大国主神と同一神なのです。

出雲大社の祭神・大国主神。(写真:wikipedia)

『古事記』にも大物主神が登場し、大国主神が国造りに頓挫した時、大物主神が現れ、協力して国造りと助けたとあります。また、『日本書紀』には、大物主神は大国主神に対し「私はあなたの幸魂奇魂(さちみたまくしみたま)※注1である」と言ったと記されています。

大物主神は『記紀』が成立する前から、大国主神と同一神であると認識され、三輪山(みわやま)には出雲の神が祀られていたのです。

そして、この伝説で注目すべきは、倭迹迹日百襲姫が大物主神の神意を語ったのに何も効力がなく、天皇自らが受けたお告げが効力を発揮したという点です。

崇神王朝内におけるシャーマンとしての倭迹迹日百襲姫の存在に、何やら暗い影が見え始めているようです。

※注1:さちみたまは、運により人に幸福を与える神力。くしみたまは、奇跡により人に幸福を与える神力。

出雲の神を牛耳るヤマト政権

出雲国造家が代々宮司を務める出雲大社。(写真:出雲大社)

 

さらに、『日本書紀』崇神天皇60年の条に記された記述を紹介しましょう。

崇神天皇は、出雲国造家の祖である出雲振根(いずものふりね)に命じ、出雲大社の神宝を献上するように命じた。命令に従い、出雲振根の弟が神宝を献上した。この時、振根は九州に行っていて出雲を留守にしていたが、戻ってくると、勝手な行いをしたとして弟を殺害した。

怒った崇神天皇が、振根を討伐したため、出雲臣はしばらくの間、出雲の神を祀ることをしなかった。その後、出雲の神にまつわる神託を得たため、崇神天皇は、再び出雲臣に出雲の神を祀らせた。

かつて崇神天皇があれほど祟りを怖れた出雲の神(大物主神)をヤマト政権が完全に牛耳っているのです。もはや、ヤマト政権と出雲の神は一心同体といってもいいほどの関係になっていることにお気づきでしょうか。

大物主神の正体を知って死んだ倭迹迹日百襲姫

箸墓古墳から三輪山をのぞむ。(写真:wikipedia)

最後に倭迹迹日百襲姫が箸墓に葬られた経緯を述べた『日本書紀』の有名な箸墓伝説の意味を考えてみましょう。

倭迹迹日百襲姫は三輪山の大物主神の妻となった。神は日没後に姫のもとに通い、夜明け前に帰ってしまう。そのため、姫は神の姿をはっきり見ることができなかった。

姫は「あなたの麗しいお姿を見たいので、朝まで留まってください」と嘆願した。神は「明日の朝、櫛笥(化粧箱)の中にいよう。ただし、私の姿を見ても決して驚かないように」と答えた。

その言葉を聞いた姫は、怪しみながらも朝になって櫛笥を開けた。するとそこには小さな蛇がいた。驚いた姫が思わず叫ぶと、蛇は人の姿に変わり「私に恥をかかせたな。今度はお前に恥をかかせてやろう」と言って、天空を踏んで三輪山に登って行った。
悔やんだ姫は箸を立て、女陰をついて死んでしまった。

箸墓伝説によると、倭迹迹日百襲姫は、自分の夫が三輪山の神(大物主神)であることを知り、驚き死んだ(自害した)ということになります。

つまり、崇神王朝が神として祀った三輪山の神、すなわち出雲系の神である大物主神を受け入れられずに死んだのです。

箸墓伝説が語ることとは?

大神神社の摂社狭井神社にある三輪山登拝口。(写真:T.TAKANO)

この伝説は、邪馬台国の鬼道、すなわち卑弥呼と同様の祭祀を行うシャーマンだった倭迹迹日百襲姫が、ヤマト政権が出雲系の新たな神を祀り始めたために、排除されてしまったと考えるのが妥当ではないでしょうか。

このように考えると、倭迹迹日百襲姫の正体は卑弥呼か、その宗教的な権威を引き継いだ2代女王の台与となるのです。

ただ、崇神天皇の在位は、3世紀後半から4世紀前半のため、3世紀中頃に没した卑弥呼では時代が合いません。そうすると、倭迹迹日百襲姫は台与の可能性が強くなります。

『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫にまつわる伝説は、ヤマト政権の黎明期、宗教的権威を失うことによって起きた、邪馬台国の終焉を意味していると考えられるのではないでしょうか。

2回にわたり、ご愛読をいただきありがとうございました。