日本の教育システムでは、受験勉強に興味を持てなかったり、不登校になったりすると這い上がるのが難しい。立命館アジア太平洋大学(APU)の出口治明学長は「日本の教育には歪みがある。そのなかで通信制の“N高”から、今年ついに東大生が生まれた。いまの仕組みを考え直す時期が来ている」という--。
撮影=藤原武史
APU学長の出口治明氏 - 撮影=藤原武史

■日本の教育「親の格差を縮めることはできない」

日本は格差社会です。

『教育格差』(ちくま新書)を書いた早稲田大学准教授の松岡亮二さんが述べているように、どんなデータを取っても、親の学歴や所得、住んでいる地域によって子供には教育格差が生じる。これは“教育機会”の差でもあり、その後の学歴格差や収入格差へとつながっていきます。

日本は、人生の早い段階で子供の歩むコースが決まってしまいます。たいていの子供は近くの公立小学校へ通いますよね。小学校の先生は落ちこぼれをつくらないように、格差を縮めようと努力します。

でも、どんなに先生が頑張っても、家庭での教育格差や所得の格差を縮めることはできません。幼少期の環境、家庭での会話や、どんな文化に触れさせるかによって格差は拡大していくのです。

中学では、とくに都市部の場合、学力の高い生徒を私立に奪われます。そのため、公立中学の生徒は高くないレベルで均一化する。

もちろん公立中学にも優秀な生徒はいます。そういう子供は東京の場合だと、日比谷高校や西高校などに進学します。学校群制度がなくなったことで、公立高校は学力が高い子供が行く進学校とそうでない子供が行く底辺校に二極化され、格差がますます顕著になっていく。これが日本の教育の現状です。

こうした日本の教育格差の全体像を俯瞰し、政策を打たなければならないと松岡さんは指摘しているわけです。

■センター試験なら本人の努力で格差を埋められる

それにもかかわらず、国は格差をさらに助長するような教育改革を進めようとしています。

文部科学省は2020年度から大学入試センター試験を取りやめ、「大学入学共通テスト」を導入する予定でした。制度の不備が指摘され、結局は取りやめになったものの、共通テストでは国語と数学に記述式問題を導入し、英語は民間試験の成績を入試に利用する新たな仕組みを設けるというのです。

記述式を導入すれば当然、採点に時間がかかります。50万人以上が志願する共通テストで、公平にブレなく採点できるのか。ただし、フランスの大学入学に必要な「バカロレア」は70万人くらいの受験者に記述式問題を課していますので、採点方式などをもっと学ぶ必要があると思います。

また、英語に関しては民間試験を入試に利用する場合、「大学に提出する成績は2回」と決められています。受験回数には制限がないので何度でも挑戦できる受験生が有利です。

受験料は試験によって異なりますが、TOEFLだと1回受験するのにおよそ2万5000円。会場は各地の主要都市に限られます。交通費や受験費用を考えると、まさに住んでいる地域や親の経済力がダイレクトに教育格差につながってしまいます。

その意味で僕は今の大学のセンター試験はある程度公平な仕組みだと思っています。マークシート式であればブレなく採点できるし、民間試験を複数回受けられるかどうかなどの格差も生まれにくい。本人の努力次第で地域格差や親の所得格差を埋めることができます。

■経験値が低いとAO入試を通過するのは難しい

逆に国公立、私立大学問わず導入が増えているAO入試はある意味格差を拡大する方向にベクトルが傾きます。

一般的にAO入試は、一発勝負の学力試験を課さない代わりに、高校の調査書や、学業以外の活動実績、志望理由書などの書類審査と、面接での審査で総合力を見ていきます。

そうなると、教育機会の格差がものを言う。親に経済力があって、小さい頃から沢山の本や文化・芸術に触れたり、習い事をしたり、海外研修や留学に行く機会があったりした子供の方が、多様な経験があり、AO入試には圧倒的に有利といえます。

また、試験会場で受験生が大人の面接官を相手に、緊張せず自分の考えをはっきりと簡潔に述べる能力を身につけるには場慣れが必要ですが、そういった能力も多様な経験を通じてこそ身についていくものでしょう。つまり、試験で総合力を要求すればするほど、格差は拡大していくといえます。

ただし、AO入試がすべて悪いわけではありません。大学側は、こういった教育格差が入試に影響するということを踏まえて、受験生にとってアンフェアな部分をできるだけ少なくする努力をすべきでしょう。

個人的な意見ですが、センター試験を高校卒業認定試験(旧大学入学資格検定試験=大検)と一本化すればいいと思います。そうすれば、不登校になり高校へ行けなかった子供も、自分で勉強してセンター試験にパスすれば大学へ進むことができる。

■N高は、社会の「はしご」である

子供にとって、敗者復活のチャンスが少ない社会は、絶望しかありません。

さまざまな理由で最初から底辺校にしか行けなかった子供は、どうしてもその後の選択肢が少なくなります。つまり逆転のチャンスがない。

一方で、進学校はひたすら偏差値重視です。学ぶことは嫌いでなくても、全員が東大を目指すような受験勉強に興味を持てない子供は、だんだんと落ちこぼれていきます。あるいは学校になじめなくて不登校になる子供もいるでしょう。

ベルトコンベヤーに乗れない子供に、これまでの日本の学校は救いの手を差し伸べることができませんでした。

しかし最近はKADOKAWAグループが開いた「N高等学校」(以下N高)のように、ベルトコンベヤーを外れた子供の受け皿となる学校が台頭してきています。N高は通信制高校の制度を利用した“ネットの学校”で、入試も設けていません。

そのような高校からでも、慶應義塾大学や早稲田大学、上智大学などの難関私大をはじめ、今年は東京大学に1人、京都大学に3人の合格者が出ています。

人間には能力差があります。短距離走ならどんなに練習してもおそらくウサイン・ボルトには勝てないでしょう。これは持って生まれた能力差です。東大へ行ける能力、お金儲けをする能力など、一人ひとり顔が違うように能力もみんな違う。

だから格差をなくすことはできないですし、格差があること自体が問題ではありません。問題は、敗者が復活できる、もしくは格差を少なくするための「はしご」が社会に広くかかっているかどうかです。

僕は、N高が果たしている機能は「はしご」だと考えます。方々にはしごがかかっていて、敗者復活のチャンスがあればあるほど、社会は安定します。こんな高校がどんどん出てきたら面白いのではないでしょうか。

■日本の教育に「偏差値コース」と「変態コース」を

『教育は何を評価してきたのか』(岩波新書)を書いた東京大学教授の本田由紀さんは、日本の教育の特徴を、「垂直的序列化」と「水平的画一化」という言葉で説明しています。

分かりやすく言えば、前者は大学であれば東大を頂点にした偏差値による序列をつくり、後者は僕の言葉に直せば製造業の工場モデルに適した5要素「偏差値が高く、協調性があり、素直で、我慢強く、先生の言うことをよく聞く」人間を養成してきたのです。

後者はトップ校も底辺校も同じです。この5要素の能力に優れた人材は、従業員としては使いやすいでしょう。でも、アップル創業者のスティーブ・ジョブズのように新しい何かを生み出せるでしょうか。日本は垂直方向も水平方向も、ダブルで歪んでいるのです。

日本のGDPの世界シェアが平成の30年間で半分以下になってしまったのは、新しい産業を生み出せなかったからです。新しい産業を生み出すには、女性とダイバーシティと高学歴がキーワードになります。

僕は、極論を述べれば高校の段階で「偏差値コース」と「変態コース」の2コースに分けたらどうかと考えています。

偏差値コースは生徒の6〜7割でいいと思います。その子供たちは今まで通り偏差値の高い大学を目指せばいい。残りの3〜4割は自分が好きなことを徹底的に究めればいい。本が好きならば本ばかり読んでいればいいし、絵が好きならば絵を描いていればいい。

高校で変態コースに進んだ子供たちは、APUが喜んで引き受けますよ。きっと個性にあふれた異才や異端児が集まっていて、その中には起業家の卵も山ほどいるかもしれません。

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出口 治明(でぐち・はるあき)
立命館アジア太平洋大学(APU)学長
1948年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業後、日本生命に入社。2006年、ネットライフ企画(現・ライフネット生命)を設立、社長に就任。同社は12年に上場。18年から現職。
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(立命館アジア太平洋大学(APU)学長 出口 治明 構成=八村晃代)