仏舎利は何を語るか 推古朝が選択した文化国家への道

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神武天皇から持統天皇まで、「日本」王朝の正統な歴史を見よ! いかに読むか? 面白さに触れるには? 古代文学研究の第一人者が根源から問い直した思索の集大成『日本書紀を読む』 『日本書紀』を読むことは、漢文として読むことだ--。 漢文世界に生きていた人びとの感覚と向き合うことで、『日本書紀』が語る歴史に触れることができる。 『日本書紀』の本質に迫る決定版!

(本記事は、神野志隆光『日本書紀を読む』の一部を抜粋・編集しています)

『日本書紀』の推古朝~持統朝 ──文化国家への到達

前章に見たとおり、仁徳天皇の皇統は、応神天皇以降の新たな世界──朝鮮半島までひろげた世界──を引き受けて経営したが、その皇統は、武烈天皇で断絶した。あらたな皇統は、ひらかれた世界と向きあい、中国王朝との関係とともに、みずからの転換を余儀なくされる。とくに、ちょうど七世紀に相当する、推古朝~持統朝は、おおきな転換の時代であった。それを『日本書紀』はどう語るか。

現在の歴史研究のなかに、七世紀史を、『日本書紀』をもとに見通そうとするあたらしい動向がある。吉川真司に代表されるが、それは、「『日本書紀』の信頼性」(『飛鳥の都』岩波新書、二〇一一年、「はじめに」)にもとづく。『日本書紀』の史料批判にかかわり、従来の『日本書紀』批判は行き過ぎではなかったかとするのである。

こうした状況に対して、『日本書紀』を読む立場が問われる。歴史研究は『日本書紀』を歴史といかにつなぐかという発想(思考様式)に規制されてきた(いまも拘束されている)。わたしたちは、そこからの解放をもとめる。要は、『日本書紀』を『日本書紀』として読むということにつきる。『日本書紀』に見るべきなのは、あるいは、見ることができるのは、あくまで『日本書紀』の「歴史」であり、現実の歴史とは別だ。それが、わたしたちの立場だと明確にしよう。歴史研究とは決定的にちがうのである(参照、神野志隆光『複数の「古代」』講談社現代新書、二〇〇七年)。

歴史研究には、『日本書紀』の「歴史」という視点がない。わたしたちは『日本書紀』における推古朝~持統朝を、『日本書紀』の「歴史」としてどう読むか。概略は、以下のようになる。

推古朝はおおきな転換をむかえた。それは、「大唐」と呼ぶ、大陸の王朝とはじめて関係をもつことによってもたらされる。仏法の受容がその入り口であった。それは国際標準にならうことの選択であり、「大唐」に通じる世界の水準に見合う国家であることをみずからもとめたのである。氏姓制の根本的転換としての冠位十二階をはじめとして、その全体はあたらしい文化国家の構築というのがふさわしい。この王権の追求は、推古天皇崩御後の権力闘争の結果、蘇我大臣(おおおみ)家を排除した乙巳(六四五年)の変を経て、さらに推進された。いわゆる大化改新である。そこでは、皇室や氏が支配していた人民をも、国家が一元的に支配する、公民制への画期的な変革がうちだされた。それをはたすには、大陸の王朝がつちかった律令という法体系とそれを運用する官僚制とが必要となる。天智朝に、造戸籍など単行法令を実施しつつ、律令として完成しえたのは天武・持統朝においてであった。浄御原令においてまとめ上げられたのである。推古朝以来の展開の完成ということができる。

『日本書紀』の推古朝

推古天皇・厩戸皇太子・馬子大臣

崇峻五年(五九二年)十一月、崇峻天皇は暗殺されたが、その日に葬られた。異例の扱いであり、諸陵式に「陵地幷(なら)びに陵戸無し」というのも極めて異例である。天皇としての扱いとはいえないものがある。

十二月に、群臣の推挙をうけて推古天皇が即位した。翌年(推古元年)四月に厩戸皇子を皇太子として立て、推古朝は始発した。即位の際に、大臣・大連を定めることが用明天皇までの通例であったが、その記事はない。ただ、崇峻を暗殺した蘇我馬子がそのまま大臣であったことは明確であるが、大連はあらわれない。ちなみに、崇峻即位の際に馬子を大臣としたとあるが、大連を定めたことはいわれない。なおいえば、舒明天皇の即位にあたって、大臣を定めた記事はないが、皇極天皇即位に際しては「以蘇我臣蝦夷為大臣如故(蘇我臣蝦夷を大臣とすることは前のとおりである。)」──ただし、蝦夷が大臣になったという記事は、その以前にはない──とある。しかし、大連についてはいずれにもいわれることがない。大連物部守屋(もののべのもりや)を排除した(崇峻即位前紀)あとは、大連は不在のままであることに注意される。

推古天皇・厩戸皇太子・馬子大臣のもとに群臣が結集した体制をつくったということであり、崇峻天皇暗殺後、それがすみやかに構築されたというのである。それは、いままでに例のない権力体制であった。そのことを明確にしてはじめよう。

まず、推古天皇は、はじめての女帝であった-(1)。つぎに、元年に皇太子を立てるのも異例であった-(2)。そして、大連を定めないままであることに留意される。大臣・大連制とは異なるものとなったのである-(3)。

ていねいにいえば、

(1)崇峻即位前紀、用明崩御後に物部守屋が穴穂部皇子(あなほべのみこ)を天皇にたてようとしたとき、馬子らは、「奉炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)詔」して──「尊」「詔」に注意される──、穴穂部皇子・宅部皇子(やかべのみこ)を誅殺したといい、守屋討滅後、崇峻天皇を擁立するにあたっても、「炊屋姫尊与群臣勧進天皇、即天皇之位」とあって、炊屋姫尊(推古)が主導的であったと見られる。

わたしたちの注釈(新釈全訳本中巻六六一ページ注一六)は、「奉炊屋姫尊詔」に、

敏達天皇の皇后。後の推古天皇。参照、敏達五年三月条。「尊」「詔」と天皇に準じた表現を用いることに注意される。敏達天皇の崩後、皇位継承者が決定していない状況にあって、皇后を奉じて詔を出すことが必要であった。

と注したが、不十分だったかもしれない。大系本は「皇位継承上、困難な事情のある時、先帝の皇后が政治にあずかる一例」と注し、新編全集本は「天皇崩後、皇位継承者がまだ決まらない間、下詔の必要が生じた時は皇后が詔することの一例であり、「尊」の字を使用したのはそのためか」と、よりていねいだが適切とはいえず、わたしたちの注をふくめていずれも推古の主導性を説明しえていない。義江明子『推古天皇』(二〇二〇年)が、「天皇と同様に「尊」号で記すのは、天皇不在のこの期間に「炊屋姫」(額田部)が実質的に「詔」を出す立場にあったことを示しているのだろう」というのが本質にふれている。

皇后として、天皇不在の間、政務にあずかっていたとうけとられよう。皇后がそうした立場でありうることは、神功皇后の例や、宣化天皇崩後、即位を請われた欽明天皇が、山田皇后(安閑天皇の皇后)に政務を委ねることをもとめて(即位をもとめたのではないことに留意したい)、いったんは辞したこと、また、天智天皇が病おもくなるにあたって大海人皇子を召して後事を託そうとしたとき、大海人は固辞して洪業を皇后に付嘱せんことを請うたことなどを想起すれば、了解されようが、女帝は前例がない。義江明子『推古天皇』が、血統的位地(欽明御子のなかの年長者)、皇后としての政務経験等をあげて「群臣の間にあった男王へのこだわりは、彼女の統治実績によって払拭された」というが、それで十分か、なお考えたい。

(2)『日本書紀』を通覧して、孝徳天皇即位とともに皇太子となった中大兄のほかにかかる例は見ない。この皇太子は、いわば非常体制と見るべきであろう。ただ、これに留意したものはない。

(3)大連をたてなかったことについて、大系本・新編全集本ともに注を付さないが、吉村武彦『女帝の古代日本』(岩波新書、二〇一二年)が「ここに大臣・大連制が消滅」したというとおり、重い意味をもつ。後述するように、冠位十二階との関係を見るべきだと考えるが、この点に着目したものはない。

仏法興隆

こうした異例づくしの体制によって推古朝で推進されてゆくのは、大陸の王朝に見合う水準の国家としてみずからをつくる営みであったということができる。

はじめに、仏法──「仏教」をもちいることがなお根強いが、『日本書紀』においては「仏法」というのが通例である。仏教は、仏の教説の謂い、仏法はより包括的であることにてらして、受容・興隆というときには「仏法」とするのが適切であろう──受容の確立をあげねばならぬ。二年(五九四年)二月条に、「詔皇太子及大臣、令興隆三宝。是時諸臣連等各為君親之恩、競造仏舎。即是謂寺焉(皇太子と大臣とに詔して、三宝を興隆させた。この時に、もろもろの臣連たちはそれぞれ天皇や親の恩にむくいるために、きそって仏舎を造った。これを寺という。)」とあるように、政権の出発にあたって、三宝の興隆をいうのである。

さきだって、元年正月条には「以仏舎利、置于法興寺刹柱礎中(仏舎利を法興寺の塔の心礎のなかに安置した。)」とあった。あまり注意されることがなかったが、仏舎利は、百済や新羅からも献じられることが示すように、仏法受容にとって象徴的な意味をもつ。

仏舎利のことをさらにさかのぼると、敏達十三年(五八四年)是歳条に、蘇我馬子が、百済からもたらされた弥勒の石像、またべつの仏像とを請い受けて、僧尼をもとめ、仏殿を造営し、大法会をおこなったとき、司馬達等(しばたつと)が、斎食の上に仏舎利を得、馬子に献じたところ、霊異をしめしたという。

これをうけて、

由是馬子宿祢・池辺氷田・司馬達等、保信仏法、修行不懈。馬子宿祢亦於石川宅修治仏殿。仏法之初、自茲而作。

(これによって、馬子宿祢(うまこのすくね)・池辺氷田(いけへのひた)・司馬達等は、仏法を深く信じ、修行をおこたらなかった。馬子宿祢はまた石川の家に仏殿をつくった。仏法の初めはこれからおこったのである。)

という。

「仏法之初、自茲而作」に注意したい。ここで「仏法之初」といわれるのである。欽明十三年(五五二年)に釈迦像・経論等がもたらされたが、それだけでなく、僧尼と寺とともに、仏舎利まで得て、はじめて「仏法之初」といわれるということである。その後、敏達十四年(五八五年)二月条に、塔を建て、舎利を塔の柱頭におさめたという。塔を建てることができて、寺は完成しえたのである。

仏舎利がないと塔をつくれない。塔がないと、寺の恰好がつかない。崇峻元年(五八八年)是歳条に、百済が、仏舎利とともに、僧や寺工・鑪盤博士・瓦博士・画工を遣わしたとあり、それによって法興寺を創建しようとし、推古元年(五九三年)正月に仏舎利を刹柱の礎中に置き、同四年に寺を完成したのであったが、仏舎利と塔(鑪盤は塔にかかわる)が不可欠であった。この寺の造営は、十三年の銅・繍の丈六仏の造仏の発願、十四年に、その完成・安置にいたる。

こうして仏法の受容を寺の造営というかたちで実現しようとすること(そこに仏舎利が不可欠であった)が、推古朝においてもっぱらになされたのだと、見届けられる。

それは、信仰の問題に帰されるものではありえない。欽明十三年十月に百済から釈迦像・経論等がもたらされたとき、蘇我稲目が、

西蕃諸国、一皆礼之。豊秋日本豈独背也。

(西蕃諸国はみなひとえに礼拝しています。わが豊秋(とよあきの)日本(やまと)だけがそむくわけにはゆきません。)

と答えたことを想起したい。「諸国」とおなじであることをもとめるとは、国際標準としてうけいれるということにほかならない。

そして、その正統性を、仏舎利の出現が保障するのである。推古十四年(六〇六年)五月条、銅の釈迦仏を製した鞍作鳥に対する勅に、こういう。

勅鞍作鳥曰、朕欲興隆内典、方将建仏刹、肇求舎利。時汝祖父司馬達等便献舎利。又於国無僧尼。於是汝父多須那為橘豊日天皇、出家恭敬仏法。又汝姨嶋女初出家、為諸尼導者、以修行釈教。今朕為造丈六仏、以求好仏像。汝之所献仏本、則合朕心。(以下略)

(天皇は鞍作鳥に勅して、「私は、仏法を興隆しようと思い、仏寺を建てようとして、まず舎利を求めた時に、お前の祖父司馬達等がすぐに舎利を献上した。また、国内に僧尼がいなかったとき、お前の父多須那(たすな)が橘豊日(たちばなのとよひ)天皇〈用明天皇〉のために出家して、仏法を敬まった。また、お前の姨嶋女(しまめ)ははじめて出家して尼たちの指導者として仏道の修行をした。今、私は丈六の仏を作るためにすぐれた仏の図像をもとめていたが、お前のつくった仏のかたちは私のこころにかなうものであった。〈以下略〉」と言った。)

祖父・父・当人の三代にわたる一族の貢献を賞するものである。ここにいう「仏刹」は、法興寺であり、推古四年(五九六年)に完成したそれは、崇峻元年に百済から渡来した寺工たちによるのであり、推古元年正月に「刹柱礎中」に置いた仏舎利は、百済からのものだと見るのが穏やかかと思われる。しかし、ここではそれを、あえて、敏達十三年に自分たちのもとに出現した仏舎利にかかわらせていうのである。仏法の地たることは、その奇蹟によって保障されるということであった。

ただ、敏達十四年に、塔を切り倒して焼き、仏像・仏殿を焼いて、焼き残りの仏像は難波の堀江に捨てたといい、また、尼たちの三衣を奪い鞭打ったとあるが、仏舎利についてはなにもふれることがない。その行方に不審をのこすのであり、切り倒されて焼かれた塔から取り出された仏舎利とするのもゆえなくはない。『集解』『通釈』はそうとったと思われる。

西の諸国とともに仏法を受け入れることは、その世界標準に並ぶこと(おなじ文化圏にあることの選択といってよい)であった。それは文化国家にむかう否応ない選択というべきであろう。

新しい世界構築

推古朝の一連の施策もおなじく見るべきだ。仏法受容に見るとおり、「大唐」と呼ぶ大陸の王朝に通じるひらかれた世界との関係を選択するところで、その世界に見合う整備を果たしてゆかねばならない。

隋を「大唐」と呼ぶことには注意が必要であろう。推古十五年(六〇七年)七月条に「大礼小野臣妹子遣於大唐」という。大系本は「事実は隋」といい、『隋書』倭国伝に大業三年に倭王が遣使朝貢したとする記事を掲げる。新編全集本も倭国伝を引くが、「大唐」の称についてはふれない。『集解』は、十六年四月条に「唐国号妹子臣曰蘇因高」とあるのによって「唐国」とあらためる。しかし、十六年四月条も「小野臣妹子至自大唐」というのであり、この変改は認めがたい。その称の意味として、「大」は敬称であり、尊重するかたちであることに留意したい。『通証』に、「我邦、漢唐をもって、専ら西土の称と為す」とし、本居宣長『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』には「書紀撰れしほどは、唐の代なりし故に、その時の名を、前へもかよはしていへる也」とするが、それでは不十分であろう。敬意・尊重をもって示すのであり、ことは世界関係の問題なのである。

新羅・百済を服属させて「天下」を成り立たせる、これまでのありようとは根本的に異なる新たな世界関係として、「大唐」と対峙する世界関係なのである。そのなかで、みずからの再構築をはたさねばならぬ。さまざまな施策はそのように見ることにみちびかれる。

年表のかたちで整理してはじめよう。

元年(五九三年)正月、仏舎利を、法興寺の塔の心礎のなかに置き、心柱を建てる。

同年四月、厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とする。

二年二月、皇太子および大臣に詔して、三宝を興隆させる。

四年十一月、法興寺を造りおわる。

十年十月、百済の観勒来たり、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢る。これを学ばせる。

十一年十月、小墾田宮(おはりだのみや)に遷る。

同年十一月是月、皇太子、大楯および靫を作り、旗に彩色した。

同年十二月、はじめて冠位(十二階)を行う。

十二年正月、はじめて冠位を賜う。

同年四月、皇太子みずから憲法十七条をつくる。

同年九月、朝礼を改める。

十三年四月、天皇、皇太子・大臣及び諸王・諸臣に詔して、銅・繍の丈六の仏像をつくる。

同年閏七月、皇太子、諸王・諸臣に命じて褶を着用させる(*)。

*この褶を着用させたこと、および、十一年条の大楯および靫を作り、旗に彩色したことについて、神野志隆光「『日本書紀』の「歴史」と「聖徳太子」」(『論集上代文学』第三十七冊、二〇一六年)は、つぎのように述べた。

使節を迎接するに足る場や、礼的秩序を整備して──瑣事の如くだが、十一年十一月是月に皇太子が大楯および靫を作り旗に彩色したこと、十三年閏七月に皇太子が諸王・諸臣に命じて褶を着用させたということも、ここでおさえよう──、はじめて「唐」との関係、また、その世界秩序のなかにはいるということを語っているのである。

そして、そこでは、はやく、坂本太郎『聖徳太子』(人物叢書、一九七九年)が、十一年条について、「朝廷の儀容の整備」の着手としてこれを位置づけ、「太子の手がけた内政の第一歩」としての意味を見ようとしたこと、さらに、さかのぼって久米邦武『上宮太子実録』(一九〇五年)が、「太子また憲法について朝礼を改定せられ、大楯及び靭を作り、旗幟に絵をかゝせ、儀礼の具を改製ある。是みな令を定むる始となし、兼て遣隋使を発して答聘使を接待する準備として、朝庭の威儀朝臣の態度を習はしおかるゝ所なり」と指摘したことにも注意した。

東野治之『聖徳太子』(岩波ジュニア新書、二〇一七年)が、この二点について「朝廷の儀礼を整えるため、太子主導の下に行われた施策といっていいでしょう。官僚制への指向が出てきたこの時期に、まさにふさわしい動きです」といい、「官僚制への指向」にかけることも、ひとつの見地である。

十四年四月、銅・繍の丈六の仏像完成。銅像は元興寺金堂に安置する。この年から寺ごとに四月八日と七月十五日の斎会をおこなうこととなる。

同年七月、天皇が、皇太子に請うて勝鬘経を講説させる。

同年是歳、皇太子、岡本宮で法華経を講説する。

十五年二月、天皇、心をつくして神祇を祭祀するべきことを詔し、皇太子・大臣が百寮を率いて神々をまつった。

同年七月、大礼小野妹子を大唐に遣す。

十六年四月、妹子、大唐より至る。大唐の使人裴世清(はいせいせい)、妹子とともに至る。同年八月、唐客、京に入る。これを迎える。同年九月、唐客、帰る。妹子を大使とする。

十八年七月、新羅使・任那使、到る。同年十月、新羅使・任那使、京にいたるのを迎える。

十九年五月五日、菟田野で薬猟をする。諸臣の服、冠の色に従い、各髻華を挿す。

(以下、二十年五月五日、二十二年五月五日にも薬猟がおこなわれる。)

二十一年十二月、皇太子、片岡に飢えたひとと出会い、飲食と衣服を与えた。その神仙であったことを知る。

二十二年六月、犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)・矢田部造を大唐に遣わす。翌年九月帰国。

二十六年八月、高麗が方物を貢じ、隋が高麗を攻めたがこれを破ったことを報じる。

二十八年是歳、皇太子・嶋大臣が共に議って、天皇記、国記、臣連伴造国造百八十部幷せて公民等の本記を録す。

二十九年二月、厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨じる。

三十一年七月、新羅使・任那使が来朝。仏像、金塔、舎利、観頂幡、小幡を貢る。

三十二年四月、僧正・僧都を任じ、寺・僧尼を検校させる。

三十四年五月、嶋大臣薨じる。

三十六年三月、天皇崩御。同年九月、竹田皇子の陵に葬る。

新羅との紛争など、朝鮮との関係もこの時期の大きな問題だが、前代からつづくものであり、いま措く。注目したいのは、世界がよりひろく、大陸の王朝との関係がはじめてひらかれることである。仏法受容もふくめて、あたらしい水準のみずからをつくることは、そこにおいてあった。

なかに、十四年に皇太子みずから勝鬘経・法華経を講説するといい、また、三十一年に新羅使・任那使が舎利をもたらしたとある。そのことにかんして仏法受容についてなお補足せねばならぬ。

太子の名において語られるところについて、飯田瑞穂「伝記のなかの聖徳太子」(『聖徳太子伝の研究』二〇〇〇年。初出一九七九年)が、『日本書紀』の太子の記事(太子の名が現れる記事)を通覧して、つぎのように指摘している。

『書紀』の記事では、政治・外交の面での太子の関与は意外に少なく、推古朝の新政の眼目をなす冠位十二階の制定や、対外関係の一連の記事、すなわち対新羅・百済の外交・征討、遣隋使・留学生の派遣、隋使の来朝などについて、太子との連関はまったく語られていない。

という。太子の過大な評価にとらわれていることに対して、『日本書紀』に即して見ることによるしかるべき注意である。たとえば、新編全集本が、冠位十二階について、「聖徳太子の撰定といわれるが、『法王帝説』には太子が蘇我馬子とともに天下の政を輔け、「爵十二級を制す」とある。馬子も関与したと思われる」と注するなど、『日本書紀』を読むのに聖徳太子へのとらわれをなお引きずる傾向に対して想起されてよい注意である。

しかし、飯田が、

太子は政治家・統治者としてよりは、道徳的訓戒の憲法十七条の制定、仏法興隆、神祇崇拝、朝儀整備、勝鬘経・法華経の講説、国史の編修、片岡山飢者の奇蹟など、道徳・信仰・文化的な側面の事跡に関連して強く印象づけられる結果になっているように思われる。

といって、「道徳・信仰・文化的な側面」に押し込めてしまうのは正当とはいえない。権力体制として一体であって、太子を過大に見るべきではないと留意するにとどまりたい。

そして、皇太子がみずから経を講じるとはどういうことであったか。久米邦武『上宮太子実録』が、

非僧にて僧の如く法座に升(のぼ)り説経すること、是より以前には、梁武帝が大通二年十月、同泰寺に行幸し、法座に升りて四部衆のために七日の間大般涅槃経の義を説きしことあり。当時大陸に遍く仏法の盛んに行はるゝ際にも、帝王の説経は諸国の畏敬する事にてありき。

といって、皇太子の勝鬘経・法華経の講説を武帝の説経に比したのは示唆的である。ただ、「僧の如く」という文言は『日本書紀』にはみえない。『法王帝説』に、「戊午年四月十五日、少治田天皇、上宮王に請うて勝鬘経を講ぜしむ。其の儀、僧の如し。諸王、公主、及び臣連公民、受けて嘉いせざる無し。三箇日の内に講説し訖(おわ)んぬ」とある。戊午は推古六年にあたり、月日も『日本書紀』とはちがう。「其の儀、僧の如し(そのさまは僧のごとくであった。)」は『補闕記』『伝暦』にもみえる。「講勝鬘経」の年月日については、『法隆寺資財帳』は、『法王帝説』とおなじ、『補闕記』は丁丑年(推古二十五年)四月八日のこととする。『伝暦』は、十四年七月(『日本書紀』とおなじ)と、二十五年四月八日(『補闕記』とおなじ)と、二度行われたとする。

皇太子の講説を語ることは、太子の信仰の深さなどではなく、この国の受容の深度がかくありえたと示すものであり、太子がその先頭にたつことをいうと見るべきであろう。

十五年二月条に見るように、神祇祭祀との調和をはかることは必要であったとしつつ、比重は仏法にあることはいうまでもない。そして、そのような到達──丈六の仏像や、寺の造営という外形で示すこともその一端だ──とともに、自分たちを世界にひらくことがなされたと語るのである。

そこにおいて、百済からとともに、三十一年に新羅・任那からももたらされた仏舎利は、世界とのつながり(連繋、交流)を標示するものにほかならないことがあらためて確認される。

『日本書紀』から「日本」王朝の「歴史」を見届ける...漢文として読む『日本書紀』のあけぼの