港区在住。遊びつくした男が、40歳で結婚を決意。

妻には、15歳年下で、世間知らずな箱入り娘を選んだ。

なにも知らない彼女を「一流の女性」に育てたい。そんな願望もあった。

誰もが羨むリッチで幸せな結婚生活を送り、夫婦関係もうまくいっていたはず…だったのに。

これは港区で実際に起こった、「立場逆転離婚」の物語。

15歳年下の妻・利奈(りな)に突然離婚を切り出された夫・昌宏(まさひろ)。別居後最初で最後の話し合いをし、お互いの本心を知る。しかしお互いの望む未来が違ってしまったことに妻が気づき、離婚を決め、妻は離婚届を持って家を出た。




「昌宏、もう今日は帰らない?」

私、坂巻藍子は、明らかに飲みすぎている連れの男性が、次のオーダーを入れようとしたことに驚き、一応止めてみる。

―たぶん、言うことを聞きはしないだろうけど。

「藍子、明日休みなんだろ?もう少し付き合えよ。えっと、ワインリスト…。」

予想通りの返事に、明日が休みだと伝えてしまったことを後悔しながら、気づかれぬよう溜息をついて、彼からワインリストを奪って言った。

「ボトルはもうだめ。グラスにするか、カクテルにして。」

少しでも酒量を減らそうとする私に、なんだよ、とブツブツ言いながらメニューに目を戻した男性は、私の昔の恋人・昌宏。つい最近離婚したばかりだ。

おそらく酔いたくて飲んでいるはずだが、元々アルコールに強い彼は、酔いきれていない。なのに酔いが回ったふりで陽気にふるまう彼が、そろそろ本気で痛々しい。

仕事の話で私を呼び出したはずなのに、結局別れた妻・利奈の話ばかりしていることを、流石に自覚させたほうがいいのではないか。そう思い、多分、彼が最も言われたくない事を言うことにした。

「そんなに未練があるんだったら、やり直したいって言えばいいだけじゃない?…利奈ちゃんに。」

メニューを見ていた昌宏の表情が固まったが、返事はない。

―まだまだ長い夜になりそうだな。

私は昌宏の手からメニューを奪う。そして言った。

「この後のお酒は、昌宏の分も私が決める。あと…。」

お節介を焼くなんて私らしくないし、夫婦の事情なんて2人にしかわからないのはわかっている。けど…。

たぶん私にしか言えないことだから。

「これからちょっとの間、私に話をさせて。あなたが知らない利奈ちゃんのこと。」

昌宏は頷きも拒絶もしなかったが、私は気にせず店員を呼び、アルコールは薄めで、と耳打ちしたあとジントニックを2杯注文し、話し始めた。


元彼女が明かす、夫が知らない妻の本心


「利奈ちゃんが私に電話してきた時、女2人で昌宏の悪口でも言いながらお酒でも飲もうよって誘ったんだけど。」

「悪口って…ひどいな。」

昌宏が苦笑いして、ソファにもたれかかった。聞く気はあるようでホッとする。

「まず先に私から言い始めたの。昌宏の悪いところは…プライドが高い、自信過剰、ボンボンの苦労知らずの挫折知らず、究極のカッコつけたがり。あ、あと悪口とか言われ慣れてないから、実は打たれ弱い。」

「おい、言い過ぎだろ。」

面と向かって言われて、流石にムッとしたのか、それともいたたまれなくなったのか、昌宏がジントニックをあおる。




「ほら、打たれ弱いじゃない。」

笑って茶化した私に、昌宏は困った顔で笑い返して、また一口、また一口と飲み続ける。普段は味にうるさい彼なのに、お酒が薄いことに気が付く様子はない。やっぱり普通の状態じゃないんだと、少しかわいそうにもなるが続けた。

「でもね。利奈ちゃんは言わないの、あなたの悪口。あんなに傷ついた状態だったのにもかかわらず、ね。」

昌宏の顔が少し歪んだ気がしたが、私は一気にまくし立てる。

「私が何でもいいのよって聞いても、本当に何も出てこないの。で、何て言ったと思う?」

「…わかんないな。利奈のことは。あの頃のことなら尚更、自信がない。」

語尾は消え入りそうな程、弱々しかった。

―昌宏の口から「自信がない」なんて言葉が出るなんて。

自信の固まりのはずの男。他人に弱みを見せることを極端に嫌う昌宏が見せる情けない表情に、彼の喪失感を思い知る。

―ごめんね。

私は心の中で謝ったが、話をやめるわけにはいかない。ここからが本題なのだから。

「利奈ちゃんね、『彼は、私に嫌な所を見せてくれたことがない』って言ったの。」

空になったグラスを揺らしていた昌宏の手が止まり、氷の音が消えた。

「彼は、ずっと完璧で優しい夫でした、って。わがままを言われてた藍子さんが羨ましい、って。私は藍子さんの半分も彼の事を知らないんでしょうね、って。」

あの時の利奈ちゃんの悲しそうな顔は、今でもはっきりと覚えている。

「やっぱり私が子供だからですかね、って。だから話を聞いてもらえなくても、仕方ないんでしょうか、って。彼女本当に寂しそうに笑ったの。」

喋っていくうちに、自分が彼女に同化し、不思議と感情がどんどん昂っていくのが分かった。怒りにも似た想いを乗せた言葉を、私は昌宏にぶつけた。

「15歳の年の差とか社会的な立場の違いとか、何だか知らないけど。あなたは何を守りたくて、完璧な夫を演じ続けていたわけ?」


ついに夫が自分の望みに気が付く!その時離婚届けが…


昌宏「本当は行かないでくれ、って言いたかったよ」


「あの時、結婚して2年は過ぎてたはずよね。それなのに夫の嫌なところが1つも言えない妻なんて、おかしいと思わない?」

藍子のきつい声。容赦ない言葉が、僕の胸に突き刺さる。

「…別に、完璧な夫でいようなんて、思ったことない…。」

何とか反論したつもりが、僕の言葉はたどたどしくなった。完璧な夫でいるつもりは本当になかったが、利奈にどれほど自分をさらけだしていたのか、と聞かれると確かに言葉に詰まってしまう。

「…まあ、あなただけが、変な頑張り方したわけじゃないと思うけど。」

藍子の声が少し優しくなった気がする。

「あなたが、どんなに自分の欠点を隠したとしても、夫婦として生活してたら、嫌なところの1つくらい見えるはずでしょ、普通は。」

でもね、利奈ちゃんと話しているうちに分かったのよ、と藍子が続けた。

「利奈ちゃんは、別世界から突然現れて知らない世界に連れて行ってくれた昌宏を、理想の王子様だと思い込んでたんじゃないかなって。」

「…王子様なんてガラじゃないだろ。」

「そんなこと、私は分かってるわよ。」

でも利奈ちゃんにとってはそうだった、と藍子は笑った。

「だから、あなたの嫌なところは見えなかったんだと思う。15歳の年の差、とか社会経験の違いが、尚更彼女にそう思わせた。自分よりあなたの方が常に正しい、ってね。」




「あなたにとっても、そうだったわけでしょ。散々遊びつくして、私みたいに口うるさい女に懲りた後に選んだ、理想の妻。理想同士の結婚って、響きはキラキラしてるけどね」

その先、藍子が何と続けたいのか、聞かずとも分かった。

僕らはたぶん、お互いに自分の理想を押しつけるばかりで、お互いのありのままの姿を見ることを怠った。今、客観的に聞くと尚更、そんな男女関係は夫婦じゃなくてもいびつだ。

―理想だけで生活が続けられるはずがない。

「そして、あの悲しい出来事が起こったわけだけど。」

藍子の声がシリアスになり、僕はまた、彼女に視線を戻す。

「あの事で彼女は初めて王子様…あなたを疑い始めて、変わった。私はあなたたち2人の本当の関係は、あそこから始まったんじゃないかなって思う。」

始まった?僕はピンとこず、藍子の次の言葉を待った。

「少なくとも彼女は、新しい関係を作ろうとしてた。私に相談に来た時も、あなたと対等に話ができる自分になりたいって、必死だったわよ。」

「俺は、彼女の成長にも、関係が変わっていくことにも全く気が付かなかったけどな。」

自嘲気味に言った僕に、藍子はバカね、と心底あきれたような口調で言った。

「だいたい15歳も年下で無垢な彼女と結婚してるんだから。そもそもあなたがいろんなものを与えて育てようとしてたわけでしょ?彼女が自我に芽生えて成長するのは当たり前だと思うけど。子どもの事が起こらなくてもね。」

藍子の正論に、ぐうの音も出ない。

「まあ、私から見ても利奈ちゃんは幼いし、1人で成長しようとするなんて1人よがりだな、とも思うけど。それが、あの時の彼女にできる精一杯だったんじゃないかな。」

でも、と藍子が一息ついた。そして。

「私、利奈ちゃんの気持ち、分かるのよね。私があなたのプロポーズを断った時、本当はどう思ってたか、言っていい?」

藍子が、やっと言える、と笑って続けた。


藍子が分析する利奈の気持ちに、夫はぐうの音もでない。


「せめて、怒ったり、悲しんだりしてほしかったのよね。でもあなたあっさり笑顔で、君の意志を尊重するよ、じゃあさよなら、みたいな感じだったじゃない?私ってそれくらいの存在なんだな、って思ったわ。」

「本当は、行かないでくれって言いたかったよ」

「言いたかったって今更、一番無駄な言葉。じゃあそれはいつ言うつもりだったの?しかも今、あなた、利奈ちゃんにも同じことしてる。相手のことを思ったフリをして自分の気持ちを隠す。それ、何のためなの?」

その時LINEの通知音が鳴り、不意に携帯画面を覗く。利奈からだった。

「…利奈からだ。」

「…見てみれば?」

藍子の言葉より早く、僕はトーク画面を開いていた。そこには。

「離婚届け、本日出させていただきました。お世話になりました。」

なんの感情も読み取れない、シンプルな文章。

「もう、手遅れみたいだ。」

明るく茶化して見せようと、トーク画面を開いたままテーブルに置く。藍子は画面に視線を落とすと、今日何度目かの溜息をついた。

「カッコつけて、離婚届けなんて預けるからそうなるのよ。」

―何も知らないくせに。

「そうしなきゃ、利奈が本当につらそうだったんだよ!!」

カッとなり言葉が荒くなった。しかし藍子は僕の怒りなどどうでもいい、と言わんばかりに言った。

「それは利奈ちゃんの意志でしょ。あなたは”本当は”どうしたいわけ?」

逃げることは許さない、とでも言いたげに藍子の強い視線が僕をとらえる。

「一度くらい、むき出しの感情をぶつけてみれば?利奈ちゃんはもうやったわよ、あなたに対して。年の差とか、経験値の差を活かすなら今だと思うけど。あと…」

藍子の声にさらに熱がこもる。

「利奈ちゃんが、あなたを傷つけたかった、復讐したかった、って言ったことを気にしてるのかもしれないけど。私思うの。傷つけたい、って、叫び、よね。私を見てっていう叫び。ある意味、強烈な愛情表現。あなたもそうしたら?」

一拍の間。そして。

「まだ好きなんでしょ?今回こそ、変なプライドに囚われるのを止めるべきだと思うけど。」

藍子の迫力に、目が覚めた気がした。そしてLINEの画面を開く。

「他人になったけど、もう一度会えないかな」

そこまで打ち、悩んで指が止まった。

するとボルドーの爪がスッと伸びてきて送信ボタンが押された。驚き顔を上げると、藍子が笑っていた。




そして、乾杯するようなしぐさでグラスを上げて言った。

「上手くいったらめちゃくちゃ高いワイン、開けてよね。3人で飲もう。」

さらに。

「たまには、お金も地位も役に立たない勝負、してみれば?利奈ちゃんも頑固だから、まあ、簡単にうまくいくとは思えないけど。」

せいぜい苦労してみて、と言って笑うと、藍子は手を上げて店員に会計を頼んだ。

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夫の必死の行動は幼い元妻の心を溶かすのか?