34歳、国立大卒の美しき才女、高木帆希(たかぎ・ほまれ)

「家事手伝い」という名の「無業」で10年もの間、ぬくぬくと過ごしてきた帆希に、突如、降りかかった「父の死」。

大学時代の友人・瑞樹に援助を求めるも、モラハラ夫との歪んだ夫婦生活を垣間見てしまい、マッチングアプリで出会った土井には、散々な目に遭わされ…心身共に疲弊しきった帆希は、銀座のバーで出会った記者の真奈と共に現代の“駆け込み寺”へ行くも怪しげな実態に気づき東京へ戻ってくる。

そんな帆希は、何故か父・港一が助けた桧山泉と奇妙な共同生活を送ることになった最中、泉の妊娠が発覚し、お腹の子の父親であるユウジに話をつけにいく。だが、ユウジの思いがけない行動により、帆希は泉との関係を壊されてしまうのだった…。




行くあてもなくたどり着いた先は、六本木にあるインターネットカフェ。

初めて入るインターネットカフェに戸惑いはしたものの、何となくホテルに泊まる気分でもなかった私にはちょうどよかった。

受付で完全個室のシアタールームをオーダーしたが、2名以上からじゃないと使えないと言われ、私は泣く泣く禁煙ハイブリットシートを確保することにした。

―ハイブリットなお部屋って、これが!?

初めてお部屋に入った時の正直な感想だ。まぁ、お部屋というよりはブースと言った方がいいのかもしれない。横になって手足を伸ばしてみたら、案外いい場所かもしれないなんて思えるようにまでなってきた。

―もしかして私、前よりも環境の変化に順応できてる?

そう思うと、笑いがこみ上げてきた。

これまでの10年間の私と、父が亡くなってからの私。自分の身に起きている出来事も、時間の流れも、出会う人々も…あげればキリがないけれど確実に言えることは、何もかもが変わったということだ。

―今の私なら、あの時、立ち向かうことが出来たんだろうか。



学生の頃の私は、いつも自信に満ち溢れていた。

何不自由ない暮らし、気のあう友人にも恵まれ、日々成長を実感できる学生生活を送っていた。

私は、大学院で培った有機合成や高分子化合物の研究を活かし、「塗料」製品の開発に携わることが夢だった。家屋の外壁を涼しく体感できる塗料の開発をして、社会に貢献したかったのだ。

どうして「塗料」にこだわったのかというと、昔、家族旅行をしたインドネシアで、母があまりの暑さにダウンしたことがきっかけだった。

電気の供給が間に合っていない国や地域でも、外壁自体を涼しくできれば、安全で快適な生活が出来るんじゃないか…そんなことを閃いた瞬間、「私は塗料の研究・開発に携わる大人になりたい」と思ったのだ。

そして夢を叶えるべく大学院の修士課程に進み、一部上場企業である大手総合化学メーカーへの就活に勤しんだ。

第一志望だった企業の二次試験も通過し、最終面接へとこぎつけた。

誰もが私の内定を確信していた。私自身もそうだった。いつものように、落ち着いて、入社後どんな開発に取り組みたいのか、まっすぐに自分の意思を表現していく。それだけで大丈夫。私なら、大丈夫。そう思いこんでいた。

―それなのに。


帆希の夢が打ち砕かれた事件の真相とは


最終面接の朝に起きたトラブル


あの日は、雨が降っていた。

「お母さん、行ってきます」

母の仏壇に手を合わせると、私は玄関にある大きなスタンドミラーで身だしなみのチェックをした。

―よし、OK、大丈夫。

オーダーメイドで作った就活用スーツは、私によく似合っている。コートを羽織り、鞄を肩にかけ、前日に入念に磨いたパンプスを履く。お気に入りの黒の傘を手にした私は、玄関のドアを開けた。

父の車に乗り込むと、父は目白駅へと送ってくれた。

「いつもどおりにな」

何度も言う父に、私は笑って「大丈夫、何も問題ないから」と車を後にした。




早く家を出てきたせいか、私は、一時間前には面接会場に到着していた。

―さすがに早すぎるよね。面接会場も確認できたし、カフェでも寄ろうかな。

私は、面接会場からいちばん近いカフェへと入った。自動ドアの横に傘立てがあり、そこにはビニール傘を中心に、赤、水玉、黒といった色とりどりの傘があった。

私も自分の傘を置くと、店内へと進んだ。
ここまでは、何もかも順調だった。

―この店を、出るまでは。

ちょうどいい時間になった頃合いを見計らってカフェを出た。傘立てから黒の傘を取り、広げようとした瞬間だった。背後から声がした。

「おいおい、それ、俺んだから! 返せって」

私は、自分のことだとは気づかず、そのまま去ろうとした。すると、ゴツゴツとした手が私の肩を無造作に掴んだ。

「待てって! バックレてんじゃねぇよ」

私は、突然のことで何が何だかさっぱりわからず、戸惑いながら振り返った。そこには、私を睨みつける男がいた。今、思い出せるのは、男の鋭い目だけだ。

「いいから返せって」

男は、いきなり大きな声で私を怒鳴りつけた。私は、フリーズしそうな頭を懸命に動かして、傘を確認した…違う、私の傘じゃない。




「ごめんなさい! 間違えました! すみません!」

私はすぐに傘を閉じ、男に渡した。

「あのさ、バレなきゃいいやって思った?」

近くを通り過ぎる人々から向けられる視線に、私はどんどん萎縮していった。雨音はさらに激しくなっていく。

「あの、違うんです…ホントに間違えただけで」

「じゃ、おねえちゃんのどこにあんの?」

私はすぐに傘立てを見た。

―黒の傘、私の…あれ…ない! どうして?

「やっぱ、パクろうとしたんだろ〜これだから今どきの…」

私は、話を続けようとする男から逃れる為、どしゃぶりの中を走り出した。

「おい! 逃げんじゃねぇよ!」

背後から男の怒号が聞こえてくる。だけど、私は一心不乱に走っていた。何が自分に起こったのか、理解が出来なかった。私は、ただ混乱していた。

ずぶ濡れのまま、面接会場へと入った。

もうその時点で、私の記憶は真っ白だ。どうやって最終面接を受けたのかも、覚えていない。家に帰れたことも不思議だった。

最終面接の結果は…もちろん、不合格。

私にとって、「不合格」という人生で初めての烙印を押されたのだ―。


順風満帆だった帆希の崩壊…そして若年無業者へ


帆希は何から逃げたのか


それからというもの、私の中にあった何かが、パチンと弾けてしまった。

「自信」という「自分を信じる力」もなくなった。何もしたくなかった。誰とも会いたくなかった。

『些細なことで落ち込むな』『挫折は人生の通過点』『失敗があるから成功がある』

まわりの人は、そう言って私を励ましてくれた。帆希なら次がある、と誰もが背中を押してくれた。嬉しかった、ありがたいとも思った。

だけど、私の何かが、消えてしまったのだ。

それからの私は、就活をやめた。ゼミの恩師からは「このまま大学院に残って研究を進めたらどうだ」と提案されたが、その誘いも蹴った。

卒業後、私は家という城に籠る「家事手伝い」となった。

いや、それは世間体を気にした名ばかりの職業…私は、健康体なのにも関わらず、親の脛をかじり続けた「若年無業者」だ。




私は、父が亡くなるまでずっと、社会と向き合うことから逃げてきた…いや、違う。そうじゃない。私は、『私』から逃げてきたのだ。

『私という存在』を無視しつづけてきた。
『私の可能性』をつぶしていた。
『私自身』を家という檻に縛り付けていた。

すべて、『私』がそうしてきた。

心のどこかではわかっていた。いつまでも続くわけじゃないってことも。

父が亡くなった時、この10年の暮らしが消滅する絶望と同時に、心のどこかでは、ホッとした。

―私はやっと、私と向き合える。

「働かずに生きる」と決めたのは…きっと、この10年間の私という時間を、大事にしてあげたかったからだ。間違っててもいい、人から後ろ指さされてもいい、みっともなくてもいい…自分で「こうやってみたい」と考えたことをとにかく行動してみたかった。

無謀なことをし続けてきて、心も体も傷ついた数か月だけれど、私は今、私の人生をちゃんと生きている。そして私は、泉と出会った。父が私と泉をつなげたのだ。

もしかしたら父は、痴漢に遭っていた泉を私に重ねたのかもしれない。

たった一度の不運が、その後の人生を変えてしまう。それが、父には許せなかったのだろうか。もしかしたら…父の中で、痴漢される泉が私に見え、犯人が、黒い傘の男に見えていたのかもしれない。

だから、自分の命をすり減らすほど、犯人を追いかけた…ただのこじつけだけどそう思うと、涙が溢れていた。

―お父さん。私、今をちゃんと生きるから。勇気、出してみるから。

心の中でそうつぶやくと、私は目の前にあるパソコンを起動させた。次第に立ちあがっていく画面を見つめながら思う。

―私は、何をしたいんだろう。これから、どう生きたいんだろう。本当に働かずに生きたいんだろうか?

私は、私自身に問いかけていた。

溢れだす想いを早く書き出したい、そう思いながら―。

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最終回、今を生きると決意した帆希。「無業」の先に見つけた答えとは!?