白昼に警官殺害と拳銃強奪、数時間後に強盗殺人…凶悪事件の「元警官」が護送中に放った気になる言葉「京都府警にはヘタ売らしたる」
【写真】刑事の隣で煙草を吸い…新幹線で京都に護送中の「広田雅晴」
白昼の京都で奪われた拳銃
7月の熊本、8月の大阪と、2026年夏に注目された事件のひとつに「警官の拳銃使用」がある。SNSでは使用の妥当性をめぐる議論が勃発し、「警官はなにがあっても拳銃を奪われるわけにはいかない」といった意見も見受けられた。賛同するかは個人の判断ながら、たしかに警官の拳銃が強奪された事件は結構な数に上り、犯人がその拳銃を発砲したことも一度や二度ではない。
中でも1984年9月4日に京都と大阪で発生した連続強盗殺人事件は、犯人が元警官という事実とあわせて大きな衝撃をもたらした。白昼の京都で警官を殺害して拳銃を強奪、その足で向かった大阪でまた1人を射殺した元警官は、一体どんな男だったのか――。

(以下、「週刊新潮」1978年11月23日号・1984年9月20日号掲載記事を再編集および加筆修正しました)
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千葉の実家前で身柄を確保
「京都府警にはヘタ売らしたる」――1984年9月6日夜、千葉で逮捕された広田(廣田)雅晴(41=当時)は、京都への護送中に新幹線の車中でこう言った。広田は元京都府警西陣署の巡査部長。「ヘタを売らせる」とは関西の表現で「失敗させる」「恥をかかせる」といった意味である。
その2日前の午後12時50分ごろ、広田は西陣署の十二坊派出所(現在は北警察署の十二坊交番)から男性巡査(30=殉職後、警部補)を呼び出し、包丁で全身をめった刺しにしたうえで拳銃を奪った。そして、倒れていた男性巡査の背中に2発。同日午後4時ごろには大阪に現れ、強盗に入った消費者金融で従業員を射殺した。
京都府警と大阪府警はそれぞれ捜査本部を設置。事件は広域重要指定事件115号に指定されたが、大阪府警はこのとき同114号ことグリコ・森永事件も抱えていた。5日の朝までには広田の犯行と断定され、同日午後に千葉の実家前で千葉県警が身柄を確保、逮捕となった。
そして、冒頭の言葉に戻る。西陣署の捜査本部に連行された広田は、連日の厳しい取り調べにも黙秘した。犯行を否認するだけでなく、住所、氏名、生年月日などの身上調書作成さえ拒否するという徹底ぶり。捜査本部で接見した弁護士には、「6年前の事件と同じ。今回もデッチ上げられて悔しい」とも話した。
実力次第の警察に憧れて
6年前の事件とは何だったのか。話は広田が京都府警の警官だったころにさかのぼる。
大阪・都島に生まれた広田は、父親が早く死去し、母親の実家がある千葉県成東(なるとう)で育った。当時の姓は「神宮」。家が貧しく、高校へ進学したのは5人きょうだいのうち彼だけだった。
昭和36(1961)年に成東高校を卒業し、教師の紹介で造船所に就職するが、3カ月で退職した。京都で職を転々とした後、昭和39(1964)年、京都府警巡査となる。「家柄や学歴、血縁に関係なく実力次第の警察に憧れて」のことだった。
巡査部長に昇進したのは昭和47(1972)年のこと。2年後、九条署から西陣署へ異動して指令室勤務となる。指令室とは110番を受信し、パトカーや署員を配置したり指示したりするセクションである。「無口で人付き合いが悪く、親しい友人はいなかった」というが、本人にはやる気があったようで、府警本部長賞1回、署長表彰を7回受けていた。
この間に京都出身の女性と結婚、婿養子に入り姓が「広田」となった。「オレはやがて警視になってみせる」といっていたが、昭和52(1977)年3月に転機がおとずれる。指令室から十二坊派出所へ配転となったのだ。
10日目に自供し、公判で再び否認
「指令室から派出所勤務というのはまず左遷」と警察関係者は言うのだが、広田の場合、その理由は何なのか。直属の上司だった警部補は「好き嫌いの激しい男で、それに嫌われた」と話す一方、署内で起こった盗難事件で疑われたという説などさまざまだ。
左遷後の広田は署長や幹部の悪口を公然といい、消費者金融から借金して競艇や競馬へ。はては小豆相場に手を出して巨額の借金を抱えるが、その一方で計画を考えた。――西陣署の保管室から拳銃を盗む。盗んだ拳銃で郵便局や消費者金融を襲って金を奪う。犯人からの通報を装ってビストルを発見したことにする。
昭和53(1978)年7月、広田はこの計画を実行した。しかし、トリックは簡単に見破られ、強盗傷害で逮捕。否認していたが10日目に自供し、公判になって再び否認する。そればかりか、過激派の機関紙「人民新聞」で無実を訴えた。
〈どうか私が無実になれますようまた現在身柄拘束されていますが、一日も早く釈放されますよう力を貸して下さい。私の無実は勿論のこと、現在の警察組織についていかにデタラメであるかを公表したいのです。〉
この事件の一審判決は懲役5年(求刑8年)。検察の控訴で高裁判決は懲役7年。上告をすすめる弁護士に彼は、「検察も裁判所も信用できない。服役して出所後のことを考える」と答えたという。なおこの事件は、映画「十階のモスキート」(1983年)の題材となった。
またも公判で「私はやっていません」
模範囚として服役した広田は、仮出所して5日目の1984年9月、前述した京都での警官殺害と拳銃強奪、大阪での強盗殺人に及んだ。当時は警官による凶悪事件が相次いで発生しており、広田の事件と逮捕後の行動についても、多数のジャーナリストや文化人が分析を試みた。
「ヘタを売らせる」発言もあり、犯行動機は京都府警に対する報復と報じられたが、同年10月までの自供では「親子3人が一緒に暮らすための家を買いたかった」。しかし、同年12月からの公判では「私はやっていません」と全面否認に転じた。
物証となる包丁と拳銃は現在に至るまで発見されていない。弁護側は目撃証言の曖昧さを指摘し、唯一の証拠である自供も「拷問によるもの」として無罪を主張。全面否認のまま結審した。
1988年10月、大阪地裁が下した判決は死刑。1993年4月の控訴審判決でも、大阪高裁は一審判決を支持した。1997年12月には最高裁が無罪の主張を退け、死刑判決が確定。なお、広田はこの過程で結婚前の姓である「神宮」に戻した。
死刑囚となった広田は、再審請求を却下され続けながら無罪を主張。並行して2009年には独房での自殺未遂、2013年には執筆原稿の外部郵送をめぐる国家賠償請求訴訟が報じられた。事件から42年、現在83歳である。
デイリー新潮編集部
