ジーコは日本代表に相応しい監督ではなかったが、ジーコのやり方を見ていると、なぜブラジルでは次々に選手が育ってくるのかわかるような気がした。

 ジーコは選手たちにとって完璧な見本だ。同時にプロとしてこうあるべきという精神論を強調し、実体験に基づくピッチ上のアドバイスはするが、戦術的な統制は行わない。日本人は、このタイプの指導に戸惑った。だがそれは教え込まれるのが当たり前の文化の中で育ってきたせいで、ブラジルなら選手たちは嬉々として自己表現をしただろう。

 要するにブラジルでは、選手たちが育成過程で接する指導者とは、おおよそそんなタイプばかりなのだ。ブラジルで本格的に指導者の資格を取得しようとしたら、大学でしっかりと研鑽を積まなければならない。そしてこのタイプは基本的に若年層の指導には携わらない。結局サッカー王国ブラジルでは、子供たちが必要な技術を遊び感覚の中で身につけ、むしろ戦術の詳細は欧州へ渡ってから覚えていく。因みにもうひとつの王国アルゼンチンでも、戦術を教え込むのは17歳になってからだそうである。

 ところが日本の指導者たちは、ボランティアの少年チームのコーチも含め、非常に勉強熱心だ。南米諸国のように経験に裏打ちされた指導者が少ないし、またそれを自覚しているから、一生懸命学び、それを全て伝えようとする。やって見せられない分、余計なことで補おうとするわけだ。その結果、少年チームでもベンチが「きょうは4−2−3−1」「今度は3−4−3」などという言葉が平気で飛び交うことになる。逆にブラジルでは、戦術的な自由度が非常に高く、大人のプロリーグでもどのフォーメーションで戦っているのか判別するのが難しい。

 確かに日本協会も教え過ぎを危惧し、指導者講習ではカテゴリーが下がるほど「余計なことは言わないでください。見守っているだけでいいんです」と強調しているという。だがそれでも若年層になるほど、教えたい欲求を制御できない指導者が目立つ。戦術が先立てば当然規制が増える。走る、さぼらない等の守備的な要求ばかりが先行するようになり、ミスすれば怒鳴られ、必然的に子供たちは挑戦する心を失う。こうなるとサッカーはつまらなくなる一方で、成長も止まる。

 概して日本では有名選手はトップの監督を目指すのが当然のように思われてきた。しかし中学生以下の子供たちに必要なのは、頭でっかちな戦術論ではなく、優れた手本、ピッチ上のちょっとした駆け引きのヒント、それにおおらかなに自分たちの能力を信じてくれる心だ。

 完成された大人なら、理論で束ねることも出来る。だが子供たちには、叱ってミスを減らさせるのではなく、逆にとことんミスを繰り返させて、正解を模索させる必要がある。ストロングポイントを探せていない選手に、ポリバレント(多様性)ばかりを求めれば、平均点の子ばかりが出来上がるのは当然だ。

 ジーコは大人には適していないが、若年層には理想的だ。一方でオシムの言葉も、完成間近の大人には当てはまっても、若年層には当てはまらない。オシムもまたその辺を気にかけているからこそ「今度は子供を教えてみたい」と言ったのかもしれない。

 ようやく最近は元Jリーガーが育成の現場に立つようになってきた。育成は決してトップ監督への登竜門ではない。指導者の方も、慎重に適性カテゴリーを探す必要がある。(了)

加部究(かべ きわむ)
スポーツライター。ワールドカップは1986年大会から6大会連続して取材。近著に『サッカー移民』(双葉社刊)。
<サッカーコラム>
【杉山茂樹コラム】応援と観戦の乖離
【玉木正之コラム】拝啓 岡田武史様