「とにかく施設が充実していました。田舎のクラブチームから出てきたのもあって、芝のグラウンド、人工芝のグラウンドが使えて、食事まで出てくる。普通ではあり得ないくらいの環境で毎日サッカーができるって考えたら、幸せでしかなかったですね」
 
――しかし、約5年間を過ごしたヴェルディの下部組織から、高校3年生の時に青森山田高に編入します。なぜ、そこまで憧れていたチームで、しかも幸せだった環境から編入を?
「大前(元紀)選手が優勝した年(2007年度)の高校サッカー選手権の決勝を生で見たのが始まりです。その大会の準決勝と決勝で青森山田を見て、このチームでやってみたいなと思ったんです」
 
――なぜ青森山田高だった?
「他の高校のことは知らなかったので(笑)。それに(柴崎)岳さんも椎名(伸志)さんなど、スーパーな選手がいたのも大きかったし、当時テレビの特集で雪の中でサッカーをやっているのを見て、厳しい環境だなと思って。でもそこでやってみたいなと」
――柴崎選手、椎名選手の2ボランチはかなり凄かったですよね。
「もう本当に度肝を抜かれました。当時の僕にとってスーパースターでした」
 
――自分もそうなりたいと。
「そうです」
 
――ユースに上がるタイミングにも青森山田高への進学を考えたんですよね? その時にいかなかった理由は?
「親に反対されたんです。『チームのことを考えて。ユースに上がれなかった選手の分まで頑張らないといけないんじゃないの』と」
 
――高校時代からプロは目指していた?
「もちろんです。ヴェルディでプロになるのが理想でしたけど、ユースからトップに上がった選手でも試合に出られるのはほんのひと握りだったので、難しさを感じていました」
 
――でも逆にヴェルディにいたほうがプロになりやすかったかもしれないですよね。
「その差はあまり考えていなかったです。ヴェルディにいても、青森山田にいっても、プロにはなれると思っていたので」
 
――プロになる自信はあったから、過程はどっちでもいいと。
「そうです。大事になのはプロになってから。ヴェルディにいたままでは、プロに上がった時に大成できないんじゃないかなという不安があった。当時は、ヴェルディのトップチームに上がったとしても、練習だけこなして、なかなか試合に出れないイメージしか沸かなかったんですよね」
 
――青森山田高を選んだのは、山形出身というのも関係している?
「あまり関係ないです。青森は山形と比べものにならないくらいの豪雪地帯なので。でも、だからこそ、そういう厳しい環境にいったらまたひと回り成長できるのかなって」
 
――とはいえ高校の途中でチームを変えるのは、かなり悩んだのでは?
「それは間違いありません。ヴェルディユースでの1年目はクラブユース選手権も、Jユースカップも、プレミアリーグでも試合に出ていました。ただ高2で結果が出ずにベンチで燻っていたんです。ヴェルディを出たのは、それが嫌だったのもあります。成長している実感がなくなっていったんですよね」
 
――なぜ高2で出れなくなってしまった?
「きっかけは東京国体でした。点を取ったり活躍して、チームを優勝に導いた。ただ、それでちょっと有名になったせいで、天狗になってしまったんです……」
 
――それを監督に見透かされていた?
「というよりも、それに自分自身が満足してしまったところはあります。慢心してしまって、結果がついてこなくなってしまったんです」
 
――そこを変えたいと?
「はい、どん底まで落ちたと思いました。もう下がることはないので、上がるだけだなと」