『最弱球団』長谷川晶一/白夜書房
雑誌「野球小僧」での連載に大幅に加筆修正して単行本化したもの。著者の長谷川はこれまでにも、『ワールド・ベースボール・ガールズ』(主婦の友社)で女子硬式野球の世界に迫り、『イチローのバットがなくなる日』(主婦の友新書)ではバットに着目するなど、異色の野球ノンフィクションを手がけてきた。最近刊行された本作も読み物として面白いだけでなく、日本プロ野球史を振り返る上でも非常に示唆に富んでいる

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北海道日本ハムファイターズの来季監督として、栗山英樹の就任がほぼ確実視されている。とはいえ、かつてヤクルトスワローズの選手だった栗山は、21年前に現役引退して以来コーチを務めたこともなくもっぱら解説者・スポーツキャスターとして活動してきた。だから、彼がプロ野球選手だったことを、ひょっとすると平成生まれの若い世代なんかは知らないんじゃなかろうか。

昭和生まれの自分から見て、いまの平成生まれにとっての栗山に近い存在というと、佐々木信也が思い浮かぶ。ちょうどわたしの生まれた1976年からフジテレビで放映のはじまった「プロ野球ニュース」で長らくキャスターを務めた佐々木は、笑顔と肯定的な語り口、それでいてよく聞くと辛辣な発言も多いことから「プロ野球マスコミ界の淀川長治」とも呼ばれた(玉木正之『プロ野球大事典』)。しかし、彼が元プロ野球選手だったことを知る人は、放映開始当初ですら少なかったのではなかろうか。

とはいえ、佐々木の現役時代の成績とくらべたら栗山がちょっとかわいそうにもなるのだけれども(笑)……なにしろ、プロ入り1年目にして全試合フルイニング出場を果たし、かつ180本ものヒットを打った。前者の記録を達成したのは日本球界ではほかに1958年の長嶋茂雄のみ、新人による180本安打記録にいたってはいまだ破られていない(ちなみに阪神タイガースのマートンが記録した今シーズンのセ・リーグの最多安打も180本だった)。当然、新人王も獲得しているものと思いきや、西鉄(現・埼玉西武)ライオンズの投手・稲尾和久にさらわれている。

その佐々木が在籍したチームは「高橋ユニオンズ」という。高橋というチーム名は、プロ野球のチームの変遷表なんかを見ていてもひときわ目立つ。だいたい高橋って何だ? べつに手帳の高橋書店が親会社だったわけではない。何と、これは高橋龍太郎という財界人が個人で経営資金を出していた球団なのだ。戦前には貴族院議員の有馬頼寧がオーナーを務めた東京セネタース、戦後も、田村駒商店の田村駒治郎が松竹ロビンスを、東洋工業(現・マツダ)の松田恒次が広島東洋カープを、それぞれ企業家個人が球団経営に携わった例はある。それでも球団名にまでオーナーの名が冠されたチームはほかに存在しない。

長谷川晶一の『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』は、実質的にわずか3年間しか存在しなかった同球団をめぐる悲喜こもごもの物語をつづったものだ。オーナーや選手、監督、コーチだけでなく、ファンや、球団の経理の担当者にスポットを当てたりと、いまや忘れ去られた球団の全体像がじつに緻密に描き出されている。また選手たちのその後の足跡も追ってぬかりない。

さて、同書によれば、戦前〜戦後に大日本麦酒(現在のサッポロビールとアサヒビールの前身)の社長を務め、「日本のビール王」と呼ばれた高橋龍太郎(戦後は参議員として吉田茂内閣の通産大臣も務めた)が個人として球団経営を引き受けた背景には、パシフィックリーグの台所事情があったという。わたしはてっきり、1950年代には西鉄ライオンズが黄金時代を築いていたわけだし、パシフィックリーグがセントラルリーグに人気・興行収入で大きく差をつけられたのは、せいぜい50年代末にジャイアンツにのちの大スター長嶋・王が入団して以降だろうと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。1950年のリーグ分裂以来、やはり人気ではセ・リーグが優位に立っていた。チーム数は当初両リーグとも7球団でスタートし、53年にはセ・リーグが現行の6球団制に移行するのだが、パは「人気のセに対抗するために」と7球団制を堅持する。しかし奇数では試合の日程的に都合が悪い。そこでパはさらなる起死回生の策として53年末、球団数を減らすのではなく1球団増やして8球団制に移行することを決めた。その中心となったのは、ときのパ・リーグ総裁で、大映スターズという球団のオーナーだった永田雅一である。

永田は、8番目の新球団のオーナーとして高橋龍太郎を担ぎ出す。すでに隠居状態にあった高橋を、永田は次のような口説き文句で落としたという。

《プロ野球のオーナーを企業が担っていることはおかしい。個人がオーナーなら、自分の投資したものが、損しても得しても何ら痛痒を感じないということはないのだから、こんなバカげた経営などしない。つまり、今のプロ野球はみんなセミプロだ。しかし、『個人・永田』が球団を持てば真剣にやるはずだ。いつかは、私も個人で球団を持ちたい》

よくよく考えてみれば、そんなに熱っぽく語っている理想をなぜ自分の球団ではなく、まず他人に実践させるの? という疑問が頭をもたげる。そもそもそれは本当に球団経営のあるべき姿なのか。相撲のタニマチと同じで、プロ野球のような近代スポーツとはもっとも相容れないものではなかろうか……。

けれども高橋は、永田の思い描いた球団経営の理想形を、愚直なまでに体現してみせた。資本提供については2年目の1955年に“名義貸し”(いまでいうネーミングライツ)という形でトンボ鉛筆に援助を請い、1シーズンだけ「トンボユニオンズ」と名乗ったものの、球団がなくなるまで実質的に高橋が自腹を切り続けた。そればかりか、球場に通いつめては試合を観戦し、試合後やオフに選手たちをねぎらうことをけっして忘れなかった。

そんなオーナーの努力はなかなか報われなかった。そもそもユニオンズは誕生した時点で出鼻をくじかれている。というのも、永田は先に引用した文句とともに、「既存の7チームから一流選手を供出し、資金面でも永田を中心に支援すること」を高橋に約束したものの、それらは結局反故にされたからだ。選手についていえば、フタを開けてみれば一流選手どころか、初代監督の浜崎真二が《何でポンコツや呑兵衛ばかりなんだ》と憤慨するほど、各チームが自軍では「不必要」と判断した選手しか集まらなかった。戦前ジャイアンツで沢村栄治と並び名投手として鳴らしたヴィクトル・スタルヒンもそのひとりである。事実、入団当時、スタルヒンはプロ入り18年目ととっくに全盛期はすぎていた。もっとも彼は2年目のシーズンに現役通算300勝を上げ、ユニオンズの歴史に輝かしい1ページをつくっている。チーム全体としても、「スタさんに300勝を!」を旗印に一丸となっての偉業達成であった。

こうした栄光の1ページがあったものの、それでも球団が弱いことには変わりなかった。1年目の1954年こそ8チーム中6位でシーズンを終えたが、2年目と3年目はダントツの最下位だった。次のようなトホホな記録、エピソードからもチームの内情がうかがえよう。記録でいえば、1年目の1954年の6月には、新人投手の田村満が「1イニング7四球」といういまだに破られていない不名誉な記録をつくっている(本人よりも交代させなかった監督のほうに問題がある気もするが)。ほかにも獲得した外国人選手が活躍しチームの順位を上げるのに貢献したかと思ったら、2カ月足らずで突如帰国してしまったり、はたまたシーズン中に現役のコーチが市議選に出馬、それを選手が熱心に応援して回るということがあったりと、とにかくありえないことだらけだ。いかりや長介ではないが、まったくもってだめだこりゃ、である。

そんなユニオンズのナインが土壇場で奮い立った試合があった。それは1956年10月8日の、毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)とのシーズン最終戦。この試合に勝てばユニオンズの勝率は「・350 」となるはずだった。じつは当時のパ・リーグでは、この勝率に達しないチームには罰金500万円が科せられる決まりになっていたのである。1年目と2年目のシーズンは罰金の対象となり、経理の担当者は金策に追われた。それが3年目には、9月末からユニオンズの“快進撃”が始まり、罰金免除まであと一歩というところにまでこぎつけたのだ。もっとも著者は《この「快進撃」を、「苦境に追い込まれたユニオンズナインが最後の意地を見せた」と見るのはいささか早計だろう》と書く。そこには、各チーム、各選手のさまざまな思惑がうごめいていたというのだが……はたして、ユニオンズにとって結果的に最後の公式試合となった最終戦は、プロ野球の歴史でもほかに例がないのではないかと思うくらい奇妙な試合となった。その詳細はぜひ、この試合の終了後にユニオンズの投手・伊藤四郎が叫んだ印象深い言葉とともに本書で確認していただきたい。

永田雅一を総裁とするパ・リーグはその後一転して、セ・リーグと同じ6球団制をめざすことになる。しかし各球団の意見は食い違い、なかなか収拾がつかなかった。それでも高橋ユニオンズの消滅は暗黙の了解としてあったというのだからやるせない。選手たちはもちろん、オーナーの高橋龍太郎もこの議論に加われないまま、ユニオンズの解散は決定した。表向きには永田の大映球団との合併となっているが、佐々木信也はいまなお、あれは「合併」ではなく「解散」であると訴え続けている。

ちなみに高橋ユニオンズは、川崎球場を本拠地とした最初のプロ球団である。のちのちには、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のフランチャイズとして、「川崎劇場」「10・19」などさまざまな記憶で彩られることになった同球場だが、高橋とロッテのあいだには、大洋ホエールズが本拠地として使っていた時期があり、同球団史上初の優勝(1960年)の舞台にもなった。ホエールズの後身はいうまでもなく横浜ベイスターズだ。先ごろ売却の決まったベイスターズのオーナーは果たして今シーズン、何度横浜スタジアムに足を運んだのであろうか。(近藤正高)

※来る10月30日(日)に東京・月島「相生の里/あいおい文庫」にて、“野球の本”の祭り、「東京野球ブックフェア」が開催される。同フェアでは、本書『最弱球団』のほか、先にエキレビ!でとりあげた菊地選手『野球部あるある』の関連イベントも行なわれるというので、本好き・野球好きは要チェックです!