人間に人間を救うことはできないけれど、一緒に苦しむことはできる。キリスト者である21歳の小説家・冬島いのりがデビュー作に込めた思い
この町で異教の神様を信じることは、生きながらにして死ぬことと同じだった。第69回群像新人文学賞受賞作、冬島いのりさんの『夏蚕の翅』が8月27日に発売されました。発売を記念して、冬島さんによる自著紹介エッセイ「肉の弱さ、魂の聖潔」(『群像』2026年10月号掲載)を特別にお届けします。
肉の弱さ、魂の聖潔
キリスト者であり小説を書く作家のなかで、わたしがもっとも親しみを覚えるのはフラナリー・オコナーです。
わたしは彼女の小説に対して、凄惨な、という言葉がまずはじめに浮かびます。惨たらしく救いがない。しかし良い、そんな作品をキリスト者である彼女が書く意味について、『秘義と習俗』を読んだときにはじめて腑に落ちました。
彼女はキリスト者であることそのものを、救いのない小説を書くことの裏打ちとしました。
鼓舞やエンパワメントではない生の肯定について考え続け、祈って書き上げたのが『夏蚕の翅』でした。
これを書くあいだにわたしは自死の隣にまで漸近し、死ねなかったと思ったら友人の訃報を聞くというような惨めな状態でした。冗談ではなく、いずれわたしは野垂れ死ぬのだと思っていました。
大切に思った人はどんどん年老いていき、または死に、殺され、先へ先へと向かう悲しみのなか、希望が無いと触れ回ることはしたくない、と思います。
受賞の言葉に「他者を祝福したくて小説を書いています」と述べる以前からずっと、どのようにすれば周りの人を損なうことなく十全に愛せるか、ということを考えています。不完全であることに居直らず。体裁を整えてしまうと、もうそこにかつての意地汚さは見られないのですが、わたしの感覚としては、人が人に行える祝福は、なにをとっても惨めで、恥ずかしく、目に入れるのも疎まれるような身勝手なものだと思います。そしてまた、魂を切り売りするようなものであるとも思います。
ひかりについて考えたくない人の目のまえでひかりを照らすような、押し付けがましい行為とされても仕方がありません。
ですがそれでもやはり、どのような他者に対しても、死ぬな、と思っています。
書いたことを生きねばならないと考えます。
ですからわたしは『夏蚕の翅』に書いたことを裏切るような自殺をすることはできなくなってしまいました。そしてまた、身の丈に合わないことを書くというおおきな出方もできません。なので今のわたしには、生きろ、と説くことはできません。
どうしてこんなに暗いんだろう、と自分でも思います。ですが、根は明るく、人懐っこい魂を持って生まれました。なので大丈夫です。
加害行為が傷つけるのは、被害者はもちろんのこと、加害者自身の人間としての尊厳もまた、見るも無惨に損なわれていくと考えています。ですから殴ること、蹴ること、引き金を引くこと、貶めること、蔑むこと、他者の恥辱を喧伝すること、またここに数えあげられないすべての暴力の先には、それを為す者の尊厳の決定的な破壊があります。傷ついた人間がさらに傷をつくる。他者にも自分自身にも。
ですのでわたしの言う、死ぬな、とは、異なる側面から照らしてみると、殺すな、と言ってもいます。
頼むから殺してくれるな。すべての魂に傷をつくる権利は誰にも無いのですから。
わたしはキリスト者ですが、神を信じていても、というより信じているからこそ苦しいことは多々あります。人間がすきです。
この時代に、今このときに、書く必然性のある作品かしら、ということを常に問うています。
ですが自分自身にとって必然性のある、生きることそのものの言葉、他者を慈しみたいという思いを何本もの糸にして、かったん、かったん、と織り上げると良い織物としての作品が書ける気がします。
『夏蚕の翅』は、書くのがつらい小説であったけれど、あれを書けてよかった、今はもう書けない、と思います。煩雑な生活のさなかに一人でくだっていかなければならない重みを持っていたからです。もはや神頼みの程度を超えて、神にしがみついていました。
書いた当時のわたしは泥水をたっぷり吸い込んだスポンジのようだったから、もっとチャーミングな憂鬱を書くために、きりきりとスポンジを絞り、澄んだ水を蓄えなければと思います。
書くこととは、ごく個人的で親密な祈りだと捉えています。
信仰はいつだってふとした瞬間に失う可能性が十分にあり、失ったあとも生活は続きます。
『夏蚕の翅』に出てくる慶次という男の子の台詞に
「絶え間なく手え動かして、喋って、そうして、死からゆるやかに遠ざかる……」
と書きましたが、慶次がこれを言ってくれてよかった、という気持ちがしました。折に触れては思い出し、そのおかげで、わたしのなかに慶次が存在してくれ、彼らのための席を用意することができました。うれしいことです。これを書けただけで充分だという気さえして、励まされました。
わたしに備えられた賜物は書く才能ではなく、真理への飢え渇き、愛や尊厳についての異様な執着だと思います。他者にしてやれることは少ないとしても、わたしの持つうちの、もっともうつくしいものを、限りなくほんとうのことを手渡したいです。
生まれついた兄弟姉妹、家族は定められたものですが、魂の仲間はいくらでも新たに築くことができますから、できうるかぎり隣人と和を結びたい。わたしは周囲の親しい人々はもちろん、魂の姉に、辛抱強く、しなやかに育てられました。ですからわたしもそれをしたいのです。恩送りを末代まで。
『夏蚕の翅』は、生きることが苦しくて仕方がなくて死に向かうほかひかりなど見つからない、という方に読んでほしいです。抱きしめさせてほしいです。祈らせてほしいと願って止みません。
人間に人間を救うことはできないけれど、一緒に苦しむことはできます。まったく同じものではなくても同質の痛みを分かち合ってくれたなら、わたしはよろこんで、みっともなく、共に泣きたいです。
つづく「第69回群像新人文学賞受賞作!生きるための信仰とは、なにか。冬島いのり『夏蚕の翅』特別試し読み」では、本作『夏蚕の翅』の試し読みをお読みいただけます。
