クロマティからの金言。「日本野球よ、もっと個性を。もっとフルスイングを」
「ニッポンの野球は、あの頃のほうが今よりもレベルは高かったよ」
そう語るのは、かつて巨人で活躍したウォーレン・クロマティだ。そのクロマティの言う"あの頃"とは、彼が巨人でプレーした84年から90年の頃を指し、日本のプロ野球の全盛期だと言い切った。
日本のプロ野球は、野茂英雄がメジャーで旋風を巻き起こした95年以降、毎年のようにメジャーリーガーを輩出している。06年に始まったワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でも「国内組」中心の編成ながら2度の優勝を誇るなど、世界でも屈指のレベルにある。それでもクロマティは"あの頃"が最高だったと言う。
たしかに当時は、毎日のようにテレビでプロ野球中継が放送されていたし、巷の話題も野球が中心だった。
そんな当時のプロ野球を牽引していたのが巨人だった。本拠地・後楽園球場の周りは連日、自由席の座席確保のために徹夜で行列ができ、日本初の屋根付き球場である東京ドーム完成後は、入場券は即日完売が当たり前だった。そんなプロ野球が、巨人が最も輝いていた時代に、クロマティはその中心にいた。
それまで"メジャーリーガー"の来日といえば、ポジションを失ったベテランがキャリアの最後に荒稼ぎしにやって来るのが相場だった。
「それを私が変えたんだ」
その言葉通り、クロマティは前年までモントリオール・エクスポズのレギュラー外野手として不動の地位を築いていた。現役バリバリのメジャーリーガーの彼が日本のチームを選んだ理由とは何だったのだろうか。彼の答えは明確だった。
「ツーミリオンダラーね(笑)」
200万ドルという金額は、彼が来日した84年当時のレートで換算すると、じつに約4億6000万円。この金額は、当時FAだったクロマティの獲得を争ったメジャー球団とほぼ同額だった。
落合博満が日本人選手初の1億円プレーヤーとなったこの頃、今では考えられないことだが、メジャーリーグの球団と日本の球団の事業規模は同等だった。助っ人外国人選手の値段は高騰し、現役メジャーリーガーでさえ日本でのプレーに引き寄せられていた時代だった。
「あのときの日本の野球は本当に高いレベルだった。もちろん、メジャーリーグよりは下だったけどね。でも、それもほんの少しの差だったよ」
そう言って、クロマティは数人の選手の名前を挙げた。
「まずは広島の衣笠(祥雄)さん。あの人は他の選手と違っていたよ。最初に彼のスイングを見たとき、メジャーでプレーするポテンシャルがあることはわかったよ。あと、同じチームの(山本)浩二さんもいいバッターだった」.
当時、巨人の前にしばしば立ちはだかった広島の主力打者は、クロマティの中に強烈なインパクトを残しているようだ。
クロマティの在籍時、巨人は87年、89年、90年と3度リーグ優勝を果たしたが、日本一の栄冠を勝ち取ったのは、3連敗から奇跡の逆転を遂げた89年のみ。あとの2回は西武の前に敗れ去った。当然、この西武のメンバーたちも思い出深いとクロマティは言う。
「秋山(幸二)はいい選手だった。彼は打つだけじゃなく、守備も足も素晴らしかった。あの頃の西武は本当にいい選手が揃っていたし、強かった。キヨ(清原和博)のニュースも知っているよ。悲しいことだけどね。いずれにしても、彼らはみんなメジャーでもプレーできたはずだよ」
巨人のバッターについて聞くと、唯一名前が挙がったのが吉村禎章だった。吉村は、クロマティ来日の84年に高卒3年目ながら層の厚い巨人でレギュラーを勝ち取った天才打者。しかし88年シーズン、試合中に大ケガを負い、その後の現役人生の大半をベンチで過ごした。
「彼は本当にいいバッターだった。バッティングセンスが素晴らしかったね」
ただ、クロマティの印象では、メジャーレベルとなると、打者よりも投手のほうが多かったという。たしかにあの時代、球場は狭く、打者の力量を測るのは難しい。逆に、その"箱庭"と呼ばれた球場で、スラッガーたちを抑え込んだ投手たちは、クロマティの目にも"本物"に映った。
印象に残った投手について聞くと、自身が苦手としたからだろうか、特に落ちる系のボールを武器としたピッチャーの名を記憶していた。
「大洋(現・DeNA)の遠藤(一彦)、広島の大野(豊)はホントに打ちにくかった。あと広島の若いピッチャー、名前はなんだっけ、サウスポーの......。そうそう川口(和久)だ。彼のストレートは速かったね。とにかく彼らは逃げずに勝負してきたからね。もちろん、ウチの江川(卓)だってメジャー級だよ。あと桑田(真澄)もね。彼らは私の弟みたいなものだよ」
冒頭でも触れたが、クロマティは「当時のほうが日本のプロ野球はレベルが高かった」と言う。しかし95年以降、40人を超す選手が海を渡り、メジャーでプレーしている。四半世紀前、日米野球で来日したメジャーのオールスターチームに、日本の選手たちはまったく歯が立たなかった。しかし、一昨年の日米野球で"侍ジャパン"はメジャー軍団と互角に渡り、継投ながらノーヒット・ノーランを演じた。「それでも......」とクロマティは言う。
「メジャーで成功した選手は一体、何人いるんだい? たしかにピッチャーは、野茂や黒田(博樹)などたくさんいたけど、野手で成功したのはイチローだけだよ。あとは、松井(秀喜)も頑張っていたけどね。ただ、ふたりとも外野手だ。井口(資仁)や松井稼頭央? どうだろう......彼らは成功したとは言えないんじゃないかな」
ファンの中には、今の方が高いレベルにあると思っている人も多いだろう。しかし、25年前のメジャーリーグの球団数は26チームで、今よりも4チーム少ない。93年以降、チーム拡大策の中で160人ほどの"欠員補充"の必要性が出たことが、日本人メジャーリーガーの増加を招いたことは否定できない。
そして海を渡った日本人選手のほとんどは、日本プロ野球のトップスターだった。トップ選手をメジャーに奪われたリーグのレベル低下は、カリブ諸国のウインターリーグやメキシコのリーグを見れば一目瞭然である。同じようなことが、日本でも言えるのではないだろうか。
「だからね」と言って、クロマティはこう続ける。
「もっと個性を認めなきゃ。私がいるときからそうだったけど、日本はみんな同じことをしているからね。それに、バッターはもっとフルスイングしなきゃ。メジャーに来ている東洋人を見れば、今は韓国人選手の方が有望だよ。だって、彼らはしっかり振り切るから、メジャーの一線級の投手のストレートにも負けない。日本の選手も、まずはしっかりバットを振ることから始めないと」
クロマティの金言を受け入れたとき、日本の野球は新たなステージに立つのかもしれない。
阿佐智●文 text by Asa Satoshi