あなたが港区界隈に住んでいるならば、きっと目にしたことがあるだろう。

透き通るような肌、絶妙にまとめられた巻き髪。エレガントな紺ワンピースに、華奢なハイヒール。

そんな装いの女たちが、まるで聖母のように微笑んで、幼稚園児の手を引く姿を。

これは特権階級が集う「港区私立名門幼稚園」を舞台にした、女たちの闘いの物語である。

麻布十番在住の菱木悠理は、作家の夫・邦彦のたっての願いで、仕事を辞め、娘の理子を名門幼稚園に入れることになった。

東京アメリカンクラブでのママ会で、役員を引き受けるよう仕向けられた悠理。

大イベントのフェスティバル準備では、高輪妻の痛烈な嫌味を受け、啖呵を切ってしまうが、のちに彼女たちの真摯に子どもに尽くす姿を見て、心を動かされる。

フェスティバルの打ち上げで思いがけず夏休みのハワイ集合に誘われる悠理。思い切って参加を表明するが―。




―思い立ってから4日で子連れハワイ、意外にできるもんだなあ。

悠理は夢見心地で、高級リゾートらしいゴージャスなトロピカルジュースを口にする。フレッシュな果物の酸味が、長いフライトで凝った体に染みわたった。

「カハラは何度来てもいいわ。悠理さん、ご主人はあとから合流されるんでしょ?うちも夫は明日からなの」

豪華ホテルの部屋の予約を悠理に譲ってくれた芝浦妻・遠峯リサが、テラス席につきながら笑いかける。

「ありがとうございます!急なことだったのに、こんな素敵なホテルに泊まれたのも遠峯さんのおかげです」

「いいのよ、皆さん別荘だから、悠理さんがハワイに別荘がなくて助かったわ。でも、理子ちゃんが機内でゴロンできなかったって…もしかして急でビジネス空いてなかった?」

ハワイどころかどこにも別荘はない。そして空いていようがいまいが幼児をビジネスに乗せることはないが、そんなマウンティングジャブを気にするにはハワイの日差しとそよ風が心地よすぎる。

ホノルルきっての超名門ホテルカハラは、高級住宅地のカハラ地区に位置し、閑静な隠れ家として歴代の大統領やハリウッドスターの定宿らしい。

幼稚園のマダムたちも、このホテルは別荘エリアからのアクセスがいいせいか、あっというまに6人が集まった。

さっそく子どものためにホテルのベビーシッターを雇い、中庭のラグーンでイルカと遊ばせ、こうして優雅にテラスダイニングでブランチ会が催されている。

芝浦妻・遠峯リサが、集合したメンバーを見まわした。

「主人が到着するまでの間、子連れで何をしようって思っていたから、皆さんと遊べて本当に嬉しいわ。

そうそう、昨日ワイキキで麻布の東郷綾子さんもお見かけしたからお誘いしたんですけど、今朝急にキャンセルされて。…なにか不都合なことがあったのかしら?」


悠理が偶然目撃した、綾子の「不都合なこと」とは?


「誰にも、誰にも言わないで」


悠理は、子どもたちのイルカアクティビティが終わる17時までの間に、プライベートチャーター機で遊びに行かないかという誘いをやんわりと辞退した。翌日のクアロア・ランチでの親子乗馬には参加すると伝えたので、そう角は立たなかったはずだ。

政治家の妻・綾子がブランチ会をドタキャンした理由を詮索する流れにハワイに来てまで加わりたくなかったし、旅先ではあくまで娘の理子が喜ぶことをしたいと思っていたのだ。

遠峯リサたちが出発してしまうと、理子のアクティビティが終わるまで束の間のフリータイムだ。悠理はホテルに近いカハラモールに行こうかと思い立つ。

ハイセンスなセレクトショップが入っているし、何より悠理の愛するオーガニックスーパー、ホールフーズ・マーケットがある。

―邦彦君が明後日到着したら3人でやりたいことたくさんあるし。今のうちにお買い物、行っちゃおう!

悠理は肌触りのいい赤いリゾートワンピースに着替えると、ホテルの専用送迎車に乗り込む。

―プライベートチャーター機もちょっと行ってみたかったけど…そんな特別な体験は、やっぱり邦彦君と理子も一緒がいいもんね。

悠理は2日後に合流する邦彦を思い浮かべて、自然に笑みがこぼれた。

カハラモールに到着し車を降りると、駐車場を横切って建物に入ろうとした悠理は、いさかう男女の声を耳にして、前方の車に目をやる。




運転席に座る男は、遠目にも小顔で整っており、見覚えのある日本人だった。そして今まさに助手席から飛び出そうとしている女は…まさか。

「あ、綾子さん?…と、遠峯…涼真!?」

思わず漏れた声がこちらに走ってきた東郷綾子の耳にとどいたのか、視線がぶつかる。綾子の顔は、涙で濡れていた。

「ゆ、悠理さん…!」

悲鳴にも似た悲壮な声で、綾子がとっさに顔を背ける。そして車を振り返ると、慌てた様子で駆け寄って悠理の腕をつかんだ。

「お願い、誰にも言わないで。お願い…!」

政治家の妻として、決して外れることはなかったポーカーフェイスをかなぐりすて、綾子が懇願している。その様子は鬼気迫るものがあった。

「言わないですよ、言わないです。綾子さん、落ち着いて」

遠峯涼真の運転する車は、二人を避けるようにするりと回り込んで、すでに出口に向かっていた。

遠峯涼真は有名イケメンプロデューサーであり、その妻は、悠理にカハラの部屋を融通してくれた遠峯リサである。

今朝リサが、「夫は明日到着する」と言っていた言葉を咄嗟に思い出した。 そして、幼稚園のフェスティバル準備で、綾子が彼を見て、逃げるように立ち去ったことも。

―こ、これは…極めて面倒な場面を見てしまった…?


政界プリンス妻とイケメンプロデューサーの予想外の関係とは?


「本当に好きなのは君だけだ」


「綾子さん、飲み物、どっちがいいですか?」

取り乱した綾子を、すぐ近くにあった『ザ・カウンター・カスタム・ビルト・バーガー』の外から見えにくい席に座らせた。

ホットとアイス両方のコーヒーを差し出すと、綾子はようやく涙を拭いて顔を上げる。

「…ありがとう」

おそらく絶対に見られたくなかったところを見られた綾子は、もはや取り繕うことをあきらめたのか、子どものように素直にホットコーヒーを受け取った。

「何かトラブルにあったんですか…?それを遠峯さんのご主人に助けてもらったとかですよね?口外なんてしませんから。こう見えて私、口が堅いんです」

悠理が安心させるように笑うと、綾子は泣き笑いのような表情を浮かべた。

「まさかハワイであんなところ見られちゃうなんて…でも、悠理さんで良かったのかも」

綾子はため息をつくと、観念したように微笑んだ。

「あのね、彼、昔好きだった人なの。私が、生涯ただ一人、好きになったひと」

「はあ…」

悠理は何と言っていいかわからずアイスコナコーヒーをごくごく飲み干した。美味しいはずなのに、ちっとも味がわからない。




「私、幼稚園から女子校で。両親はそのまま大学に進めばいいと思っていたみたいだけど、負けず嫌いだったから、結構勉強も頑張って、大学は共学に行って…そこで彼に会ったの」

この場合のカレ、というのは、現夫の政界プリンスではなく、売れっ子プロデューサー遠峯涼真を指しているのだろう。どちらにせよ派手な登場人物だ。悠理はただうなずくばかりである。

「もちろん初恋だし、男のひとにどうやって近づいたらいいのかもわからないし、彼はあの通りの容姿でいつも女の子に囲まれてるしで、2年くらいは何の進展もなかった」

綾子は、何を思い出しているのか、涙がぽたぽたと白いワンピースに落ちる。

「だから思いが叶ったときは嬉しくて…。大学を卒業したら東郷家に嫁ぐことは決まっていたけど、本気で駆け落ちしようと思ったの」

「か、駆け落ちですか?今時!?じ、上流階級っぽいお話ですね」

「でも、彼は来なかった。…それで物語はお仕舞い。この幼稚園に入るまでは」

「ああ…再会しちゃったんですね…。よりによって、子どもの同級生の親として」

先の展開が読めてきた。悠理は眩暈をおぼえる。どこか陳腐なストーリーにも聞こえるが、それでも綾子を突き放すことはできなかった。

時に正論が過ぎて攻撃的ではあったが、完璧な妻であり母であった綾子。そんな彼女に、これほどナイーブな一面があったとは。

「彼、『昔、君を奪いにいけなかったのは、ご両親に頭を下げられたからだ』って。その時もらった手切れ金は、手を付けずに今も持っている。それを返したいっていうから…ハワイなら人目に触れないかと思って」

「…で、会ったら、何か言われたんですか…?」

悠理の言葉に、綾子はまるで頼りない子どものように、こっくりとうなずく。

「本当に好きなのは君だけだ。誰と一緒にいても、ずっと忘れられなかったって」

悠理は、胡散臭いくらい甘いマスクで時代の寵児と持て囃された遠峯涼真が、さきほど逃げるように去ったシーンを思い浮かべ、はっきりと嫌悪感を持った。

彼はこれまでマスコミに二流どころの女優やアイドルと撮られたことも一度や二度ではない。フェスティバルで張っていた週刊誌のなかにも、彼を狙った者もいたはずだ。

それをわかっていて、ましてや既婚者の立場でありながら、同じ、いやそれ以上に有名政治家の妻という「立場」のある綾子に揺さぶりをかけるとは…。

「綾子さん」

悠理は深呼吸すると、綾子に対して、初めて友人として言葉をかけた。

「目、覚ましてください。それ、ただの不倫です」

▶NEXT:11月4日 日曜更新予定
悠理に核心を突かれた綾子はどう出る…!?そしてついに、悠理に危機が忍び寄る。