「えらいことになりましたで…」京都新聞現職社長が青ざめたあの日…社内を恐怖に落とし入れた「女帝の血縁支配」
京都新聞には女帝と元社長の間で交わされた「密約」があった。しかし元社長の死後、クーデターが発生、白石家の会社支配が進んでいく。
現職社長を退任に追い込んだ社内政変
京都新聞社長(当時)の野村栄太郎が、真っ青な顔をして社長室に戻ってきたのは、'04年6月14日、取締役会が開かれた後のことだった。
「えらいことになりましたで」
野村は側近の幹部にこう漏らし、動揺を隠せない様子だったという。
その日、役員たちの間には、野村社長の解任動議が出されるとの情報が流れていた。ある営業部門の取締役が、野村側近の取締役にこう耳打ちしたとされる。
「大変や。野村さんが解任されるで」
だが、その側近はこう開き直ったという。
「慌てるな。(解任動議に)賛成するしかないやろ」
この時、すでに趨勢は決していたとみられる。
現職社長を退任に追い込んだ社内政変について、公開記録は見当たらず、報道もされなかった。しかし、取材に応じた当時を知る複数の京都新聞幹部OBは、口々にこの人事を「クーデターだった」と振り返る。彼らの証言に共通するのは、これを境に白石家の支配が強まったという認識だった。
この時、野村を相談役へ退かせ、社長に就いたのは増田正蔵-京都新聞の大株主で女帝と呼ばれた白石浩子の実弟だった。また、浩子のいとこにあたる寺井謙一も、ナンバー2の専務に就いた。
幹部OBが言う。
「増田はもともとホテルマンだった。寺井も中堅スーパーの経理をやっていた。それが、浩子が大株主として存在感を強めるなか、増田は'83年に、寺井は'87年に取締役となり、経営中枢へ入っていった」
増田と寺井の天下
二人に共通するのは、京都新聞の現場で長くキャリアを積んだ生え抜きの新聞人ではないということだ。
私が取材したOB記者たちの評価は厳しい。二人が新聞の理念を語る訓示をした記憶を持つ者は、ほとんどいない。
とりわけ増田の人事方針に不信感を抱く者も多かった。
社長直轄のある部署にいた人物は、増田の意向に反する動きをしたところ、その翌日には異動を命じられたという。
また、増田が文化事業を進めた際には、予定外の支出に苦言を呈した者がいた。
「この事業はさすがにそこまで予算がない。これはやり過ぎとちがいますか」
その発言に、増田は激怒したという。取締役経験者によれば、顔を真っ赤にし、これ見よがしにドアを激しく閉めて部屋を出て行った。
寺井についても同様だった。
'00年頃、取締役の一人に、将来を嘱望されていた西本護という人物がいた。西本は、いわば経営戦略の中枢を担う総合計画部や人事・労務の部署を兼務するスペシャリストだった。
一方この時期、寺井は常務となっており、経理を含む総務系で地盤を築きつつあった。
そんななか、西本が経営企画系と総務系の部署を統合する機構改革を提案すると、寺井が強く反発したとされる。
西本は総合計画部の担務を外され、部署そのものもなくなった。その後、冒頭の'04年の社内政変を経て、西本はさらに経営中枢から遠ざかっていった。
西本の側近だった元幹部は、このときの印象をこう語った。
「それからです。増田と寺井の天下になったのは」
消し去られた「もう一つの白石家」
自らの影響力が及ぶ部署を守り、対抗する人材を経営中枢から遠ざけていく-。そうした意図が、本当に増田と寺井にあったのかは分からない。だが、こうした人事は、「二人に逆らえば失脚する」という不信を社員たちの間に広げていった。
こうして増田・寺井という外戚経営者は、京都新聞中枢の権力を掌握するとともに、会社にほとんど姿を見せない浩子の代弁者のように社内では受け取られていく。
野村社長時代の側近幹部は、こう言った。
「浩子の代理で動いていたのが、増田と寺井の二人だった」
新聞社で長く実績を積んだわけではない二人が、それでも経営中枢を動かす力を持った。その源泉にあったのが、大株主・浩子との血縁と、「白石家」という権威だった。
(文中敬称)
【後編記事】『「京都新聞の女帝」と元社長が交わした恐るべき「密約」…そして社内を切り裂いたクーデターは起きた』へつづく。
取材・文:藤岡雅 (ふじおか・ただし)/'75年、福岡県生まれ。編集プロダクションを経て、'05年12月より週刊現代記者。キヤノンをめぐる巨額脱税事件など経済分野を幅広く取材。'21年に『保身 積水ハウス、クーデターの深層』(KADOKAWA)を出版
「週刊現代」2026年9月14日号より
