「もし起きていたらアンタも殺されていたよ」自宅で継父が母の首を絞めて殺害…《静岡2女性殺害事件》被害者の長女が明かした「犯行当日の違和感」(平成17年の事件)〉から続く

 静岡県沼津市などで女性2人が犠牲となった「静岡2女性殺害事件」。母を犠牲となった被害者長女が、事件後の壮絶な半生を語る。虐待、養護施設での生活、そして母の日記に残された衝撃の言葉--。葛藤を乗り越え辿りついた思いとは?

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 ノンフィクションライターの高木瑞穂氏の文庫新刊『殺め人』(鉄人社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目)


取材に応じる結海さん(写真:筆者提供)

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事件後も続く「遺族の人生」

 被害者遺族であり、加害者遺族でもある胸中とは--。

 事件の詳細や桑田の素顔もさることながら、私にとってこのことが、もう一つの取材テーマだった。

「もちろん、私のなかには、その2つがあります」

 結海さんは、こう強い口調で言った後、事件後に紘子さんの死後に形見ともいうべき母の日記を目にしたときのことを話してくれた。

「施設にいるときのことです。実家のタンスのなかに、母の日記があるのを見つけました。それを読んで衝撃を受けたんです。書いてある言葉が、私に向けられた言葉が強かったから」

 写真はもちろん、形見と呼べるものはなにもないなか、唯一、生前の紘子さんの苦悩を知ることができるものだった。結海さんは少し逡巡した後、できれば言いたくないけれど、といった表情で続ける。

「捕まったか何かで、留置所で書いたっぽいんです。内容は、私を17歳で妊娠して、18歳で生むまでの間のことでした。おろせる期間に、お金を握りしめて何度も産婦人科に行った。けれど、結局、決心がつかなかった、ということが書いてあった。その後に『産まなきゃよかったと思うときがある』って」

 何度も口にされた言葉だったが、こうして改めて文字にされると、モヤモヤが膨らんでしまうばかりだ。結海さんからすれば、自分が全否定されているような気持ちである。

 だからといって、事件後も遺族の人生は続く。

加害者遺族へ向けられる「冷めた目」から逃れるために…

 結海さんの人生の、全てを知っているような気分でいたが、被害者遺族と加害者遺族、この2つが同居した感情を知るためには、当然のことながら、いまに至る半生も聞く必要があるだろう。そう思って口を開きかけると、結海さんはこちらの意図を察したように事件後の人生を話してくれた。

 まず加害者遺族へ向けられる冷めた目から逃れるにはどうすれば--結海さんが考えついたのは、桑田と離縁することだった。

 それと同時に結海さんと妹は、義理の兄と姉がいる叔父母の家に身を寄せることになった。経済的理由により、祖母が叔母に相談。すると快く迎え入れてくれたのである。

 だが、そこが安住の地とはならなかった。

「叔母の家に身を寄せてから、2週間くらいは何もありませんでした。でも、一緒に引き取られた妹がまだ3歳なんで、やっぱり叔母や叔父の気がそっちに向いちゃったんです。それはしょうがないことだと割り切れたんですけれど、私が小3くらいから殴る、蹴るの、叔父からの虐待が始まったんですね。学校の宿題でわからない箇所があって、叔父を頼っても、『そんなの自分で解け』ってそっけなくされたり。なぜ標的にされたのかはわかりません。叔父からの虐待は、いちばん最初は従兄弟のお兄ちゃんで、次は従兄弟のお姉ちゃんで、最後は私と連鎖していました」

我慢の限界

 結海さんは、それでも育ててくれた感謝があると語る。けれど、そうであってもつらい日々だったと言う。結海さんは我慢の限界にきていた。何が理由かは知らないけれど、怒りの捌け口にされるというのは、あまりにも理不尽だと思うようになってしまうのだ。

 結海さんは、叔父母の家から出ることを「自ら決意した」と明かす。その間に自暴自棄になり、悪さをして補導された過去がある。そのとき児童相談所の職員が介入した。これをきっかけに虐待は止んだ。

 だが、それも少しの間だけだった。やがて虐待再開を機に考えは変化する。「このままずっと我慢し続けるしかないの? って。標的が妹になるまで待つのも違いますよね。もう逃げるしかない」と思った。そんな状況だからこそ、他に選択肢はなかったのだろう。

 しばらくして結海さんは、児童相談所に駆け込み、一時保護を経て児童養護施設に移送された。そこには、虐待のない環境があり、被害者・加害者遺族であることを隠し、施設職員以外に「桑田の娘であることを誰も知らない」という状況を作り出すことに成功した。みな同じような境遇だと思っているからなのか、さめた目で見られることはなかった。

 そこで振り返って思うのは、叔母たち家族も犯罪被害者・加害者遺族で、その葛藤が虐待として降ってきたのは当たり前の感があることである。

 まだ小学生だった結海さんには、そのことがすっぽりと抜け落ちていた。叔母たちからすれば、自分たちもさめた目で見られる対象であり、さらにやっかい者が増えたのであり、事件の因果を纏い生きるのに必死でいたということだ。

大人になってわかった母の愛情

 結海さんは、中学生時代を施設で過ごしている。母の日記について、一時外泊した結海さんは、先に記したように祖父母の家で目の当たりにした。

「思春期、がっつり思春期でした。多感どころか死にたいとすら思っていました」

 もう一度、整理しておこう。結海さんの理性が音を立ててくずれたのは、親族から見放され、亡き母からも否定された気持ちになったからだ。

 施設は中学までしかいられなかった。そのため、卒業後は静岡県内の飲食店に就職した。決め手は寮があることだ。ここなら叔母らを頼らず生活できる。

 しかし、見込みと違い、ここも安住の地とはならなかった。雇い主は薄給と時間外労働をさせるのみならず、男女構わず暴力を振るったのである。それでも歯を食いしばり苦難に耐え続けたが、身寄りのない結海さんは常に足元を見られており、ついに寮から飛び出したという。

 その後、結海さんはインターネット上で知り合った都内の女性を頼った。結海さんの生い立ちを知った上で親身になって相談に乗ってくれる人だった。結海さんは言う。

「家がないと言うと、彼氏と同棲していたのに、ちょっとの間だったらいていいよと言ってくれて。場所は横浜です。誰にも知らせず静岡から出ました」

彼氏を追って高知へ

 以来、その女性は居酒屋のキャッチのアルバイトを紹介してくれたりなど、何かにつけ、結海さんを支援してくれたという。

 誰も自分の過去を知らない土地は居心地が良かった。だが、いつまでも甘えるわけにはいかないとも思うようになったという。

 そこで知り合ったのが、バイト仲間で、高知から来て一人暮らしをしていた専門学校生の男だった。すぐに男女の仲になり、世話になってばかりの女性に負い目を感じていた結海さんは、実家に戻るという彼氏を追って高知へ行った。

 が、その生活も短く終わってしまう。彼氏の両親も、息子の恋人だからと快く受け入れてくれたが、その反面、まだ10代半ばの未成年の結海さん。ほどなくしてその彼氏と別れ話になると、とたんに邪魔者扱いされてしまい、家から追い出されて警察に保護される流れで強制的に静岡の叔父母宅に戻されてしまったのだ。

 数年ぶりに叔父母宅に戻ったが、やはり居心地のいい場所ではなかった。すぐにまた虐待が始まったのである。

 数週間後、やはりここで生きていくことなど考えられないと思っていた結海さんに、逃げ出すチャンスが訪れた。結海さんは叔母と叔父が買い物に出かけて家を空けたときに、見かねた従兄弟の兄に「いましかない」と言われ、荷物をまとめて飛び出したと語った。

「それが、従兄弟のお兄ちゃんとの最後です」

 そうしみじみと話したなかには、あのとき助けてくれた感謝がある。その感謝を忘れていない結海さんは「俺は昼寝してたって嘘をつくから」とまで言ってくれた従兄弟へ迷惑をかけないために、以来、親族の誰とも連絡をとっていない。

18歳で考えられるようになった「母の気持ち」

 結海さんは「もう静岡には戻らない」と覚悟を決めて東京に出た。補導と背中合わせのなか、わずかな貯金を切り崩してネットカフェで暮らした。そうして保証人なしでも家が借りられる歳までやり過ごした。

 18歳になった。仕事を見つけた結海さんは、晴れて自立を手に入れた。結海さんは自分の人生を振り返り、このころから日記に記されていた「産まなきゃよかった」という紘子さんの言葉とようやく向き合えるようになったと言う。長きを経て、なお残るその言葉は、何かを言わんとして、まっすぐに結海さんの胸を打つ。結海さんが続ける。

「母の気持ちをちゃんと考えてみようと思ったのは、私が18になってからです」

 紘子さんは結海さんを18歳で産んだ。だから、18歳になった結海さんは、自分と当時の紘子さんを重ねたのだ。

 そして、思う。18歳にして母親になることがいかに重いものかを。

「いま子どもができたとしたら、自分には育てられないかな、って。だから、母は母なりに葛藤しながらの子育てだったんだな、って。中学ぐらいまでは、じゃあ産まなきゃよかったのに、と思っていました。でもいまになれば、おろすのも怖かったんだろうな、って」

 紘子さんは、桑田に殺されてさえいなければ今年40の歳だ。

「生きていれば、一緒に買い物したりしてたのかな」

母が残したとしか考えられない大金

 そんなことを考えるなか、最近、ふと思い出したことがあった。遺産だ。

 16歳、住み込みで飲食店に就職したとき、指定の銀行で口座をつくろうとしたら自分名義の口座が既にあり、そこに大金が入っていたのだ。

 わけがわからなかったが、貯金をしてくれていたのは紘子さん以外には考えられなかった。結海さんはそのとき「もう凍結されてるから引き出すことはできません、と言われたけれど」と続ける。

「何のお金だったんだろうと思うけど、母が私のために貯めておいてくれたのかな、って。だから母は、虐待するとか子どもに対しては不器用だったけど、根は優しい人だったんだろうな、って。不器用ながらも、ちゃんと私を育てようとしてくれていたんだろうな、って」

 結海さんは去年、親族の誰にも会わない日を狙いはじめて墓参りに行き、そっと紘子さんの墓前で手を合わせた--。

(高木 瑞穂/Webオリジナル(外部転載))