ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。今回は『ゴースト・イン・ザ・シェル』について語り合います。

ポスト・トゥルース時代への一つの回答?



藤田 士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』などを原作として、ハリウッドで映画化が実現した『ゴースト・イン・ザ・シェル』が話題になっています。賛否両論で、どちらかというと否の方が目立つのですが、ぼくは圧倒的に賛です。あれだけの映像を3Dでこの解像度で観れるというだけで凄いんですが、なにより一番いいと思ったのは、過去の『攻殻機動隊』を踏まえて、ポスト・トゥルース時代を見据えた提案をしてきたところです。
 士郎正宗の原作、押井守の『攻殻機動隊』『イノセンス』、神山健治の『SAC』、そして『ARISE』と綿々と続いてきた攻殻のエッセンスや主題を引き継ぎつつ、大予算で映画化した感じですね。

飯田 僕は……あんまりピンとこなかったです。ずいぶん、しめっぽい『攻殻』だなあと。『ARISE』の(悪?)影響かなあ、と。主人公である公安9課・素子のアイデンティティの話を掘って「偽の記憶が埋め込まれてる」とかやられても、そういうのは『ARISE』でもやっていたし。過去いちばんうじうじしている素子。もっとからっとしているところが、あのキャラクターのいいところだと思っていたんだけど。内面や過去をがっつり描くと、謎がなくなるんだよ。謎めいているところが素子のいいところなのに。

藤田 そうですね。しめっぽいところが新機軸で、いいかなって思いました。ネタバレになるのを遠慮せずに言うと、素子の母親が出てくる、素子のそのときの表情が、人間らしい、情緒を出してきている。それが、実写で『攻殻』をやることの意味と繋がっていて、いままでと違っていいかなと思いました。ただ、全体の話のスケールが犠牲になったきらいはありますね。

飯田 血のつながりは……びっくりはしたけど、はあ? って感じ。士郎版でも押井版でも出てくる、バトーが素子に「調子わりいのか?」「生理なの」みたいな、義体なのに生理があるのかそれとも単にシャレなのか、物理的に生理はなくなってるけどなんか残ってるのかとかわからないまま話を進めていくようなウィットがもっと観たかったかな。

藤田 『ARISE』でやった「偽の記憶」「偽の現実」が植えつけられる世界でどうするの、っていうテーマを引き継いだところが、ぼくは良いと思った。『ARISE』では犯人や、9課の面々もやられて、社会全体がそうされていく状態を描いていて、ポストトゥルースやフェイクニュースによる炎上みたいな膨らみがあったけど、今回は一人に絞った。それで、話としてはまとまったけど、こぢんまりとしちゃった。確かにそこは残念。シリーズものだったらもっと展開できたでしょうけど、これじゃあ、公安である意味が薄い。

飯田 そうなんだよ。素子は全身義体で、もともとがどうだったのかわからないからこそいろいろ想像が膨らむけれども「過去の履歴や内面は、あえて描かない」というのが『ARISE』以前の攻殻の基本スタンスで(『SAC』ではちょろっとやっていたけどかなり断片的だった)。『ARISE』でそれをやって、けっこう微妙だなと思ってたんで、その路線をよりエスカレートさせたようなのが今回だった。素子の内面のドラマを観たいかと言われると、そういう話じゃないかなと。

藤田 『ARISE』でぼやっとしたまま終わったそのテーマの解決に取り組んでいるところは、ぼくは好印象でした。ぼく『ARISE』のディスクの解説を書いてて、英訳もされているので、「スタッフの誰かは読んでいるだろう……」と、密かに喜んでいました(笑)
ただ、作品の構造やスケールは単純になったし、解決法も安易かな? とは思う部分があり、そこに不満を持つ人の気持ちもわかります。

社会や自我の主題系の後退


飯田 ハリウッド映画でロボットやAI、サイボーグを扱うと「機械の自我」みたいな話になりがちだけど、そのパターンそのものになっていた。クゼ(原作に出てくる人形使いと『SAC2nd』のクゼを合体させたようなキャラ)が単純な「機械の反乱」みたいな扱いじゃなかったのが救いだけど、だったら原作が一番いいというか、発表年がいちばん古いはずの原作がいちばん複雑なキャラクター造形なんだよね。
深刻なことをやっているのに、ルックをはじめ全体に妙にB級感なのが気になった。多脚戦車を倒すときに限界まで力を使ったせいで素子の義体が引きちぎれるところとか、あんまり重量感がないんだよね。シナリオ的にも、「実は大企業の偉い人が悪いことしてました」、はいはい、どうせそうだと思ってましたけど……ってところとか。スラムで共同生活をしている若者だったら何してもいいとか、さすがに設定が乱暴すぎるのでは。

藤田 クゼに関しても『SAC』であったような、ハブ電脳として社会全体の意志を受けて伝播させる……みたいな社会的膨らみがなくなっていましたね。

飯田 単に「俺たちをこんなふうにした社会に復讐しよう!」だもんね。

藤田 あとは、総理が物分り良すぎるのも気になりました。総理もハックされていたり、荒巻を信じないとか、そのぐらい深刻化してもいいのに、そこは何故か自明の信頼が成り立っているように描かれる。不思議です。総理がトランプとかだったら大変ですよw

飯田 『攻殻』ってもっと賢そうな話だったはずなのに、そのへんが悪い意味での少年マンガ的な単純化がされている感じ。

実写で映画を作ることの意義



藤田 それは認めた上でですが、「偽者の世界で上書きしようとしても、脳に残った記憶は消えないし、惨劇の現場の物質的な手触りや、親子の間のゴーストは残るのだ」的なメッセージは、今風というか、時代への抵抗を感じました。

飯田 え? すごくよくある話じゃん。「機械の身体になったけど、どこかに記憶は残っていたのね」みたいなのって。

藤田 一週回って、普通になっちゃったんですよねぇ。
この話って、単純と言えば単純なんですが、実写と生身をベースに、上にCGその他でバーチャルを貼った画面そのものの力で押し通している説得力ってのはあるんですよ。バーチャルで上書きしようとしても生身の残余があるよ、っていう内容と映像のレベルが合っている。押井守監督も似たような評価の仕方をなさっていましたが、押井さんが『ガルム・ウォーズ』でやりたかった、実写とアニメの融合というテーマを引き継いだ感じはしましたね。実際、『AVALON』という看板出してオマージュ示していましたが。
街の描写も、その内容を象徴していて。ところどころCGが安っぽい感じはしまたが、今回の「サイバーパンク都市」で特徴的なのは、ホログラムですよね。物質的な都市の上にバーチャルなイメージがある光景をかなり意図的に見せてきている。

飯田 こんだけできるならもっとカネかけて早くサイバーパンクの金字塔であるギブスンの『ニューロマンサー』を映画化しろよいい加減、と思いました。

藤田 ビートたけしさんは、その昔、同じ作者であるウィリアム・ギブスンが原作のサイバーパンク映画『JM』に出てましたね。ハリウッドデビュー作。

飯田 荒巻がヤクザにしか見えなかったw

藤田 いつ「ファッキンジャップぐらい分かるよバカ野郎」とか言うのかとひやひやしましたがw 監督が北野映画のファンらしいので、そのぐらいあるかと思った。

飯田 存在感がありすぎるよね。ラスボスを素子じゃなくて荒巻がやっつけちゃうのはあの迫力からすればそうなっちゃうのかなと思いつつも、主人公がちゃんと自分の手でカタをつけないとさ。ハリウッド脚本術のセオリーからすると「ん?」というところで。客があんまり入らないのもわかる。

藤田 しかし、思うに、ぼくらは、80年代、90年代の、日本の原作のハリウッド映画や、ハリウッドでの日本描写の酷いものを見すぎているので……『スーパーマリオ』とか『スト2』とか…… それに比べると、最近の日本文化の海外での扱われ方は全然恵まれている。

飯田 『ドラゴンボール』のハリウッド版に比べたらもちろんいいんだけど……バトーの義眼とかね、なんか安っちく見えた。
それとやっぱり、原作や押井版では神秘的に描かれていたサイバースペースをどう描くかを期待していたんだけど、そこはほとんどなくて、単に無線で通信してるだけだったのがけっこう残念だった。

藤田 安っぽい場面も確かにありましたね。意図的な安っぽさなのかどうか、なかなか判別がつかないんですが。素子の裸に見える身体も、きぐるみらしいので。

エンディングのメッセージはこれでいいの?



藤田 「身体」と「湿っぽい」と「母親」のテーマを出したところは今回の実写版で評価したい新機軸で、それをポスト・トゥルース的状況にぶつけるという意図は分かる。実写だからこそ可能になる『攻殻』の可能性という点ではすごいよかった。しかし、その解決に疑問はやはりある。
脳の中に記憶が残っていて書き換えを拒んでいて、過去を取り戻す。しかし、過去の自分がどうであったのかよりも、これからどう生きるのかが重要だ……的な結末のメッセージって、原理的に言えば現実に応用しうるような解決ではない。脳の中にある記憶だって本当かよくわからない。それもハッキングで植えつけられたかもしれない。どう生きるのかが重要だとしても、「これが正義だ!」って決断して行動している人間同士が衝突して炎上が起きているるし、フェイクニュースなどを信じて生きる人たちも「そう生きるぞ!」って決心したらあんまり意味がない。そこの甘さは限界としてありますね。

飯田 どう生きるかの基準になるのはなんなのって話で、快不快の基準はいろんな過去の行動に対しての快不快の結果がニューロンに刻まれているからで、記憶と行動は切り離せないと思いますけどね。

藤田 情報社会的な問題や、人格や人間性がどうなるのか、的な側面への踏み込みも明らかに浅くなっている。実写だから、というのはそうなんだけど、これまでと比べて、人間主義的で保守的な攻殻ワールドであることに不満があるのも確か。「理屈じゃなくて親子の情だ! とにかく生きることが重要! 過去は消させないぞ!」的な「主張」として、すごい陳腐なんだけど、一周回ってアリになっている。

飯田 機械の身体に人間の心は宿るかという話になっていて、ネットの海から生命が誕生するという(ネットというものに対する誤解も含めた)押井版の重要テーマはほぼスルーされちゃった。

藤田 義足とかの延長に過ぎないですからね、あの義体って。
機械の体が自己なら、テクノロジーや、都市や、情報環境や、他者も「自己」ではないか? っていう境界線の揺らぎの面白さはほとんど消えていた。

飯田 シリアスぶっているわりにはたいしたことは問うてない、というのが最大の不満です。それだったらそんな悩むシーンとかいらんから活劇に振ってくれたほうが「ハリウッド版『攻殻』」に良い意味でなったんじゃないかと。

藤田 ラストバトルがもう一盛り上がりあったら良かったんですけどね。冒頭の突入とか中盤のクラブでの戦闘は結構良かったのに。

水と灰のメタファー


藤田 士郎版、押井版の、ネットの海から生命体が生まれるとか、情報の世界に飛び込むとか、そういうポジティヴな夢想が持ちにくくなった現在の攻殻って感じがしましたね…… 原作から25年、四半世紀以上経ってるんですよ。ネット社会のフロンティア感がなくなった世界像って感じがしましたね(サイバースペースにジャックインするような描写は全然なくて、ホログラム的なものとして現実空間に出てきている描写ばかりなのが、その差を視覚的に現していると思いましたが)

飯田 情報の海じゃなくて単に物理的な水の底で泳いで自分探しをするからね……押井版のオマージュ的なシーンではあったけど。

藤田 やたら水が強調されていたのは気になりましたけどね。ゲイシャロボに「ダイブ」するときも水の比喩でしたし。ラスボスを倒したときも、不必要に風呂桶みたいなのの中に倒している。単に、水しぶきとか煙とか粉塵を3Dにすることに対する偏愛かもしれませんが(そこは実によかったですが)、意味や象徴の次元で何かあるのかもです。ちなみに『ARISE』では、敵が「ファイア・スタータ」で、炎上のメタファーなので、火消しである素子たちは水の象徴で描かれていました。
今回の水はそうではなく、母性とか胎内とかを意味してそうですが。

飯田 水は、押井守にとっての重要モチーフであることへのリスペクトという面と、やはり生命の象徴だからでは? あとは、機械が水にいる意外性的な?

藤田 そうかもですね。ゲイシャロボにダイブしたシーンからすると、今回は情報は水というよりは、記憶や灰に近いもののイメージで描かれている。
印象としては、『攻殻機動隊』というよりも、「アウシュビッツはなかった」と言う人に対して、現場の痕跡などを見せて「あった」って言うことに近い映画なんですよ。

飯田 余談だけど、PEZYって日本の会社のスーパーコンピュータは水の中に入っているんだよね(もちろんただの水道水じゃないですが)。そっちのほうが冷却効率がいいから。機械in水はすでに現実化しているんですよ。そしてPEZYは社長がシンギュラリタリアンなんですね。斎藤元章さんといって、ガチのカーツワイル信奉者で、世界トップのスパコン作っている、めっちゃおもしろい人です。そんな人が現実にいるときにこれを出されても、古めかしく見えてしまったかなと。

藤田 冷却をどうしているのかとか、そういう技術方面からのアプローチによっても、今後も広がりがありそうですね、攻殻ワールドは。ぼくは本作を高く評価しますよ。できるなら、続編を作って展開して欲しいですけどね。せっかく世界観を作ったのだから…… 9課のほかのメンバーも活躍させて欲しい。もったいないですよ。