仕事も恋愛も、自己実現も、自由に叶えられる時代。
それでも私たちは悩みの中にいる。

東京・銀座の片隅に、そんな迷える東京男女たちが
夜な夜な訪れるバーがある。

オーナーをつとめるのは、年齢不詳の謎の美女、留美子

ヒモ男を切れない女、中原梓。32歳にして年収1,500万。さらに高学歴、高身長の「3高女」である梓は、ひょんなことから家に転がり込んできたヒモ男・柏木恒星を追い出せないことに悩んでいたが-




3高女・梓の唯一の望み


「留美子さんて、どんな悩みも解決できるんでしょ?」

銀座8丁目の路地裏、雑居ビル2階にある朱色の扉のバー「銀座Timbuktu」。成松壮太と飲んでいたところに突如あらわれたオーナーの留美子に、梓はぐっと詰めよった。

壮太の話によれば、彼女は複雑にからまった人生の悩みを驚くような大胆な方法で解決してしまうのだという。

「私のもなんとかしてよ。あのヒモ男を追い出して!」

「お嬢さん、ちょっと飲み過ぎねえ」

留美子はグラスにミネラルウォーターを満たすと、そっと梓の前に差し出した。

「私はただの酒飲み。人様のお悩み解決なんてできません。それに…」

軽く眉根を寄せた留美子の額には、事故にでも遭ったのだろうか、鉤裂きのような傷跡があった。

「悩みっていうのはね、何かを求めて手に入らない苦しみのことを言うの」

梓は言葉に詰まった。

「ヒモ男を追い出したい、それが本当にあなたの望みなら簡単。男の荷物をまとめて玄関からほっぽり出すでも、いかつい男友達に頼むでもいい。でもそうしないのは」

留美子は赤い唇をキュッっと吊り上げて笑った。

「あなたが望んでいることは他にあるから。違う?」

梓は、差し出されたグラスを口に含むと、軽く目を伏せた。ミネラルウォーターがひんやりと喉元を潤していく。

「…指輪を…買って欲しい」

すべすべと手入れの行き届いた、白く細い指先に目を落とす。その左手の薬指は、埋められるのを待っている空白のようだった。

「指輪?」

黙って聞いていた新婚の壮太が身を乗り出してきた。左手には、シンプルで飾り気のないプラチナのリングが確かな輝きを放っている。

「安いので構わない。普通のカップルみたいに、私も大事にされてるんだっていう証が欲しいんです」


本当の望みを告白した梓。ヒモ男との関係はどうなるのか?


普通のカップルみたいに、愛されたい


松屋銀座のショーウィンドーを華やかに彩るディオール、シャネル、ブルガリ…目にもあざやかな真冬の中央通りを歩きながら、梓はいつも心に刻んでいるある言葉を思い出していた。

Where there’s a will, there’s a way.

意志あるところに道は開ける。留学中に覚えた言葉だ。
自分はこの通りの人生を歩いてきた、と思う。

生まれは金沢の小さな飲食店。海外留学どころか、東京の大学に行ったのも親戚の中では梓だけだ。

留学時代、アジア人が一人しかいないクラスに放り込まれ、誰にもばかにされないように必死で勉強して首席で卒業した。若くしてマネージャーとなった今も、より上を目指す努力は惜しまない。

意志の力で人生は切り開けるのだ。
でも恋愛は-人の気持ちだけは…どうにもならない。

「梓は俺がいなくても生きていけるだろ」
そう言っては去ってゆく何人もの男たちの背中が、記憶の中に浮かんでは消えていった。




梓は、ティファニー銀座本店の前で足を止めた。

何組ものカップルが肩を寄せ合い、ウィンドーを覗き込んでは微笑みながら何かをささやきあっている。

梓には、その光景が自分には永遠に手に入らない幸せのように思えた。

「私、小さい頃に『ティファニーで朝食を』っていう映画みてから決めてるの。指輪をもらうなら絶対にティファニーだって!」

前に一度だけ、柏木恒星とこの場所を通りかかった時に告げたことがある。クリスマスに二人で食事をし、買い物をした(どちらも梓の支払いで)帰りのことだ。

その時の彼の返答は一生忘れられない。

「へえ、意外。あーちゃんもそういう普通の女みたいなこと言ったりするんだね」

それ以来、梓は彼に“普通のカップルみたいに”を求めることをやめた。

一緒にいる時間はそれなりに楽しいし、家に誰かがいてくれる安心感はメリットではある。

何より彼は、あの柏木恒星なのだ。

高校時代みんなのアイドルだった彼が、何の理由かは知らないが宿無しになり、自分のところに転がり込んでいる。

あの柏木恒星が、クセのある甘い声で「おかえり」と迎えてくれ、「俺はあーちゃんがいないと生きていけないよ」と言ってくれる。

-大丈夫、これでいい。私はじゅうぶん幸せ

梓はティファニー本店にくるり背を向けると、東京メトロの階段を降り、恒星の待つ広尾の家へと足を早めた。



「ただいまー」

広尾駅から5分。幼稚舎近くにあるマンションの502号室を開けると、ひんやりした空気が梓を包み込んだ。

珍しいことに恒星は外出しているようだ。

「せっかく『りょくけん』のデリ買ってきたのに…」

松屋で買ったお惣菜を冷蔵庫にしまおうとリビングに向かった時、梓は目の端に見慣れないものを捉えた。

-あれは…ティファニーの紙袋?

見間違えるはずもない、あざやかなスカイブルー。

その脇に添えられていたメモに目を走らせた瞬間、梓の手からバサッと惣菜の袋が滑り落ちた。


残されたメモに書かれていたこととは?ヒモ男はどこへ消えたのか?


ヒモ男はどこへ消えた?


「どういうことですか!!」

梓は、朱色の扉を勢いよく開けるなり店のカウンターに向かって叫んだ。

銀座8丁目路地裏のバー「銀座Timbuktu」。

留美子に心の内を見透かされて以来、二度と足を踏み入れることもないだろうと思っていたその場所に、梓は舞い戻ってきた。

手にはティファニーブルーの紙袋。そして-

見たこともない程の額が振り込まれた通帳を持って。

「今までごめんね、あーちゃんといられて楽しかった。これまでの家賃は振り込んでおきます。指輪は、気に入らなかったら返品して。ありがとう。 恒星」

残されたメモにはたったそれだけが書かれていた。

昨日まではいつものように梓に甘え、“ヒモ男”をしていた恒星が、なぜいきなり出て行ったのか。

思い当たる原因はこの変な女、留美子しかない。

「まあ落ち着いて。パイナップルでも食べる?」

留美子は、他に誰も客のいない店内でスツールに腰掛け、パイナップルを齧りながら白ワインを傾けていた。

カウンターの向こうには留美子のヒモ…だと梓は確信している寡黙な青年、タカハシの姿もある。

「食べませんっ!」

梓はその隣に座り込むと、留美子の手からグラスを奪ってぐっと飲み干した。

「彼、いきなりいなくなったんですよ!?」

留美子は空になったグラスを見ると、さも可笑しそうに唇の端を吊り上げてくくくっと笑った。

「えーっと、そもそも何だっけ?あなたの悩み」

「ヒモ男…恒星に出て行って欲しい」

「さらに本当の望みは?」

「彼に大事にされてる証…指輪が欲しい、ってこと」

留美子は、厚かましくもティファニーの紙袋に手を伸ばすと中に入っていたブルーの化粧箱を空けた。

「わお!何これ、すごいわね!5カラットくらいあるんじゃない?これ着けて殴られたら痛そう」

勝手に指輪を取り出して大騒ぎしている。

5カラットはさすがに大げさだが、涙の雫のような形が特徴的なソリスト・ペアシェイプのそれは、バーの照明を跳ね返しキラキラと存在感のある光を放っていた。




「彼は出て行った。指輪も手に入った。あなたの望みは両方叶ったじゃない。なにが不満なの?」

留美子は赤く塗られた爪の先でダイヤの指輪をくるくると回しながら弄んでいる。

「全く訳が分からないんです…指輪もそうだし、この振込みも…どこから出てきたものなのか」

梓の家に転がり込んでからというもの恒星はほぼ家から出ずゲームのようなものばかりしていて、収入など皆無だったはずだ。

「もし全部あなたが仕組んだなら、説明してください。一体どういうことなのか」

留美子さんは、タカハシが無言で注ぎ直した白ワインを一口含むとため息をついた。

「だから、今回は本当に何もしてないんだって」

毎回やってらんないわよ時代劇じゃあるまいし…口の中でブツブツ言いながら、留美子さんは脚を組み直した。

「ただね。ある交渉相手のメールの最後にこう添えたの。

“柏木社長、彼女に贈る指輪をお探しなら、相談にのりますよ。ティファニーなんかいかがです?”って」


留美子はヒモ男・柏木を知っていた!?


ヒモ男・柏木恒星の正体


-柏木…社長?

言葉の意味が飲み込めず、梓は目を白黒させた。
留美子は気にせず話を続ける。

「うちの会社もグローバル化しなきゃってことでね、IT開発の外注先を探しにフィリピンに行ってたのよ」

グローバルをやたら巻き舌で発音すると、留美子は豪快にパイナップルに噛りついた。

「でも全っ然だめ。優秀なエンジニアはすでに囲われてて、新参者の入るスキはないわけ。特にいい人材がこの日本のゲーム会社に集中してるのよ」

留美子が見せてきた画面は、ゲームに疎い梓にも見覚えがあるものだった。キャラクターを積み上げて消すだけの単純なものだが、電車の中でやっている人を頻繁に見かける。

「29歳のときに自宅アパートの一室でこのゲームを開発して一晩で億万長者になったのが、柏木社長よ」




「………」

梓は口を開けたまま、ただ言葉を継げずにいた。

「そこまで調べたの?って顔してるけど、むしろ一緒に住んでてなんで気づかなかったのか知りたいわ」

「だって…彼はずっと家に…」

「ゲーム開発は基本的にPC一台あればできる仕事よ」

そう言えば彼は…柏木先輩は、バンドマンだった高校時代からPCで作曲や編曲をこなしていた。

梓の家に転がり込んでからも、よく目が疲れないなと思うほどいつ見てもPCと睨み合っていた。どうせゲームでもしているのだろうと半ば呆れながら放っておいたが、まさか作っている側だったとは-

梓は俯いていた顔をハッと上げた。

「え?じゃあなんで私のところに?それだけお金があるならいくらでもいい所に住めるはずです」

「そんなの決まってるじゃない」

留美子はやれやれという風に、大きく手を降った。

「あなたが好きだから、一緒にいたかったのよ。

本人に聞いた訳じゃないから推測だけど、たぶん再会した瞬間から彼もあなただと分かったんじゃないかしら」

-彼が私を、好きだった?

梓はほんの数秒考え込むと、顔を上げてこう告げた。

「あの、私…」






梓が去った後の店内。

甘ったるいトロピカルフルーツの残り香をつまみに白ワインを傾けながら、留美子は軽く苦笑いをした。

「あの展開は意外だったわね」
「そうですね」

寡黙なバーテンダー、タカハシは淡々とパイナップルの皮を削ぎ落としては果肉を瓶に詰めている。

「ヒモだと思ってた男が実は金持ちで、自分のことを好きだった訳よ。すごいハッピーエンドじゃない。さあ指輪をはめて彼の元へ走ろう!ってならない?」

「……」

「何がおかしいのよ」

「いや、オーナーは意外と純粋なところがあるんだなあと思いまして」

一杯に詰まったパイナップルの瓶詰めに、トクトクとホワイトリカーが注がれていく。

「あの女性が執着していたのは…“ヒモとしての彼”だったのではないでしょうか。かつては皆のアイドルだった男が落ちぶれ、自分なしでは生きられない、という状況に満足していた」

「なるほどね。自分がいなくても生きられるって分かったら急に冷めちゃった訳だ」

店を後にする梓の姿が、まぶたの裏に焼き付いている。

-もういいです。ありがとう

その横顔はどこか憑き物が落ちたように清々しかった。

「人間って、おもしろいわね」
「そうですね」

南国のむせかえるような甘い香りが、二人しかいない店内を静かに満たしていた。

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