「ダイエーの看板を全部外してもろてください」

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■12月26日、ダイエーは上場廃止に

2014年9月24日、イオンはダイエーを完全子会社化すると発表。ダイエーは12月26日で上場廃止となる。

さかのぼること1年前。2013年3月の子会社化発表の記者会見で、イオンの岡田元也社長は「かつてはライバルだったが、恩讐を超えて交われば、大きな効果を出すことができる」とコメントした。岡田社長の胸の内には、複雑な思いが去来したことだろう。

わたしは、中内功さんが生きていたら何とコメントされただろうと考えた。

「イオンが経営するダイエーて、そら理屈に合わんでしょ。岡田さんに言うて、ダイエーの看板を全部外してもろてください」

経営理念や業態・コンセプトというものを過度に重視してこられた中内さんなら、公式コメントは当然控えられたと思うが、恐らくこんな感じで身近な人に呟かれたのではないだろうか?

それにしても、中内さんとはどんな人だったのか? 2005年に亡くなられているため、多くの人にとっては過去の人、いわば“セピア色の写真”のような存在かもしれない。しかし、わたしは今回の歴史的節目に、セピア色の中内さんをアルバムから取り出して、“カラー写真”に焼き直して見なおしてみたいという思いにかられた。

日本で最初に自らを「CEO」と名乗った人、それが中内功さんである。CEO、すなわち最高経営責任者。

中内さんは、かねてからよくこんなことを言っていた。

「社長や部長といった『長』と呼ばれる人間になっても、そんなもんはどこにでもおる。石を投げたら大体『長』の名刺を持っとる奴に当たるもんや。むしろ『者』の付く人間にならなあかん。芸者、役者、経営者、学者、みんな誰でもなれるもんやない。芸者でも役者でも、お座敷や舞台にお呼びがかからんようになったら引退や。経営者も一緒やで。体張ってやってるから魅力的なんや」と。

そんな中内さんがCEOと呼ばれ始めたのは、わたしが秘書になった1982年頃、当時の秘書課長の赤羽女史が中内さんに伝言するためのメモ用紙に、「To.CEO」という書き出しを印刷したのが始まりである。海外出張から帰ってきた中内さんが、「CEOという名称は商法上どうなんや?(使えるんか?)」と問いかけたのに対して「とりあえず」という形で呼応したのだ。ここから「CEO」は社内外に“普及”していった。「CEOって呼ばれると、ちょっとうれしいみたい」と赤羽さんは言っていたものだ。

■中内功は生活者の意識や価値観も変革した

中内さんは、「ダイエーの創業者」であり「流通革命の第一人者」「強い志を持ったオーナー経営者」であった。そしてあるときは「哲学者」のような側面もあった。加えて、我々戦後の人間には計り知れない「戦争経験者」でもある。中内さんにまつわる「者」は、そのままそれが中内さんの生き方であり、歴史だった。

一方で、とにかく中内さんは一筋縄ではいかない。偏屈で天邪鬼、背も低く、ずんぐりむっくりで顔も悪い(失礼ながら!)。しかしどこか面白さがあり、憎めない。不思議な魅力がある。「え〜っ! そんなひどい仕打ちを受けたの?」というような悲惨な目にあった人でさえ、後に中内さんの話になるとしかめ面をしながらも目を輝かせ、中内さんと共に働き、あるときは一戦を交えた時代があったことを人生の勲章にしていることを隠し切れない様子を見せるのだ。

このように、人々の心を揺さぶり、多くの人に愛されしかし時として憎まれ、絶賛され疎んじられた中内さん。自分に対する評価が二分三分するのも意に介さない豪傑なのかと思いきや、実はそれを気にしてウジウジしている。しかし、実現不可能と思えるようなことに果敢に挑戦し、やってみせる。本当に複雑で予測がつかない。中内さんが自称する「カオス」(混沌)とはこういうことなのか。

このような『長』ではない『者』──本当の意味での大物CEO──は今後この日本に出てくるのだろうか? 恐らく、大変残念ではあるが、出てこないと思う。中内さん以上に金儲けする人、中内さん以上に理路整然と経営について語れる人、こうした人は今後も出てくることだろう。しかし、戦後裸一貫から身を起こし、流通業を基軸として第一次産業から第三次産業に至るまで日本経済全体に大きな影響を及ぼし、かつ生活者の意識や価値観をも変革した中内さん。こんな経営者はもはや出ないであろう。

※本稿は書籍『中内功のかばん持ち』(恩地祥光 著)から抜粋・改定したものです。

(株式会社レコフ代表取締役 恩地祥光=文)