『露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析』立木康介/河出書房新社

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フロイトにはじまる精神分析は、幼児期の性欲をずいぶんと重視した。
幼児期に性欲の充足(とりわけ、親を性の対象とすること)が禁止されることによって、子どもはいわば「断念」あるいは「欠如」を体験する。この欠如が、人間の欲望のもとになっている、という人間観である。
だから、精神分析に批判的な人は、いくらなんでも幼児期の性欲を大きく見積もりすぎなんじゃないか、と言う。僕自身も、ちょっとそう思っている側の人間だ。

フロイトが書いたもののなかでおもしろいのは、これでもってフロイトが人間の行動、とくに「文化的」な行動を説明しようとしたところだ。
もちろん、フロイトの当初の目的は、人間が精神を病む仕組を解き明かすことだった。
ところが、いろいろと臨床の経験を積み、また理論を構築していくうちに、病だけでなく、人が恋したり、出世しようとしたり、お金儲けしようとしたりするような、要は一般的な行動も、「禁止」「断念」「欠如」「抑圧」をキーワードに説明できるようになる。
それだけでなく、ついには宗教とか流行とかいったような、文化面での現象が、「なにか」の欠如にたいするリアクションとして説明できてしまう(かもしれない)のだ。
その「なにか」が「幼児期の性欲充足」なのか、そして「幼児期の性欲充足」がこれだけ大きい比重を占めることが、ほんとうに正しいかどうか、という議論は置いておくとして、
「自分の心のなかの、自分に見えない部分」
を仮定したのが、フロイトのやった最大のことだった。
そこにある「なにか」は、フロイトに影響されたり反撥したりする後世の医師や心理学者によって、「幼児期の性欲充足」以外のさまざまなものに置き換えられてきた。その詳細は措くとして、そのいっぽうで、フロイトに還れと主張したジャック・ラカンのような人たちもいる。

立木康介(ついき こうすけ)の《文藝》連載をまとめた『露出せよ、と現代文明は言う 「心の闇」の喪失と精神分析』(河出書房新社)は、フロイトやラカンの文明論を、現代の先進諸国の実情にあわせてアップデートしようとした、精神分析サイドからの同時代文明論だ。
時代や文化が異なれば、なにが禁止されなにが重視されるかが変わる。というか、この言いかたはむしろ因果関係が逆かもしれない。禁止される対象が変化することによって、文化が変わる、というのが精神分析っぽい考えかたなのかも。というのが、この本を読んで考えたことだった。

フロイトは思考を2種類に分類した。本書で立木は議論を簡略化するためにそれぞれを〈思考1〉〈思考2〉と命名している。
〈思考1〉……不快の放出と快の再生産(願望充足)を自動的に追求する、発散型・満足追求型の思考。〈「思考」というよりはむしろ「反応」に近い〉。
〈思考2〉……一時的にではあれ不快を受け入れ、めざす快が獲得可能かどうか現実を吟味し、手に入れるためにどうしたらいいか考える忍耐型の思考。
立木は現代文明の特徴を、〈思考2〉にたいする〈思考1〉の優位とみる。つまり、瞬間的な反応のほうが許されてしまい、大人の思考よりも優位になってしまっているということだ。
こういうふうに紹介してしまうと、「テクノロジーによって生活が便利になったから現代人はフロイトの時代に比べて我慢を知らない」、というよくある一般論にように思われてしまうかもしれないが、『露出せよ、と現代文明は言う』はそういう本ではない。

そこに「露出」が絡んでくる、というのがこの本の着眼点なのだ。なーるほどー。
SNSでの感情や判断の表明について考えてみたら、このことはよくわかる。
たとえば、こういう一節。

〈今日の社会において、コミュニケーションの増大が個人のナルシシズムの肥大化となんの齟齬もなく同時進行しているとすれば、それはひとえに、メディアを介するコミュニケーションが私たち自身のナルシシズムを不可欠の前提としているからにほかならない〉

これを読んで思い出した。版元品切ではない本を図書館で借りたと公言するのは文脈によっては、「買うほどの本ではないと判断した」と公言するナルシシズムである、などと書いて、いろんな人に怒られたことがある。そのときに驚いたのは、「図書館で借りてどこが悪い」という不思議な怒りかたをしてくる人が多かったことだ。
「本を借りること」と「本を借りたと公言すること」とを切り離さない思考、本をどういう経路で入手したのかをどうしても公言したいという欲望は、ナルシシズムを不可欠の前提とするコミュニケーションによって新たに開発された〈反応〉なのかもしれない。
いろんな人に怒られたことの責任はすべて僕の書きかたのせいなのだ。というかそれ以前に、自分のどうでもいい好き嫌いをSNSでダダ漏れさせてしまった点で同じ穴の狢以外のなにものでもない僕に、ナルシシズムを云々されたくなんかないよね。ごめんなさい!

『露出せよ、と現代文明は言う』のなかでは、SNSやUstreamでの情報ダダ漏れ、セキュリティ技術における生体認証、プラスティネーション技術を応用して死体そのものを展示する「人体の不思議展」、臨床精神医学分野での〈エビデンス〉の絶対化、など、さまざまな領域での現象が、「露出」というキーワードによって串刺しにされる。〈ダダ漏れ〉という語についての分析それ自体もおもしろい。
SNS環境では、言わなくていいことまで公言してしまう。個人情報じゃなければなにが流出してもかまわない、というのが、いま僕らが立っている地点なのだ。
(千野帽子)