アジア大会。舞い込んでくるニュースを耳にして、何より違和感を覚えるのは「金メダル」だ。「日本の●●選手が見事、金メダルに輝きました」なるフレーズを聞くと、「金メダル」が、とてもお安いものに感じられる。やっぱり金メダルは、“世界一”の称号として位置づけておくべきものだと僕は思う。

それなりの大会で優勝すれば、優勝者は表彰台の真ん中に昇る。プレゼンターから金色のメダルを首にかけられる。その瞬間、優勝者は金メダリストとなる。だが世間一般に、そのすべての優勝者が、金メダリストと称されることはない。
メダルという響きには、簡単には使いにくい特別な重みがあるからだ。優勝、準優勝、あるいは1位、2位、3位と言った方が、金メダル、銀メダル、銅メダルと言うよりはるかにしっくりくる。巷にはそうした常識が浸透しているはずだが、メディアは金銀銅を、安易に使おうとする。特に最近その傾向が強い。

ネット社会の浸透と、それは深い関係にあると思う。見出し勝負は、そのトピックス文化の浸透とともに、いっそう激しいものになっている。「1位」「優勝」よりセンセーショナルな響きのある「金メダル」は、その産物と言ってもいいだろう。
だが、それを繰り返せば、「金メダル」の価値は下がる。世界一の称号は、お安いものになる。金メダルは五輪の時だけにしてもらいたい。レベルが数段落ちるアジア大会はまずい。「日本メダルラッシュ!」と言われると、逆に白けるばかり。少なくとも僕はそう感じている。

五輪のみならず、競技毎の世界選手権も「金メダル」はオッケーだが、いま行われているバレーボールの世界選手権は別だ。スポーツが備えていなければならない肝心な何かが欠落しているような気がしてならない。自宅のすぐ近くで行われているイベントにも関わらず、僕はまったく関心を示せずにいる。日本が「メダル」を獲得しても、メダルが持っているはずの良い匂いを感じないのだ。

バレーボールの世界選手権を、僕と同じような感覚で見つめている人は少なくないはずだ。それなりの視聴率を稼いだらしいが、見ている人と、見なかった人の間には大きな差があったと思う。スポーツ好きにもかかわらず見なかった人は、絶対に見たくなかったのではないか。僕はまさにその1人だった。間違って視聴したときは、リモコンのスイッチを他のチャンネルに間髪入れずに変えていた。生理的に受け付けないとは、こういうことなのだと思う。

アジア大会が行われている時期に、なぜ世界選手権が行われなければいけないのか。そのこともまた理解に苦しむ点だ。サッカーのみならず、他競技では考えられない話だ。それで、バレーボールそのものの人気が高まれば、それはそれで結構なことかもしれないが。
このバレーボール、そしてアジア大会で行われているサッカー以外の競技を見ていても感じることは、批判をする人がほとんどいないということだ。監督采配にケチをつけたり、協会の強化方針に異論を唱えたりする人が、いない。それはサッカーに限られたもののように思える。サッカーが極端にダメだから、というわけではない。むしろその逆。他の競技に比べればサッカーはずいぶんマシだと思う。

93年、雫石で行われたアルペンスキーの世界選手権を取材した時の話だ。僕は大会のあり方や運営方法等について、いつものように、かくあるべきだったのではないかと、一言二言、某スキー雑誌に意見を書いた。
すると、その雑誌の編集者は後日、スキー連盟から呼び出しを食い、そのことについての釈明を求められる事態に陥ったのだ。かなり大人しめに書いたつもりだが、スキーの世界には連盟に異を唱えたりする習慣がまるでないそうで、僕の一言二言が結果的に大いに目立つことになったらしいのだ。スキーの世界の空気を読めなかったわけだが、その他の競技の空気も似たり寄ったりだと僕は思う。例外はサッカーだけ。代表監督是非論が飛び出す競技に長年、お目にかかれずにいる。