19歳で高校3年生に編入され…「PL学園」野球部を創設した「教団の子」の運命
プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語--。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。
連載『1985 英雄たちのドラフト』
第23回「教団の子」(前編)
「PL教団」誕生の歴史
1871年に旧松山藩(現在の愛媛県松山市)の城下町に生まれ、安楽禅寺、安城寺の住職を務めた僧侶の御木徳一が、僧籍を離れたのち、神道の一派である御嶽教の徳光大教会の教師となったのは1916年のことである。
帝国日本の実質的な国教と言うべき国家神道の下で、信仰の自由が制限されていたこの時代は「神道十三派」と呼ばれるいずれかの宗教に属さないと新たに教団を興すことは不可能だった。徳光大教会は御嶽教の配下にあったということだ。
当然ながら、この時代の宗教は神道の影響を濃厚に受けたものばかりで、金田徳光を教祖とする徳光大教会も教育勅語を教義とする神道系の新興宗教だった。1919年に金田が亡くなると、後継者となった御木徳一は扶桑教の配下となり、1931年にはひとのみち教団を興した。教祖となった御木は教主(おしえおや)を自称する。
「宇宙こそ神」と定義するひとのみち教団の信仰は必ずしも国家神道と同一線上にはなく、その上、多くの信徒を集めたため当局から睨まれることになる。「教育勅語の解釈が不敬罪に当たる」と創始者の御木徳一と、長男で第二代教主の徳近が逮捕され、教団は解散を命じられた。御木徳一は酷烈な取り調べの末に落命、徳近は大阪府庁者の地下独房に8年間も留置される。
戦後、釈放された御木徳近は1946年6月、妻の故郷である佐賀県鳥栖市でひっそりと教団を再興、その際「パーフェクトリバティー教団」と改称する。通称「PL教団」は多くの新興宗教がそうであるように、国家権力の弾圧に苦しみながら、戦後になってようやく誕生した経緯がある。
野球部に入部した「教団の子」
発足間もない1946年の暮れのことである。10歳の少年が教主である御木徳近の前に引き出された。鹿児島出身の父親の赴任先である朝鮮半島の羅南(現・朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道清津市)に生まれた少年は、ソ連の対日参戦から敗戦に至る混乱で、祖母、父、妹二人を亡くし、継母と弟と3人でどうにか帰国したばかりだった。鳥栖の教団本部に身を寄せたのは、継母がひとのみち教団の信徒だったからだ。──教主は少年にこう語りかけた。
「今日から私が君の父親代わりになるから、安心して勉強するんだよ」
以後、少年は継母と離れ、鳥栖市内に建てられた教団の寮で暮らすようになった。その後、PL教団は清水市(現・静岡市清水区)を経て、1954年に大阪の富田林市に本部を移設。程なく仮本殿を建設するなど「聖地」としての体裁を着々と整え始める。
一方の少年は教団本部の指示で各地の寮を転々とする。「教団の子」と呼ばれた彼らの存在は布教活動に適任で、富田林に仮本殿が建設された時期は渋谷区富ヶ谷の寮から都立戸山高校に通学していた。野球部に入部した少年は夜遅くまで白球を追いかけ、捕手以外すべてのポジションを経験するも、高校3年の夏の東京都大会であえなく敗退。野球部を引退した少年は受験勉強に取り組んだ。
1954年師走のことである。教団本部から「すぐに大阪に戻って来い」という指令が下った。事情はよくわからない。ただ、学費を負担されている以上命令に従うほかなく、少年は卒業を目前に控えながら都立戸山高校を退学、富田林市内の本部寮に移り住んだ。
このとき、翌年春の開校に向けて準備が進んでいたのが、PL教団が直接運営する高校だった。少年が早急に帰還を命じられたのは、人手が足らず校舎の建設が大幅に遅れていたためである。少年もセメントをこね、砂利を運び、材木を担いだ。その甲斐あって1955年春、PL学園高等学校は無事開校した。
翌年にはPL病院が開院。57年には2万人収容の「ジャンボプール」で人気を博す遊園地のPLランドがオープンし、59年にはPL中学校、小学校、幼稚園、衛生看護専門学校が順次開校する。富田林は「PLタウン」の様相を呈していく。
編入したPL学園で野球部を自ら設立
19歳でありながらPL学園高校3年生に編入され、1期生に名を列ねた少年は「どうせもう1年高校生をやるのなら、いっそ野球部を結成しよう」と考えた。教団に相談するも色よい返事は得られず、自らクラスメイトや下級生に声をかけてどうにか10人ほどの部員を集めた。経験者は少年のほか数名しかおらず顧問さえいなかった。少年は臨時監督兼エースとして奮闘する。
堺工業高校(現・大阪府立堺工科高校)を相手に初の対外試合を戦うも4対4の引き分け。続く富田林高校との練習試合では11対1の惨敗を喫した。それでも少年は「創部したのだから」と部員数名を引き連れて大阪市西区江戸堀に本部を構える日本高等学校野球連盟(高野連)を訪ねた。そこで野球部の加入申請をしたらにべもなく断られた。「部活としての体裁が整っていない」という真っ当な理由である。それでも少年はめげず、卒業までの1年間で野球部を軌道に乗せようと奔走した。
PL学園野球部の実質的な創設者となるこの少年こそ、後年、全国を網羅するスカウティングシステムを構築し、PL学園を全国屈指の強豪校へと成長させる礎を築いた井元俊秀である。
【後編を読む】PL学園の1期生「野球部の生みの親」90歳が戦後、朝鮮半島から引き上げてきて「学習院大学」に進学するまで
【つづきを読む】PL学園の1期生「野球部の生みの親」90歳が戦後、朝鮮半島から引き上げてきて「学習院大学」に進学するまで
