衣食住の充実はもちろん、好きなモノが買えるようにはなりますが……(写真:Pekic/iStock)

「もう少し年収が増えたら幸せになれるのに」「もっと給料が高くなったらいいな」

このように思ったことはありませんか? おそらく、多くの人が、「ある」と答えるのではないかと思います。

人々がどうしたら幸せになれるのか。「年収1億円で劣等感ある人が不思議じゃない訳」(2020年5月30日配信)に続いて、科学的データや統計データを用いて論じた『年収が増えれば増えるほど、幸せになれますか?』から一部を抜粋し、お金と幸せの関係性について明らかにします。

幸せなお金持ちはお金にとらわれていない

前回の記事では、お金、社会的地位、モノなど他人との比較によって満足を得られる「地位財」による幸福は長続きしない、ということを説明しました。

どんなに年収が上がっても、モノによって得られる幸せばかりを追い求め、他人と自分を比較し続ける限り、幸せを感じにくくなる、という研究結果が出ているのです。

しかし、誤解のないように言っておきますが、お金持ちが全員、不幸なわけではありません。個人差があります。幸せの秘訣を目指しているかどうかが分かれ目だと思います。もちろん、私の知り合いにも、幸せなお金持ちはたくさんいます。

ここで重要なのは、幸せなお金持ちは、お金を持っているから幸せなのではない、ということです。幸せなお金持ちの共通点は、お金にとらわれていないことです。おそらく彼らは、全財産を失ったとしても幸せでいられるでしょう。

裏を返せば、「お金があるから幸せ」と思っているお金持ちは、幸せになれないということです。お金持ちだけではありません。私たち庶民も、「お金があれば幸せになれるはず」と思っていると幸せになれないのです。

私はよくこんなことを思います。風呂に入って目を閉じて「いい湯だなあ」と思うときの感覚は、家賃5万円のアパートの風呂だろうが、家賃100万円のタワーマンションの風呂だろうが、一緒だと。

タワーマンションのほうが多少広いとか、ジャグジーやテレビがついているとか、それくらいの差はあるでしょう。でも、タワーマンションは家賃が20倍だから、20倍気持ちいい、ということはありません。20倍高いソファも、20倍高い車も、20倍幸せだとは私には思えません。

このように、みなさんも例えば年収1億円の生活がどんなものか、想像してみるといいと思います。使えるお金が今より20倍になったと考えてみるのです。

もし家のない人がいたとして、その人が家を手に入れたら、幸福度は一気に20倍くらい上がるかもしれません。しかし、そのあとは緩やかなカーブになり、やがて幸福度には寄与しなくなるのです。

ワインでたとえれば、お酒を買うお金のない人が500円のワインを手に入れたら、幸福度はぐんと上がるでしょう。普段500円のワインを飲んでいる人が、ぜいたくをして2000円のワインを飲むと、多少、幸福度は上がるかもしれません。

しかし、50万円のワインと100万円のワインの比較になると、ソムリエやワイン通でなければ値段の区別はつかないでしょう。普通の人がブラインドテストをされたら、どちらがどちらだかわからない人も多いでしょう。

図に描くと下図のとおりです。ワインの値段が上がっていくと、これに比例して満足度が上がっていくのではなく、だんだんと上昇率が低くなっていくのです。


(外部配信先では図やグラフを全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)

つまり、幸福度は直線ではないのです。お金があればあるほど、高価なものであればあるほど、青天井に幸せになれる気がしますが、実はだんだんと幸せには影響しなくなっていくのです。専門用語では非線形性(線形=直線。つまり、非線形=直線ではないこと)と言います。人間の心は非線形なのです。実はこの人間の心の非線形性の解明こそ、プリンストン大学名誉教授のダニエル・カーネマンがノーベル経済学賞を受賞した研究なのです。

お金と幸福との関係を考えるうえで、心の非線形性はポイントになります。

年収7万5000ドルに「幸福度の壁」がある

年収にも同様の傾向があります。それを検証したのが、カーネマンが、調査会社ギャラップと共同で行った調査です。

次の図をご覧ください。カーネマンの研究結果を単純化して模式化したものです。年収7万5000ドルまでは、収入が増えれば増えるほど、幸福度も上昇しています。ところが、年収7万5000ドルを超えると、幸福度の上昇カーブが水平を描くようになります。


このラインを境に、幸福度と収入が比例しなくなるのです。まさに心の非線形性です。もちろん、これは平均値であって、個人差はあります。

また、この金額は、地域や職業によって、大きく異なります。マンハッタンのトレーダーなら100万ドルかもしれないし、「世界一幸せな国」と呼ばれているブータンの国民なら1000ドルかもしれません。

日本の一般的な会社員だと、いくらになるでしょうか。7万5000ドルを日本円に換算すると、約800万円です。アメリカの給与水準は日本より高く、国際比較は為替だけでなく購売力平価も考慮すべきなので、日本人に置き換えるともう少し低いかもしれません。

日本人の平均年収は、およそ440万円です。それよりちょっと上、500万〜600万円あたりが、一般的な日本人の「幸福度の壁」ではないかと思います。「7万5000ドル」という金額はあくまでアメリカでの研究結果なので、この金額が一人歩きしないほうがいいと思います。

ではなぜ、あるラインで幸福度が頭打ちになるのでしょうか。カーネマンは経済学者として、さまざまな学術的考察をしています。簡単にいうと理由は大きく3つあります。

1つはワインの例で述べたように、あるラインを超えると「ぜいたく消費」になるからです。今は1000円も出せば、プロのソムリエは別としても、私たちにとっては悪くないワインを手に入れることができます。それが1万円のワイン、10万円のワインになったところで、幸福度は10倍、100倍にはなりません。

「ぜいたく消費」は、一見うらやましいと思いがちですが、実際にやってみると、想像するより幸福度は高くないのです。

また、1000円のワインを飲んで「最高に幸せだ」とアンケートに答える人は、3000円のワインを飲んでも、1万円のワインを飲んでも、「最高に幸せだ」と答えるはずです。これは統計調査の限界でもあるのですが、例えば7段階で聞いているとすれば、それより上の8段階目はないのです。よって、どこかで必ず頭打ちになってしまう。

一方、1000円のワインを飲んで「美味しくない、もっと高いワインが飲みたい」と思う人は、1万円のワインを飲んでも、10万円のワインを飲んでも、「こんなの嫌だ、もっと高いワインが飲みたい」と思うでしょう。1000円の自分にも、10万円の自分にも満足できない。やはり幸福度が頭打ちになってしまいます。

これこそが、多くの人が憧れる「ぜいたく消費」の正体といえます。華美な宣伝、広告、メディアの煽りに騙されないでほしいと思います。ぜいたく、ゴージャス、プレミアム感、ラグジュアリーを煽る広告は多いですが、これらは長続きしない幸せしかもたらさないのですから。

「満足」は幸せの一部分にすぎない

もう1つの理由は、年収が上がることによって満たされるのは満足度だけで、幸福度そのものではないということです。

満足度というのは、どう取るかにもよるのですが、使えるお金、住む家、乗っている車、食べるものなど、「さまざまなことがらにどれだけ満足しているか」を示す指標です。

一方、幸せは、幅広い要素によって成り立っています。生活満足度、人生満足度、職場満足度、健康満足度、感情的満足度、将来満足度など、いろんな満足が合わさって、初めて「自分は幸せだ」と言えるのです。下図に示したように、幸せとは、さまざまな満足の集合体なのです。満足は部分的指標、幸せは全体的指標なのです。


わかりやすく言うと、いい家に住んで、高級なものを食べて生活満足度が高くても、孤独で、気分が滅入っていて、感情的満足度が低ければ、それは常識的に考えて幸せではありません。幸せというのは「合わせ技」なのです。

また、満足度には「持続時間が短い」という特徴があります。いい家に住んで、いい車に乗ると、最初は嬉しいかもしれませんが、やがて飽きてしまう運命にあるのです。思い当たる方も少なくないと思います。

奮発して、20万円の高級ソファを購入したとします。届いてしばらくは、「なんて座り心地がいいんだ」と満たされた気分になるでしょう。しかし、すぐにそれが当たり前になってしまいます。1年経っても、座るたびに「幸せだなあ」と思う人はほとんどいないでしょう。

経済学の専門用語では、「限界効用逓減の法則」といいます。幸せというのは、だんだん得られなくなっていくことが科学的にわかっているのです。

飽きてくると「もっと欲しい」と思ってしまう

その原因の1つは、飽きてくると「もっと欲しい」と思ってしまうことです。あんなに欲しかった20万円のソファが色あせて見え、50万円のソファ、100万円のソファが欲しくなる。

満足度を追求することは、極端に言えば、ドラッグの依存症のような状態を招くことでもあるのです。

一方、幸せというのは、長期にわたって安定的に心を満たしてくれるものです。家族や友人とのつながり、積み上げてきた仕事への充実感、美しい自然とのふれ合い。

これらはお金で買うことはできません。数字に置き換えることもできません。満足度は他人と比べることができるもの、幸せは他人と比べられないもの、ということもできるでしょう。

満足は幸せに関係ない、と言っているわけではありません。幸せを構成する一部分にすぎない、と言っているのです。収入が極端に低かったり、家がなくてインターネットカフェで寝泊まりしていたり、日々の食事に困っていたりすれば、当然それは幸せな状態とは呼べません。

満足度が低くても幸せなら、福祉なんていらないじゃないか、生活保護の受給額も下げればいいじゃないか、というのではありません。逆です。格差が拡大している今、貧困にあえいでいる人たちに手を差し伸べることは、むしろ急務です。

幸福度が頭打ちになる3つ目の理由は、私たちの心理にひそんでいます。それは、先ほどのカーネマンが提唱した、「フォーカシング・イリュージョン」と呼ばれる、心の特徴です。

フォーカシング・イリュージョンを日本語にすると「焦点化の幻想」、つまり間違ったところに焦点を当ててしまう、という意味です。カーネマンは次のように述べています。

「人は所得などの特定の価値を得ることが必ずしも幸福に直結しないにもかかわらず、それらを過大評価してしまう傾向がある」

私たち人間は幻想に踊らされ、焦点を当てるべきところを間違えがちである。そう警告しているのです。

「○○なら幸せ」は不幸の始まり

日本人は他の先進国と比べ「もう少し年収が増えたら幸せになれるのに」と、間違った幻想を抱きがちというアンケート結果がでています。その意味では、日本人はフォーカシング・イリュージョンに陥りがちな国民と言えるかもしれません。

同じことは、お金以外にも言えます。近年、婚活が流行っているようですが、婚活にいそしむ人の中には、「結婚できたら幸せになれるのに」と考える人が多いと思います。これもフォーカシング・イリュージョンの典型例でしょう。


カーネマンは、「ヘドニック・トレッドミル」という表現もしています。私はこの言葉を「快楽のランニングマシン」と和訳しました。

つまり、ニンジンを目の前にぶら下げられながら、ランニングマシンで走っている状態です。走っても走っても、ニンジンを手に入れることはできません。

こうした「○○なら幸せなのに」という考え方は、人間を不幸にします。裏を返せば、「○○でないなら幸せではない」すなわち「〇〇でない今の自分は幸せではない」ということになるからです。つまり、今の自分はだめで、別のほかの状態はいいはず、という深層心理が根底にあるからです。幸せに特定の条件をつけるのは、不幸の始まりなのです。