慶應大→野村証券の「トップ営業マン」が兄の急病で一転、「お好み焼」家業を継ぐことに…「千房」二代目が語る、中卒の父に叩き込まれた「50円のありがたみ」
大阪を代表するお好み焼店として知られる「千房」。2018年に創業者の後を継いだのは末っ子の中井貫二氏。2014年に入社してから10年が経ち、現在は二代目社長として経営の舵取りを任されている。かつて野村證券でナンバーワン営業マンとして活躍した男が、なぜ家業を継ぐことになったのか。中興の祖の原点を探る。
家業を継ぐまでの道のり
僕は三人兄弟の末っ子です。長男である兄が後継者として育てられて、僕と次男は「自分で生きていけ」と言われました。
ただ、小さい頃から家業には馴染みがありました。入社式や社員旅行、忘年会にいたるまで、会社の行事には強制的に参加させられていて、その中心にはいつも父(千房会長の中井政嗣氏)がいたんです。あの頃から、従業員は家族なんだという感覚が刷り込まれていったのだと思います。
父が興した千房というお店は、「ちょっといいお好み焼の店」として広く知られています(注 千房では「お好み焼」と表記する)。ただ、父は元々、お好み焼屋になりたかったわけではないんですね。
父は中卒で、もともと独立志向が強かったようです。本当は洋食屋になりたかったようですが、大阪・長居にあった老夫婦の経営するお好み焼屋が、後継者を募集していることを知った義理の兄から「応募してみろ」と強く推されたのがお好み焼との出会いでした。
「どうせお好み焼だろう」とたかを括っていたものの、実際には何十人もの応募者が来てることを知った父は生来の負けん気に火がついたそうです。必死に自己アピールをした結果、お好み焼修行を始めた父は、必死に働いて店を繁盛させます。ただ、六年後に「新たな後継者が見つかった」と言われ追い出されてしまいました。
そうして、1973年に独立開業しスタートしたのが「千房」です。
父は誰よりも負けず嫌いで、アイデアマンでした。お好み焼で身を立てると決めた父は、「かっこいい店」にしようと思ったそうです。従業員が自分の店を家族に自慢したくなる、そして誇りを持って働ける素敵なお好み焼屋さんを目指す。それが今も続く「千房」の原点です。
そもそも、関西のお好み焼屋さんというのは、煙モクモクした店内で換気扇を回しておばちゃんが鉄板で焼くイメージが強かったんですね。大衆料理の代名詞を洗練した食べ物にしようとした。だから、内装もこだわりましたし、食材に関しても、一般的にはバラ肉を使うところをロース肉を使い、ゲソはモンゴウイカに、そして有頭エビを丸ごと一匹ポンと入れたり、とにかく味の良さを全面に出そうとしました。
その後、関西では有名なラジオ番組『鶴瓶・新野のぬかるみの世界』のスポンサーになったことで一気に知名度が上がり、百貨店やホテルに出店した日本初のお好み焼屋になります。業界の常識を次々と塗り替えた千房は、業容をどんどん拡大していきました。
お金の大切さを叩き込まれた幼き日の教育
幼い頃から、父はとにかく厳しかったですね。特にお金には厳格でした。
小学生の僕が、お小遣いの値上げを頼んだ時のことは今でも忘れられません。
「お父さん、お小遣いを50円あげてください」
昔から父親には敬語でした。
「なあ、貫ちゃん、50円が道端に落ちてるか」
「落ちてません」
「50円を稼ぐのにお父さんがお好み焼を何枚焼くかわかるか?」
小学生の子供にそんなことわかるわけないでしょう。でも、お金を稼ぐ厳しさを懇々と説かれるうちに、僕はとんでもないことを言ってしまったと怖くなり、ついに泣き出してしまったんです。
それを見た父親は「勉強も運動も頑張ってるから増やしたる。でも、50円っていうお金のありがたみを忘れたらあかんで」とやさしく笑いました。
兄が「車をほしい」と言った時もコテンパンにやられていましたね。
「今から全店舗を回ってこい。そして、すべての従業員に『俺は社長の息子やけど、オヤジに車を買ってもらっていいか?』と聞いてこい」と。
とにかく、子供に、いやお金に厳しい人でした。
1浪して慶應大学に進学したのち、就職先に証券会社を選んだのは、自分を厳しい世界に追い込みたかったからだと思います。父親の姿を見てきたからこそ、自分の力でお金を稼いでみたかった。
証券マンという仕事は想像以上に大変な仕事でした。入社した野村證券は、全国の営業マンの成績が、1位から最下位まで全部出ます。最初の三年間は同期で最下位の営業成績でしたが、私を指導してくれた方からは、焦らずとにかく種をまけと言われました。
証券マンというのは「全人格格闘技」です。「人格」「人間性」「人間力」、そのすべてを相手にぶつけないとお客様に信頼されませんし、大切なお金を預けてはくださいません。営業マンの人間性すべてを仕事に注げるかどうか、それが成績につながるんです。
どうにかして結果を出したい。その思いが実を結んだのか、3年目から結果が出るようになります。そこからはずっとトップの成績を維持し、従業員組合の代表も任されるようになりました。
父親から声がかかったのは、社会人になって14年目、38歳の時でした。ある日、父から珍しく携帯に電話がかかってきて、「大阪に来い」と。父から伝えられたのは、兄が重たい病気で社会復帰が難しいこと、そして後を継いでほしいという打診でした。次兄は手に職を持った仕事をしていましたし、おだやかな性格ですから、ビジネスの世界に身を投じていた私の方が適任だと白羽の矢が立ったのでしょう。
証券マンとしてのキャリアを着実に重ねていた頃でしたから、戸惑いはありました。しかし、父親と話し始めて6時間後に、私は会社を継ぐことを決めます。幼い頃からずっとみてきた父親の仕事に対する尊敬はありましたし、会社組織を中心になって動かすことも魅力的に感じたんでしょうね。
僕が入社する二か月前に兄は亡くなりました。後継者である兄に対して、父は常に厳しく接していて、それがプレッシャーになったのかもしれません。兄の病気がわかってから父はずっと後悔していたそうです。
継いでからの苦悩と、父が課した二つの約束
専務として入社した私に、父から言われたのは二つだけ。
ひとつは「野村證券と千房を比較してはいけない」。
もうひとつは「古い社員から今日入ったアルバイトに至るまで、全従業員が自分のために働いてくれていると思って感謝しなさい」。
この二つさえ守るなら、あとは自由にしていいと言われました。
父親は現場に長くいましたが、私自身はお好み焼を焼いたことすらないんです。飲食店はやはり店舗が要ですから、まずは現場を見てまわることにしました。
最初に抱いたのは「飲食業というのは儲からない商売だな」という率直な感想です。
証券会社と比べるまでもなく、飲食業の利益率は高くありません。しかし、飲食で働く人たちはこの仕事を通して一攫千金を狙ったり大冒険がしたいわけではない。多くは、お客様と接することが好きで、自分の作った料理を食べてもらって、お客様が笑顔を見せてくれることがやりがいだと考えています。
そういう人たちにスポットライトが当たる仕組みを作ること、それこそが私に与えられた仕事ではないかと考えたんです。
どうしたら快適に働いてもらえるか。まずは、人事制度、評価制度をかなりドラスティックに変えていきました。さらに千房という会社に誇りを持ってもらえるように、新規事業、海外事業まで、事業の積極的拡大を図りました。
その一方で、証券会社時代のように、数字を競わせることは絶対にしませんでした。それよりも従業員とお客様の満足を大事にすることが大事だと思い、単なる売り上げよりも、リピート率やお客様の満足度にきちんと光を当てて評価する仕組みを作りました。
また、外部から中途社員を積極的に採用するようになりました。改革には「よそ者・若者・馬鹿者」が必要だと言いますが、まさにその通りのことを実行していったのです。
更生プログラムを堅持した理由
私にとって幸運だったのは、幹部のほとんどが僕を子供の頃から知っていたことかもしれません。僕のおしめを替えてくれた人は、「貫ちゃんが千房のバトン継いでくれた」と喜んでくれました。
ただ、組織というのは綺麗事ではいきませんから、入社してすぐに、幹部全員を連れて一泊二日で本音をぶつけ合うミーティング旅を行いました。
その不満のひとつとして挙がったのが、元受刑者の就労支援、通称「職親プロジェクト」です。これは2013年から始まった「元受刑者や少年院出院者の就労や自立更生を支援」する、社内の取り組みです。
千房では過去に罪を犯したものがたくさん働いていますし、私たちはそれを公言しています。社外の評判は良かったものの、そういった人たちと一緒に働くことにストレスを抱えている従業員が意外と多いことを知りました。これはカリスマ経営者として君臨していた父が始めた取り組みだけに、現場は「社長には言えない」という空気を抱え続けていたんです。
労働環境を整えるという意味では、これは喫緊の課題でした。
ただ、私は全国店長会議で「この取り組みを継続する」ことを自分の言葉で宣言します。人が更生するのは簡単なことではありません。ましてや企業として取り組むには、組織がしっかりしていないとできない。
ただ、これはある意味で人材育成の根幹にあたると思ったんです。もちろん手間と時間はかかります。評判だっていいものではありません。損得で言えばプラスマイナスゼロ、いや評判を考えたらマイナスかもしれない。
受刑者の再犯率は50%になります。その理由の多くが、社会に受け入れられず仕事が見つからない結果だったりするんですね。私たちの取り組みは、新たな被害者を生まないための挑戦でもあることを従業員に強調しました。
この取り組みは、「善」か「悪」かの二元論で言ったら、間違いなく善である、父はその思いを強く持っていました。
ただ、これまでは現場任せにしている部分が多かったんですね。「元受刑者を雇用しますが、あとは任せたよ」という感じになっていたから、現場のフラストレーションが溜まってしまった。
私たちの取り組みは、雇用する私たちも成長することができると信じています。これからは現場に丸投げはせず、本部がちゃんとフォローアップしていくことを約束しました。
私の言葉が従業員に完全に伝わったかはわかりません。ただそれ以降、このプロジェクトへの不満は少なくなったと思います。「俺がずっと言えなかった一言を、お前が言ってくれた」と父は喜んでくれましたが、私はこの取り組みの意義に強く共鳴したんです。
社長に就任して最大の困難は、やはりコロナ禍でしょう。社長になって二年目でしたが、売上は一気に九十七パーセント減。会社の存続すら危ういという状況です。飲食店はどこも悲鳴をあげていましたが、その時、頭にあったのは孫正義さんの言葉でした。
「荒波を航海する時に船酔いしない方法は、近くではなく遠くを見ることだ」
資金繰りが厳しくなり、経営が立ち行かなくなると、すぐにリストラという判断に走りたくなります。しかし、それは正解でしょうか。経営者とは近視眼的な視点ではいけない。孫さんの言葉の通り、私たちは未来を見据えました。必ずこの荒波を脱却できる日が来るはずですから。千房はコロナ期間中、一人も解雇せず、給料も100パーセント払い続けました。
資金繰りのために銀行をいくつも回りましたが、最初はどこも貸してくれません。しかし、ある銀行の担当者が「大阪の千房を潰すわけにはいかない」と言ってくれてから、次々と銀行が融資してくれるようになりました。あの時、千房は私たちではなく、大阪のものなんだと実感したのかもしれません。
「商売と屏風は、広げすぎたら倒れる」
私は現場をほとんど知らないまま、よそから来た人間として会社に入りました。だから、原価やオペレーションの都合ではなく、お客様の目線で好き勝手に意見が言えました。現場の仕事を経験してないことは弱みではなく、強みなんです。
千房を一代で立ち上げた父は、まさに現場一筋の人です。他の店で食事をしている時も、お客さんの「すいませーん」という声に、思わず「はい」と返事をしてしまう(笑)。そして一風変わった人で、世の中の往来すべてが自分たちのものだと思っていて、道端にゴミが落ちているのが我慢できず、ゴミ袋を手にして道端を歩きます。癖が強いけれど、これこそが創業者なんだなと感じさせられる瞬間が、たくさんあります。
偉大な創業者と比較されて大変だろうと思われるかもしれませんが、私はそんなに気にしていません。そもそも超えたいなんて思っていないんです。
なぜなら、自分は二代目ではなく、心情的には「三代目」だからです。二代目の苦悩や葛藤は、すべて兄が背負って天国に持っていってくれた。だから私は、自由な発想で経営ができる。そしてそれが自分の強みだと思っています。
父が積極的に展開してここまで大きくなった千房ですが、売上をもっと伸ばしたり、事業をさらに拡大したいという思いは、そこまで強くありません。それよりも、従業員が幸せに、楽しく働ける環境を作ることが大事だなと。何より先代から続く「大阪の千房」というブランドを守っていくこと。それが自分の使命だと思っています。
「商売と屏風は、広げすぎたら倒れる」
これは父がずっと言っていた言葉です。商売は広げれば広げるほど、ブランド力と求心力は落ちます。その時にはバランスを失って倒れてしまうでしょう。
目指すのは大阪の新喜劇のように、いつでも近くにあって安心できる存在です。従業員がみんな幸せになれるちょうどいい規模を探しながら、関わっている人たちの幸せを増やしていきたい。それが私に与えられた仕事なんでしょう。経営に徹する立場として、現場のみんなを支え、違う発想で刺激を与えていきたいと思っています。
【もっと読む→《40階建タワマンの解体費用》不動産のプロが試算してみた結果…「解体はほぼ不可能」の建物に未来はあるのか?】
【もっと読む】《40階建タワマンの解体費用》不動産のプロが試算してみた結果…「解体はほぼ不可能」の建物に未来はあるのか?
