最大のライバル・徳川家康を演じた松下洸平

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織田信雄がきっかけをつくった秀吉と家康の対立

 NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第33回「北庄(きたのしょう)城の別れ」(8月30日放送)の終了後、第34回「最強のライバル」(9月6日放送)の予告が流された。サブタイトルはいうまでもなく徳川家康(松下洸平)のことを指す。『豊臣兄弟!』に家康が姿を現すのは久しぶりだが、ここから一気に存在感を増していくはずだ。

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 次回予告では、家康が「われらを攻め滅ぼすおつもりか?」「もうだれにも従わぬ」という、なにやら不穏な言葉が流された。というのも、第34回では、秀吉は信長の安土城を上回る規模と豪華さを誇る大坂城を築城。そこには諸国の大名たちが続々とあいさつに訪れたが、家康だけは東国平定を理由に訪れないので、秀吉側では家康の動向を危ぶむことになる。案の定、織田信長の次男の信雄(山脇辰哉)が家康に、秀吉を倒そうと持ちかける。家康は、いったんは躊躇して断りながらも、これまでの種々の経緯が脳裏をよぎり、決断を下す--。そんな展開になるようだ。

最大のライバル・徳川家康を演じた松下洸平

 秀吉が大坂城を築きはじめるのは、天正11年(1583)8月から9月ごろのこと。すなわち柴田勝家を滅ぼして4カ月ほど経った時期で、秋にはいまだ完成していない大坂城に拠点を移した。その年のうちに、諸大名をそこに召集している。だが、そのころの家康は、甲斐(山梨県)や信濃(長野県)の経略に力を専念していて、大坂に行くことはなかった。

 その後、秀吉と家康のあいだには、のっぴきならない対立が生じるが、そのきっかけをつくったのは、『豊臣兄弟!』でも描かれるように織田信雄だった。

秀吉が家康に負い目を感じた長久手合戦

 秀吉と信雄の関係はしばらく良好だった。天正10年(1582)10月、秀吉は本能寺の変後の織田政権の体制を決めた清須会議の決定を覆し、織田家の家督を継いだ信長の嫡孫、三法師が成人するまでの期限つきだが、織田家のあたらしい当主として信雄を擁立。翌年正月には、信雄は三法師の後見役として織田政権の拠点である安土城に入った。むろん、秀吉は信雄に臣従したかたちになっており、ここまでの信雄は天下人になった気分で鼻高々だったことだろう。

 だが、柴田勝家を滅ぼし、織田家中で圧倒的な実力者になった秀吉は、次第にすべてを自分で決め、信雄を蔑ろにするようになっていった。天正11年(1583)7月ごろ、秀吉の圧力で安土城から退却させられた信雄は、秀吉の野望を知らされるにつれ、秀吉との距離をとるようになり、秋ごろからは2人の関係は修復不能なほどこじれた。以後、信雄は家康を頼りにする。

 天正12年(1584)2月、家康は酒井重忠を清洲城(愛知県清須市)に送って信雄と密談させた。その後、家康と示し合わせたうえで、信雄は秀吉に事実上の宣戦布告をした。秀吉が懐柔しようとしていた自身の重臣3人、岡田重孝、津川雄光、浅井長時を、伊勢(三重県北中部)の長島城(桑名市)に誘い出して殺害したのである。

 それを聞いた秀吉は激怒し、秀吉陣営と、信雄および家康陣営の戦いである小牧・長久手合戦に至る。戦力は秀吉陣営が6万を超えるのに対し、信雄と家康の陣営は1万数千だったとされ、圧倒的な差があった。しかし、4月9日の長久手合戦では、秀吉はのちのちまで家康に負い目を感じることになる手痛い敗戦を喫する。

 家康らが本陣の小牧山城(愛知県小牧市)に籠る隙に、秀吉の別動隊が家康の本拠地である三河(愛知県東部)を攻めようとした(家康をおびき寄せようとした可能性もある)。別動隊は秀吉の甥で、のちに関白になる三好秀次を大将に三河に向かったのだが、家康方はその動きを事前に察知していた。4月9日早朝、榊原康政らを先陣とする家康の軍勢が別動隊最後尾の秀次隊を急襲すると、不意を突かれた秀次隊は総崩れになり、その後の激戦で、清須会議の4宿老の一人、池田恒興と元助父子が討ち死にし、森蘭丸の兄の森長可も眉間を銃弾で撃たれて即死した。秀吉の別動隊の死傷者は1万人ともいわれている。

敗戦しても秀吉に臣従しなかった家康

 とはいえ、戦力に決定的な差があることに変わりはなく、その後、戦況は膠着状態に陥ったが、秀吉方は織田信雄への工作を優先するようになる。実際、信雄さえ調略できれば、織田家のための戦いという家康の大義名分は失われる。秀吉は家康を二の次にして、長島城の信雄への工作を進め、11月11日についに和議に応じさせる。だが、和議といっても信雄に人質を出させ、領土の一部を召し出させる内容で、事実上の信雄の敗北であり、秀吉と信雄の立場が名実ともに逆転したことを意味した。

 こうなると家康も戦いを止めるほかなく、11月17日に岡崎城(愛知県岡崎市)に戻り、合戦は終結。翌月、家康は次男の於義伊(のちの結城秀康)を、秀吉の養子という名目で、事実上の人質として大坂へ送っている。

 翌天正13年(1585)2月22日、信雄は大坂城に登城して秀吉に臣従し、かつての主従関係は完全に逆転した。しかし、家康は秀吉に人質こそ出しても、臣従には応じず、むしろ対秀吉に備えて相模(現在の神奈川県中西部)の北条氏との同盟を強化するなどしていた。要するに、秀吉との冷戦状態が続くことになった。

 これに対して秀吉は、家康が自分に敵対している越中(富山県)の佐々成政と連携していると疑い、あらたな人質を出すように家康に求めた。しかし、家康のもとでは酒井忠次や本多忠勝らの重臣を中心に強硬論がもっぱらで、秀吉の要求を正式に拒んだ。そんななか秀吉との融和を説く無二の重臣である石川数正が、家族とともに秀吉のもとへ出奔するという重大事まで生じてしまう。

もう少しで滅ぼされるところだった家康

 事ここに至って秀吉は、年明けにも家康の成敗を決断する。人質を差し出すように要求して正式に拒まれたのでは、天下人としてのメンツが立たない。そんな折、徳川家中のことを隅の隅まで知っている石川数正が自分のもとにいる。家康を滅ぼしてしまう絶好のチャンスである。

 これに対して、家康は北条氏との連携を強化しながら、三河国内の城を整備するなど、秀吉来襲に備えた。とはいっても、秀吉が家康を成敗するために進軍するとしたら、十数万なり20万なりの大軍で攻め寄せ、有無をいわさず家康を降伏させてしまっただろう。徳川家は絶体絶命の危機に追い込まれたといってよかった。

 ところが、そんな矢先の天正13年(1585)11月29日の夜半に、マグニチュード8.6程度と推定される巨大地震(天正地震)が発生した。国内最大規模の内陸地震ともいわれるこの災害の恐ろしさは、飛騨(岐阜県北部)の白川郷の帰雲山が大崩壊して、山麓にあった帰雲城と城下が土砂に埋まり、城主の内ヶ島氏理ら一族と多数の領民が犠牲になったというエピソードからも伝わる。モロッコの土石流が想起される。

 被害は畿内から東は尾張(愛知県西部)まで広範囲におよび、羽柴秀長の美麗な大坂屋敷が倒壊。秀吉にとって東征する際の最前線の拠点である大垣城(岐阜県大垣市)も倒壊。織田信雄の居城、長島城も倒壊して天守が焼失した。この被害を受け、秀吉はもはや家康成敗に出陣することはできなくなり、軍事力を使わずに家康を臣従させる方向にあらためた。

 こうして家康は、滅ぼされるか、生き残ったとしても領地の大半を没収されたに違いない秀吉による「成敗」を免れることができた。しかも、地震の被害に関しても、隣国の尾張が大きな被害に見舞われながら、家康の領国である三河以東にはほとんど被害がおよばないという幸運に恵まれた。

 天正地震が起きなければ、おそらく徳川家康は天下人になれなかった。歴史はこんなところで、大きく変化するのである。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部