ケータイ配信で人気に火がついた『東京都北区赤羽』。メジャー誌で連載失敗を重ねた作者が語る、漫画家という職業

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 伯父が、昭和20年代に発売されていた『漫画少年』という雑誌に投稿して掲載されたりしていたんです。手塚治虫先生も連載していた、由緒ある雑誌なんですよ。

 伯父は漫画家のアシスタントをしたりイラストの仕事をしたりしていたんですが、ウチの家族と同居していて、子供の僕とも遊んでくれた。ヒザの上に座ると、伯父が真っ白い紙を広げて、スラスラと新幹線や動物園の絵を描くんです。それが魔法のようで……。それから絵を描くのが好きになりました。初めて漫画原稿を描いたのは高校に入ってからですけど、道具の使い方のいろはを教えてくれたのも伯父ですね。

 僕が高校生の頃は、新人漫画賞の受賞作がよく誌上に掲載されていたんです。そこでギャグ賞の受賞作を見て、「くだらない、この程度なら自分にも描けるかも」って思った(笑)。それで最初に描いた作品を、友達と回し読みしていた『週刊ヤングマガジン』の賞に出したら、引っかかっちゃったんです。

 その後、担当編集者もついて雑誌デビューはしたものの、なかなかうまくいかない。それでライバル誌の『週刊ヤングジャンプ』に、あてつけのように投稿してみました(笑)。しばらく読み切り作品を描き続けるうちに、やっと連載ネームが通って初連載にこぎつけたんです。ちょうど今から10年前のことです。

 ただ、正直、週刊連載というものをナメてました……。実は最初、ギャグにしては長めの14ページで連載を始めたんです。少しでも原稿料が高いほうがいいと欲張って(笑)。そしたら絵にこだわりすぎて、ほとんど毎週ひとりで描く状況に陥ってしまって……。半年で連載が打ち切られたときは、正直ホッとしました。もし連載が1年続いてたら、たぶん潰れてましたよ。漫画をやめていたと思いますね。今思えば、打ち切りのタイミングもよかったんです。


■赤羽に越したことで運気が上昇!?

 2度目の連載も半年で終わり、その後、赤羽に引っ越しました。なんか昔から用事がなくても赤羽にフラッと行ったり、漠然と引き寄せられるものがあったんですよね。

 でも、仕事的には全然で、何をやってもうまくいかない。天命は尽きたと思ってバイトを決意しました(笑)。深夜の弁当屋で、休憩時間に構想を練ったりイラストを描いたりして、翌日それをブログで更新する。

 ブログは無職時代の僕にとって、やりたいことを吐き出すためのはけ口であり、仕事を得るための手段にすぎなかったんです。でも始めてから、ちょっと状況が変わりましたね。仕事もちょろちょろといただけましたし、その頃からイラストの依頼も増えてきて、助かりました。まあ、物書きだけでメシが食えるようになったのは『東京都北区赤羽』が始まってからですけどね。イラストでそれなりに収入があっても、やっぱりそれは“漫画家”とはいえないから。

 悪いときは、漫画の海の中でブクブク溺れているような状態でした。そういうときはすべてうまくいかないんですよ。でも、そのタイミングで赤羽のことを自由に描かせてくれるというおいしい話がきた。そして僕もHPやブログの流れで、完全創作の漫画から徐々に自分目線の現実路線に移行し始めていた。これは必然の流れだったように思うんです。作品中のさまざまな人たちとの出会いもそうですけど、ちょっとできすぎてるんですよ、いろいろと。

 漫画家って、サイヤ人じゃないですけど、一回瀕死の状態になってから、どれだけ起き上がって覚醒できるかだと思うんですよね。キツい目にあった分だけ新たな境地が見えてくるんです。僕も、30歳までになんらかの連載を取れなかったら、どんな職業でもいいから就職しようと割り切って考えていました。でも、もがきながら面倒くさい課題をひとつひとつクリアしてきて、ようやく生活できるまでに至ったんです。人間、目の前にあることを放置して、過去にふけったり先の希望に胸を躍らせたり……そんな時間はなんの役にも立たない。そういうときに意識を切り替えて、やるべきことをやってしまうと何か拓けたりしますよ。まあ、僕もけっこう逃げてますけど(笑)。