「俺は死体と寝ていたのか」箸も使えない同室者の正体…胃に残された“3日分の未消化物”【刑務所の怪談】
怪談師・怪談作家として全国を歩き、実際に収監を経験した人々や刑務官を取材しながら“塀の中の実話怪談”を蒐集してきた正木信太郎氏。
その正木氏が聞き集めたエピソードをまとめたのが、書籍『刑務所怪談 刑務所で起きた身の毛がよだつ30の怪異』(彩図社)だ。
舞台となる施設や体験者の人物像はプライバシーに配慮してぼかされているが、語られる出来事の根幹は、確かな取材に基づいた事実だという。
今回、正木氏が書き留めるのは、疎遠になっていた大学時代の友人からかかってきた電話がきっかけの話だ。「へんな話を聞いたから」と友人が語り出したのは、服役中の「鈴木さん」という先輩に面会に行ったときに彼から明かされたという、刑務所内での体験だった。
満員が続く刑務所で、ある朝移送されてきた痩せた男。反応が鈍く、箸も道具もまともに使えず、抜け殻のようなその男は――。
※この記事は正木信太郎氏の書籍『刑務所怪談』(彩図社)より一部抜粋・構成。
月曜日の朝だった。鈴木さんは、いつもよりも少し早く、刑務官に起こされた。まだ薄暗い居室で布団から出ると、刑務官が短く告げた。
「今日から、お前の同室になる者が来る。準備しておけ」
寝ぼけ眼のまま、布団を畳む。しばらくして、ドアが開く音がした。刑務官に連れられた男が、居室に入ってきた。囚人服を着た、痩せた男だった。
刑務官は、男に居室内を指差して説明し、それからドアを閉めて去っていった。鈴木さんは、男に挨拶をした。
「よろしく」
男は、どこか上の空で、小さな声で何か呟いた。声が小さすぎて、何を言っているのか聞き取れない。顔色が悪い。目に力がない。全体的に、どこか抜け殻のような印象を受けた。そのうち慣れるだろう――気を持ち直した。
だが、男の様子は不自然だった。刑務官が声をかけても、反応が鈍い。朝の点呼のとき、刑務官が名前を呼んでも、すぐには返事をしない。何秒か遅れて、ようやく小さな声で「はい」と答える。
その声も、どこか機械的で、感情が感じられなかった。廊下を歩いているとき、明らかに故意にぶつかってきた受刑者がいた。だが、男は、ただその場にへたり込んだだけだった。立ち上がろうともせず、ただ床にしゃがみ込んでいる。
刑務官が慌てて駆け寄り、立ち上がらせた。男は、何も言わなかった。
食事は、口に運んではいる。だが、食事に目線が向いていない。箸を持っているが、その箸は、ほとんど動いていない。ときどき、何かを口に運ぶ。だが、その動きは緩慢で、義務のように食べているだけだった。男の目線は、真正面の、少し上のあたりをぼんやりと眺めているだけだ。あげくに、食器を使わず、手づかみで食べることもあった。
箸を置いて、手でご飯を掴み、口に運ぶ。慌てた刑務官が、注意していた。
「箸を使え。手で食べるな」
だが、男は、一瞬だけ箸を持つが、すぐにまた手づかみに戻る。刑務官が再び注意すると、ようやく箸を使い始めるが、その動きはぎこちなく、箸の使い方を忘れたかのようだった。
若いのか年老いているのかも曖昧刑務作業が終われば、居室に戻る。鈴木さんは、差し入れの本を読んだりして、消灯時間まで過ごす。だが、男は、部屋の隅にぼんやりと立ったままだった。布団にも座らず、ただ立っている。壁を見つめているわけでもなく、ただ、虚空(こくう)を見つめているだけだ。
「おい、座れよ」
声をかけても、反応がない。男は、微動だにしなかった。仕方なく、男の腕を掴んだ。その瞬間、背筋に悪寒が走った。腕は、生きている人間のものとは思えないほど冷たく、張りがなかった。ぶよぶよとした、芯のない感触。一刻も早く手を離したかった。だが、男を立たせたままにはしておけない。急いで男を床に座らせると、すぐに手を離し、無意識に服で手のひらを何度も拭った。
そのとき、初めて、男の顔をまともに見た。憔悴しきったような表情。死んだ魚のような目。半開きの口。それ以上に――年齢が、まったくわからなかった。この男は、20代にも見えるし、50代にも見えた。肌には張りがなく、目の下には深い窪みがある。だが、髪は黒く、白髪はほとんど見当たらない。
若いのか、年老いているのか、その境界が、曖昧だった。鈴木さんは、深く関わらないことにした。
その夜、男は布団に入った。頭の上まで、すっぽりと布団を被った。顔も見えない。ただの布団の塊が、そこにあるだけだった。普通なら注意されてもおかしくない姿だが、その夜は誰も何も言わなかった。男は身じろぎひとつしなかった。自分も布団に入り、目を閉じる。常夜灯の薄明かりだけが、部屋に残っていた。
刑務作業や運動の時間に動かず…翌日、火曜日。男の不自然さは、さらに際立った。作業の時間、鈴木さんたちは木工作業を割り当てられていた。小さな木箱を組み立て、やすりで磨き、ニスを塗る。単純だが、丁寧さが求められる作業だった。もう5年近くこの作業を続けている。
手つきも慣れたもので、黙々と手を動かす。彼の隣で、男も同じ作業をしていた。だが、道具をまともに使えていなかった。やすりを持つ手が、ぎこちない。木箱を削るのではなく、ただ表面を撫でているだけだった。力の入れ方も、角度も、何もかもが間違っている。
やすりという道具を、初めて手にしたかのようだった。
刑務官が近づいて、指導する。
「もっと力を入れて。角を丁寧に」
だが、男は反応しない。ぼんやりと、作業台の向こうを見つめているだけだった。刑務官が、もう一度声をかける。今度は、少し語気を強めて。
「聞こえてるのか? ちゃんとやれ」
男は、ようやく動いた。だが、その動きは相変わらず緩慢で、やすりを持つ手に力が入っていない。刑務官は、ため息をついて、別の受刑者の指導に向かった。鈴木さんは、横目で男を見た。やすりを持ったまま、動きを止めている。次に何をすればいいのか、分からなくなったかのように。そのまま、数分が経過した。男は、微動だにしない。
運動の時間になっても、男は変わらなかった。中庭に出て、他の受刑者たちが軽く体を動かしたり、許可された範囲で雑談をしたりしている中、男は、ただ立ち尽くしていた。壁際に、棒のように立っている。動かない。誰かが話しかけても、反応しない。鈴木さんも、中庭にいた。いつものように、顔見知りの受刑者と、短い会話を交わす。ふと、男の方を見ると、相変わらず壁際に立っていた。他の受刑者たちも、男のことを見ている。
ひそひそと、何か話している。
「あいつ、やばいんじゃないか?」
「移送されてきたばっかりだろ? 何かあったのかな」
「精神病棟送りになるんじゃねえの」
鈴木さんは、何も言わなかった。ただ、男から視線を逸らした。
受刑者も刑務官も困惑水曜日も、同じだった。いや、同じというよりも、男の様子は、さらに悪化していた。食事のとき、男は相変わらず手づかみで食べた。刑務官が注意すると、一瞬だけ食器を手に取るが、すぐに、また手づかみに戻る。箸でご飯を掴もうとして、失敗する。何度も、何度も。
そのたびに、ご飯粒がトレイの上に落ちる。男は、それを拾おうともしない。ただ、また手を伸ばして、ご飯を掴む。その繰り返しだった。周囲の受刑者たちも、男のことを見ている。だが、誰も何も言わない。奇妙なものを見るような目で、男を眺めているだけだった。
作業のときも、道具を正しく使えない。木箱を組み立てる際、釘を打つ場面があった。男は、金槌を持っている。だが、どう使えばいいのかわからないようだった。
釘に金槌を当てることはできる。だが、力が入っていない。コツン、コツンと、釘を撫でるように、軽く叩くだけだった。当然、釘は入らない。刑務官が見かねて、手本を見せた。
「こうやって、しっかり打ち込むんだ」
男は、それを見ていた。だが、理解しているようには見えなかった。刑務官が離れると、男はまた、同じように軽く叩き始めた。コツン、コツン、コツン。その音が、作業場に響く。
他の受刑者が、作業の手を止めて、男を見る。刑務官も、困惑した表情で男を見ている。結局、その日の作業で、男は何一つ、完成させることができなかった。
他の受刑者が、鈴木さんに声をかけてきた。運動の時間、中庭で、ひそひそと。
「お前の同室の奴、大丈夫か? なんか、様子がおかしいぞ」
「俺にもわからない。移送されてきてから、ずっとあんな感じなんだ」
「刑務官に相談したら?」
「まあ……様子を見てるよ」
その夜も、男は布団を頭まで被って寝た。鈴木さんは、それを見ないようにして、自分の布団に入った。常夜灯の薄明かりが、また部屋を照らす。目を閉じても、部屋の隅に立ち尽くしていた男の姿が、瞼の裏に浮かんでくる。布団を引き上げ、なるべく男のいる方向とは逆を向いて横になった。
寝ていた男の布団に手をかけると…木曜日の早朝。いつもの時間に、鈴木さんが目を覚ました。まだ薄暗い居室で、布団から出る。隣を見ると、男がまだ寝ていた。布団を、頭の上まで被っている。月曜の夜から、毎晩同じだった。顔が見えない。ただの布団の塊が、そこにあるだけだった。
「おい、起きろ」
声をかけても、反応がない。男は、微動だにしない。少し大きな声で、もう一度呼びかけた。
「おい!」
だが、男は、動かない。布団が、ほんの少しも動かない。中に誰もいないかのようだった。朝の点呼は、厳格に行われる。時間通りに起きて、布団を畳み、整列する。この5年間、寝坊という事態を、見たことも聞いたこともなかった。焦りが、込み上げてくる。
慌てて、男の布団に手をかけた。一気に、ひっぺがした。男は、うつ伏せになって、寝ていた。囚人服を着たまま、床に敷かれた布団の上に、倒れ込むように横たわっている。顔は、横を向いていた。目が、半開きになっている。だが、焦点が合っていない。
虚空を見つめているようだった。
「おい! おい!」
何度も声をかける。だが、起きる気配がない。揺さぶろうと思った。だが、男の身体に触れたくなかった。月曜の夜、男の腕を掴んだときの感触が、まだ忘れられない。あの、ぶよぶよとした、芯のない感触。生きている人間のものとは思えない、冷たさ。
意を決して、背中に手を置いた。冷たい。氷を触ったようだった。いや、氷よりも冷たいかもしれない。人間の体温が、まったく感じられない。月曜の夜に触れたときよりも、さらに冷たくなっている。鈴木さんは、息を呑んだ。
「誰か! 誰か来てくれ!」
大声で叫んだ。それから、騒然となった。刑務官が駆けつけ、男の身体を確認する。
脈を取ろうとするが、何も感じないようだった。すぐに、無線で連絡を取る。走り回る職員たち。医務室から、担架が運ばれてくる。何があったのかと、ドア越しに声を上げる他の受刑者たち。廊下が、ざわめきに包まれる。鈴木さんは、居室の隅に立って、ただ、その様子を見ていた。男の身体が、担架に乗せられる。布で覆われる。そして、運ばれていく。廊下の向こうへ消えていく担架を、最後まで目で追っていた。
男の死後も消えない記憶死体が運ばれた後も、彼は事情聴取を受けた。取調室に連れて行かれ、刑務官と、その上司らしき人物から、質問を受けた。5年ぶりの、きつめの取り調べだった。
「同室になってから、何か変わったことはなかったか?」
「いつから、様子がおかしかったのか?」
「お前は、何か気づいていたことはないか?」
何度も、同じことを訊かれた。鈴木さんは、ありのままを答えた。月曜日の朝に移送されてきたこと。最初から、様子がおかしかったこと。食事も、作業も、運動も、すべてが不自然だったこと。刑務官たちは、メモを取りながら、真剣な表情で聞いていた。
そして、最後に、こう訊かれた。
「お前は、その男に、何か危害を加えたか?」
彼は、首を横に振った。
「何もしていません。ただ、同じ部屋にいただけです」
刑務官たちは、顔を見合わせた。それから、彼を居室に戻した。その日は、騒ぎが落ち着いた後も、どこか浮足立った雰囲気だった。職員も、受刑者も、落ち着かない様子だった。廊下で、ひそひそと話す声が聞こえる。食堂でも、作業場でも、男の死について、噂が飛び交っていた。
「病死らしいぞ」
「いや、自殺じゃないか」
「移送されてきたばっかりなのに、おかしいだろ」
彼は、何も言わなかった。ただ、黙々と作業をこなし、食事を済ませ、布団に入った。その夜、ひとりだった。隣には、誰もいない。布団も、一組だけ。広く感じる居室で、目を閉じた。だが、なかなか眠れなかった。
男の死から、季節がひとつ変わった。やがて誰も、男の死を話題にしなくなった。新しい受刑者が移送されてきて、鈴木さんの居室にも、また同室者が配置された。50代の、落ち着いた男だった。ふたりは、必要最低限の会話をしながら、平穏に日々を過ごした。
刑務所の生活は、また元の単調なリズムに戻った。朝起きて、点呼を受け、食事をし、作業をし、運動をし、また食事をし、自由時間を過ごし、消灯する。その繰り返しだった。
あの男のことは、意識して考えないようにしていた。だが、木工作業の時間、隣の作業台に誰かが立つたびに、彼は無意識に視線をそちらへ向けてしまうのだという。そのたびに、普通の受刑者の顔があった。それだけで、ほっとした。
司法解剖でわかったただひとつのこと一年が経過した、ある日のこと。レクリエーションの時間、鈴木さんは中庭で日光浴をしていた。春の陽気が心地よく、久しぶりに、穏やかな気持ちになっていた。すると、ひとりの刑務官が近づいてきた。長く過ごしていると、自然と親しくなってしまう場合がある。この刑務官も、鈴木さんとは何度か言葉を交わしたことがあった。若い刑務官で、真面目そうな顔をしていた。
「なんですか?」
鈴木さんが顔を上げると、刑務官は周囲を確認してから、小声で言った。
「お前と同室で変死した男、覚えてるか」
彼は、一瞬、息を止めた。忘れたくても、忘れられない。あの3日間のことは、今でも夢に出てくることがある。布団を頭まで被った男の姿。虚空を見つめる、死んだ魚のような目。ぶよぶよとした、あの感触。
「ああ、覚えてます」
「あの男、司法解剖に回されたんだよ」
「司法解剖ですか?」
「ああ。死因がはっきりしなかったからな。で、わかったことが、ただひとつだけあった」
「何がわかったんですか?」
刑務官は、鈴木さんの顔をじっと見てから、ゆっくりと話し始めた。
「胃袋の内容物が、いっさい、消化されてなかったんだ」
「消化されてない? どういうことですか?」
「文字通りだよ。食べたものが、まったく消化されてなかった。正確には、胃から食道の入口まで、食べ物が詰まってたんだと」
「食べ物が詰まってた……」
「しかも、嚙みちぎった形跡はあるものの、咀嚼した形跡は、いっさいなかった」
「噛んでなかったってことですか?」
「つまり、噛まずに、ただ飲み込んでたってことだ。で、それが全部、胃と食道に詰まってた」
「全部というのは?」
「当時の献立の記録と照らし合わせたんだと。そしたら、移送された初日の食事から、死亡して発見された直前の食事まで、全部入ってたそうだ」
「初日からですか? 月曜の朝からってことですよね?」
「ああ。月曜の朝の食事から、水曜の夕飯まで。三日分の食事が、全部、消化されずに詰まってたんだと」
「移送されてきた朝には、もう…」鈴木さんは、その意味を、ゆっくりと理解し始めた。刑務官は、彼を見た。その目には、何か複雑なものが浮かんでいた。
「医者の見解では、消化機能が完全に停止していた状態で、食べ物を口に入れていたことになるらしい」
「消化機能が停止?」
「ああ。嚙みちぎって、飲み込んで、それが胃と食道に詰まって、そのまま放置されていた。消化なんて、いっさいされてなかった」
「それって……」
「ああ。ってことはさ、あいつ、移送されてきた朝には、もう死んでたってことになるんだよ」
「月曜の朝には……もう?」
「ああ。月曜の朝の食事から、もう消化されてなかった。ってことは、その時点で、もう身体が機能してなかったってことだ」
彼は、顔が青ざめていくのがわかった。声が出なくなった。刑務官は、静かに続けた。
「つまり、お前は、月曜から木曜の朝までの、3日間ちょっと……」
彼は、震える声で絞り出した。
「俺は、死体と一緒に、居室で寝てたってことですか?」
刑務官は、何も言わなかった。ただ、無言で頷いた。彼は、立ち上がることができなかった。

