北官能小説「月光」
テキスト系妄想メディア「ワラパッパ (WARAPAPPA )」より
カウンター席のハイチェアーが小さくギシギシと音を立てた。静かな店内に無機質な音が響きわたる。その瞬間、 そこにいる人間全ての意識がエミのハイチェアーに集中した。エミは自分の頬が少し紅潮したような気がして、それを誤魔化すために目の前に置かれたギムレットのグラスを手に取った。一口運ぶとジンの強い刺激がエミの舌に浸透していくのが分かる。
ハイチェアーが立てた音の余韻がすっかり消えてなくなったのを確認して、エミはチラッと左端の席で静かにグラスを傾ける男の存在を確認した。しっかりとアイロンがけされた真っ白なボタンダウンのシャツは、男の身体にピッタリと馴染んでいる。その横顔に雄々しくそびえ立つ大きな鼻筋もいつも通りだ。エミは、その男の鼻が頂上手前でほんの少しだけ曲がっているところを見るのが好きだった。
その男はエミのことを多分知らない。毎朝の通勤電車で、エミが一方的にその男に興味を惹かれている。それだけの関係だった。名前も仕事も年令も、そして恋人がいるのかどうかも、その男に関する情報は一切持ち合わせていなかった。相手のことは全く知らない。それなのに、その男に惹かれる気持ちを抑えることができなくなっていた。だからこの夜、街で偶然見かけたその男の後を追い、そのまま見知らぬバーに入った。それまでのエミには想像すらできない大胆な行動であった。
エミはその男の横顔に、幼い頃の記憶を重ねている。
エミが小学六年生の頃、家族旅行で青森の小川原湖に行った。一日目の夜、寝付けなかったエミは、一人でフラッと外に出た。宿の門をくぐると、さっきまで家族で遊んでいた花火の黒い燃えかすの残骸を見つけた。エミはその燃えかすの残骸を足で潰して地面に広げてみた。地面が徐々に黒く染まっていく。その感触が楽しくて、エミは燃えかすの残骸を探して下を向いたままその周辺を歩いた。
しばらくすると、目線の先に人影を感じた。夜遅くに子供一人で外に出た負い目から、エミはゆっくりと視線を上げながら言い訳を考えていた。エミが完全に目線を上げると、そこにはタンクトップ姿の逞しい青年が立っていた。よく日にに焼けていることが月光の薄明りでも分かる。その青年は、エミに対して注意することはせず、かといって微笑みをかけてくれる訳でもなかった。ただ黙って左手に持ったバケツの中から右手で鰻を取り出して見せた。どす黒く大きな鰻が月明りに照らされてうねうねと身体をくねらせた。男の右手から粘り気のある液体がこぼれ落ちて男の太腿に落ちる。エミは無言のまま鰻の動きと液体の行方を見つめていた。次第に身体の奥の方から熱くなってくるのを感じる。それまでに味わったことのない感覚。恐くなったエミは踵を返し、身体の火照りを感じながら宿の部屋に走って帰った。
カウンターの左端で、男が二杯目のバーボンを注文している。エミも残りのギムレットを一気に喉に流し込んだ。喉を過ぎていったアルコールが胃の中で熱をおび、やがて身体全体に広がっていく。再び男の方を見た。この男と小川原湖の男とでは、全く印象が違う。小川原湖の男にあるのは野生の煌めき、この男に感じるのは都会的な知性。むしろ対象的な二人である。なのに、何故だろう? エミはこの男にあの夜の感覚を重ね合わせている。
ギムレットをもう一杯頼み、男を見る。通勤電車で見かける時とは違い、ワイシャツの胸元がボタン二つ分開いている。身体中に広がっていく熱が逃げ場を探し、全身の毛穴を次々に開放していく。小川原湖の夜に経験した身体の火照り。この熱はアルコールのせいだけではない。エミの視線は身体の熱量と比例して大胆になっていく。
すると、男がエミの方を向いて、微かに口元を緩めた。
月光に照らされた鰻が勢いをつけて身体をくねらせる。エミはその鰻を握ろうとするが、ヌメっと手のひらをすり抜けてしまう。エミの右手は鰻が残した粘り気だけを感じていた。男はゆっくりと立ち上がり、エミに向かって歩きだす。エミは小川原湖の満潮を感じながら、男の視線をねっとりと受け入れる。男はエミの横に立ち、ゆっくりと身体を屈め、顔を近づけるとこう言った。
「あんまりこっちば見ねでけろ。気が散ってお酒コが飲まなぐねはんで」
カウンター席のハイチェアーが小さくギシギシと音を立てた。静かな店内に無機質な音が響きわたる。その瞬間、 そこにいる人間全ての意識がエミのハイチェアーに集中した。エミは自分の頬が少し紅潮したような気がして、それを誤魔化すために目の前に置かれたギムレットのグラスを手に取った。一口運ぶとジンの強い刺激がエミの舌に浸透していくのが分かる。
その男はエミのことを多分知らない。毎朝の通勤電車で、エミが一方的にその男に興味を惹かれている。それだけの関係だった。名前も仕事も年令も、そして恋人がいるのかどうかも、その男に関する情報は一切持ち合わせていなかった。相手のことは全く知らない。それなのに、その男に惹かれる気持ちを抑えることができなくなっていた。だからこの夜、街で偶然見かけたその男の後を追い、そのまま見知らぬバーに入った。それまでのエミには想像すらできない大胆な行動であった。
エミはその男の横顔に、幼い頃の記憶を重ねている。
エミが小学六年生の頃、家族旅行で青森の小川原湖に行った。一日目の夜、寝付けなかったエミは、一人でフラッと外に出た。宿の門をくぐると、さっきまで家族で遊んでいた花火の黒い燃えかすの残骸を見つけた。エミはその燃えかすの残骸を足で潰して地面に広げてみた。地面が徐々に黒く染まっていく。その感触が楽しくて、エミは燃えかすの残骸を探して下を向いたままその周辺を歩いた。
しばらくすると、目線の先に人影を感じた。夜遅くに子供一人で外に出た負い目から、エミはゆっくりと視線を上げながら言い訳を考えていた。エミが完全に目線を上げると、そこにはタンクトップ姿の逞しい青年が立っていた。よく日にに焼けていることが月光の薄明りでも分かる。その青年は、エミに対して注意することはせず、かといって微笑みをかけてくれる訳でもなかった。ただ黙って左手に持ったバケツの中から右手で鰻を取り出して見せた。どす黒く大きな鰻が月明りに照らされてうねうねと身体をくねらせた。男の右手から粘り気のある液体がこぼれ落ちて男の太腿に落ちる。エミは無言のまま鰻の動きと液体の行方を見つめていた。次第に身体の奥の方から熱くなってくるのを感じる。それまでに味わったことのない感覚。恐くなったエミは踵を返し、身体の火照りを感じながら宿の部屋に走って帰った。
カウンターの左端で、男が二杯目のバーボンを注文している。エミも残りのギムレットを一気に喉に流し込んだ。喉を過ぎていったアルコールが胃の中で熱をおび、やがて身体全体に広がっていく。再び男の方を見た。この男と小川原湖の男とでは、全く印象が違う。小川原湖の男にあるのは野生の煌めき、この男に感じるのは都会的な知性。むしろ対象的な二人である。なのに、何故だろう? エミはこの男にあの夜の感覚を重ね合わせている。
ギムレットをもう一杯頼み、男を見る。通勤電車で見かける時とは違い、ワイシャツの胸元がボタン二つ分開いている。身体中に広がっていく熱が逃げ場を探し、全身の毛穴を次々に開放していく。小川原湖の夜に経験した身体の火照り。この熱はアルコールのせいだけではない。エミの視線は身体の熱量と比例して大胆になっていく。
すると、男がエミの方を向いて、微かに口元を緩めた。
月光に照らされた鰻が勢いをつけて身体をくねらせる。エミはその鰻を握ろうとするが、ヌメっと手のひらをすり抜けてしまう。エミの右手は鰻が残した粘り気だけを感じていた。男はゆっくりと立ち上がり、エミに向かって歩きだす。エミは小川原湖の満潮を感じながら、男の視線をねっとりと受け入れる。男はエミの横に立ち、ゆっくりと身体を屈め、顔を近づけるとこう言った。
「あんまりこっちば見ねでけろ。気が散ってお酒コが飲まなぐねはんで」
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