―年収が、上がらない。

薄々と気付いていた、サラリーマンの年収の限界。

大手広告代理店勤務の貴一(32)が改めてそれを実感したのは、入社10年目の1月、源泉徴収票を見た時だった。

…俺の人生は、こうやって終わっていくのだろうか?

転職活動を始めた貴一は、元同期・啓介が起業した会社に誘われ、見学に行く。ついに転職を決意した貴一に、思わぬ横やりが入る。




―ここで働くのも、悪くないのかもしれない。

元同期・啓介が起業した会社で、俺は漠然とそう思った。

啓介の会社での、プランナーとしての仕事。今より年収は下がったとしても、裁量は大きくなり、身動きも取りやすい。何より、人のエネルギー量に比例するような未来への期待感が、会社全体に溢れている。

「どう?決心ついた?」

啓介はいたずらっこのような笑みを浮かべ、俺にそう問うてきた。

「そうだな…」

どっちにもつかない返答だったが、これから始まる冒険への期待のような感情がにじみ出ていたのかもしれない。啓介は俺の肩をぽんっと叩き、「一緒にやろうぜ」と言った。

その言葉に、俺は神妙にうなずいた。

―とうとう、踏み込んでしまった。

これから始まる新しい挑戦への期待と不安で、心の中のざわつきが止まらなくなった。


ついに転職を決意した貴一。しかし、思いもよらぬところでつまずく!?


俺は、こうして転職を決意した。

啓介には、「できるだけ早くジョインして」と言われている。しかし、定例の人事異動が終わったこの時期に言い出すのは、何とも空気の読めないヤツである。

しかし、いつまで経っても「空気を読んで」いたら、きっと自分の人生は一生切り拓けないままだ。そんなことをいつまで経っても気にしているから、「このままでいいのか」というモヤモヤはこんなに大きくなってしまったのだ。

俺はまず、部長に言うことにした。新入社員時代から丸9年ほど上司と部下の関係で、飲みに連れて行ってもらった回数は数え切れないほど。できるならばこの決断を応援してほしい気持ちはある。

しかし部長は、外見や物腰は柔らかで人当たりのいい人物なのだが、実はとても緻密に計算する性格で、全く油断はできない。




ミーティングルームに部長を呼び出し、退職する旨を告げた。すると、部長は明らかに動揺した様子を見せた。

それもそのはずだ。

自分でも分かっていたことだったが、32歳の俺は部長からもすこぶる重宝されており、実は部下を子飼いするタイプの部長にとって、絶対に面白くないできごとなのだ。

俺が退職に至る経緯をひととおり話すと、部長は手を額の方にやり、明らかに失望した態度を見せた。普段滅多にこんな姿を見せないので、これが本心なのかポーズなのか、判断がつきかねた。長い沈黙の後やっと口を開いたかと思ったら、こう言い放った。

「俺は、絶対に認めない」

予想以上に、強い口調だった。正直、転職が決して珍しくはない業界だし、背中を押してくれとまでは言わないが、ここまで断定的に言われるとは想定外だったのだ。

そこから部長は俺の転職について30分ほど反対意見を述べていたが、要約するとそれは一言につきた。

「待遇も知名度も落ちる会社に行く必要はない」

それが、言い分だった。


オフィスで、あの人に遭遇!?


結局、話は平行線のまま終わってしまった。

部長の言うことも、分からないでもない。転職しない方が身分的にも収入的にも安定する。だからこそこの3ヶ月間、悩みに悩んでいたのだ。自分をどうにか納得させた時に、第三者からまた同じ論点でほじくり返されると、少しやりきれない気持ちになった。

しかし、もう答えは決まっているのだ。俺は、転職する。もうそこに揺らぎはない。

その日は結局、22時過ぎまでオフィスでだらだらと仕事をしていた。すると、帰り際、元上司・井上さんに遭遇した。

「お、一杯飲みに行くか?」

部長との打ち合わせで疲れていたが、「行きます」と返事した。



向かった先は、井上さん御用達の『バー ティアレ』。カジュアルな雰囲気のこのバーは、テーブル席もあって男2人でも入りやすい。




「なるほどねぇ。まぁ確かに上司にとっては耳が痛い話だ」

井上さんは、ウィスキーにちびちびと口をつけながら、今日のできごとについての感想を述べた。

「まさか、あんなに反対されるとは思ってなくて…。何でだろう」

ぽつりと俺が言うと、井上さんはこう言った。

「そりゃあ、2パターンあるな。1つは、会社として困るっていうこちら側の事情。もう1つは、本当にそいつのためにならない決断だと思ってること」

―後者だったら、いやだな。

その一言に、少し動揺する。

「まぁでも、お前の気持ちは固まってるんだろ?」

井上さんにそう問われ、俺は「もちろん」と返答した。これはもう、長期戦になっても戦うしかない。

「仕事はゲームだ」と言って、仕事の醍醐味を教えてくれた井上さんと、もうこんな風にばったり会って飲みに行く機会もなくなるんだなぁと思うと、途端に転職するという実感がわいてきた。

「井上さん、転職しても飲みに連れて行ってくださいね」

俺が言うと、井上さんは「何だよ急に」と言いながらも、嬉しそうにうなずいてくれた。

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最終回。貴一の転職は成功だったのか?