「私はすごく太っていて、母はそれが気に食わなかった」“薬物依存の母”に下剤入りのジュースを飲まされ…おおたわ史絵が語る、母親の“恐ろしい記憶”
幼い頃から常に母の機嫌に振り回され、顔色をうかがいながら育ってきたという、おおたわ史絵さん。やがて母は薬物依存症に陥り、「いっそ死んでくれ」と願うほど、母娘関係に苦しんだという。
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おおたわさんは、いったいどのような家庭環境で育ったのか。母親からどんな教育を受けていたのか。話を聞いた。(全5回の1回目/2回目に続く)

おおたわ史絵さん ©鈴木七絵/文藝春秋
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「両親の出会いは職場である病院」「いわゆる略奪婚なのです」
――おおたわさんの生まれ育った家庭について教えてください。
おおたわ史絵さん(以下、おおたわ) 生まれは葛飾区で、父と母と私の3人家族です。
父には昔、別の奥さんがいて、私の母は後妻なんですね。いわゆる略奪婚なのですが、前の奥さんとの間に私より6歳年上の息子がいることを、小学5年生になるまで知らずに育ちました。
――両親の出会いはどんなものだったのでしょうか。
おおたわ 出会いは職場である病院だったそうです。父は医師で、母は看護師だったのですが、母が学校を卒業して働き始めた頃、すぐに付き合い始めてしまったようです。
父の前妻はヒステリックな人だったそうで、父はDV被害に遭っていました。傷だらけで病院に出勤することもあったようで、母はその心の隙間に入り込んだのでしょうね。
父は父で、寄り添ってくれる存在や逃げ場を探していたでしょうから、お互い埋め合うのにちょうどいい相手だったのだと思います。
人格者で努力家だった父は「唯一、女性を見る目がなかった」
――おおたわさんから見て、ご両親の関係性はどうでしたか。
おおたわ 仲は良かったと思うのですが、今になって考えるとものすごく共依存が出来上がっていたのだろうなと。母はとにかく父に依存していて、父もまた「妻を支えなければいけない」ということを自分の役割だと思いすぎてしまっていたように思えます。
――お父さんはどんな人だったのでしょうか。
おおたわ 私は今でも父のことを愛してやまないのですが、すごく愛情深く、優しい人です。人格者でもあり、努力家でもありますね。唯一、女性を見る目がなかったのだろうと思います。
けれども父は、母のことをずっと、悲しくなるくらい好きだったんだなと。厳しくもあり、正しくもありましたが、私に対しても絶対的な愛情を向けてくれたおかげで、私がかろうじて道を踏み外さずに普通の人間として生きてこられた、社会と繋がっていられたと思っています。
昼間から睡眠薬を飲んで、こんこんと寝続けている母親
――お母さんはどんな人だったのでしょう。
おおたわ 母は感情の起伏が激しい人で、急に激しく怒ったり、ご機嫌な時もあったりする人でしたが、正直なところ、今でもどんな人だったのかよくわからないんですよね。昼間から睡眠薬を飲んで、こんこんと寝続けていることもよくありました。
母は幼少期に大病を患ったことがあるんです。盲腸にかかったのですが、山奥の田舎育ちで医者がおらず、「ただの腹痛だ」と数日間放置された結果、ひどい腹膜炎を起こしてしまったそうです。
手術を終えたものの人工肛門になってしまって、それから10年以上にわたって8回も手術を繰り返し、人工肛門を閉鎖できたのは18歳の時でした。
――それがきっかけで、体が弱かったのでしょうか。
おおたわ 本当に体が弱かったのかどうかはわかりませんが、家族や親戚一同も、盲腸を放置してしまった負い目があったんでしょうね。
周りもみんな「彼女は体が弱いから、寝ている日があったり家事ができなかったりするのもしょうがないんだよ」と腫れ物に触るように接していました。
「学歴コンプレックスの裏返しとして…」母が娘の教育に力を入れていたワケ
――お母さんの教育方針はどのようなものでしたか。
おおたわ 当時は子どもの教育に力を入れることが流行り始めた「お受験の走り」みたいな時代だったんです。
加えて、母が抱いていた学歴コンプレックスの裏返しとして「自分の子どもを医者に育て上げないと、自分がダメだから子どももダメなんだと思われてしまう」と考えていたことが、さらなるプレッシャーになったのかもしれません。
母は略奪婚だったこともあり、父方の親戚たちとの付き合いを相当嫌っていました。後ろ指を指されることも相当あったようです。だからこそ、私への教育には力を入れて、娘を成功者にすることで「みんなを見返してやりたい」という気持ちがあったのだろうと思います。
「大きな灰皿を投げ付けられて、額から血が…」母親の行き過ぎた教育
――具体的に、お母さんはどんな教育をおおたわさんに受けさせようとしていましたか。
おおたわ 母は自分に受験の成功体験がありませんでしたから、どこかで「良いらしい」と聞いてきたピアノやバイオリン、英会話なんかの習い事はそのまま実践させられましたね。
でも、彼女がどんなに必死になったところで私がメキメキ伸びるわけではないので、それも歯痒かったのでしょう。母の思うようにいかなければ「他の子と同じでどうするの? 普通でいいわけないでしょ」と激昂され、手当たり次第に教科書やコーヒーカップを投げ付けられる。一度は石でできた大きな灰皿を投げ付けられて、額から血が出たこともあります。
――お母さんの教育方針に対して、お父さんや周りの大人の反応はどうだったのですか。
おおたわ 2人の間にどんな話し合いがあったのかはわかりませんが、父が真っ向から反対することはありませんでしたね。ただ、父も周りの医者仲間から「おおたわ先生のお嬢さんは女の子なのに、なんであんなに勉強をさせられてるんだ」と言われることはあったようです。
父自身もそう思っていたかもしれませんが、母の勢いがすごくて止められなかったということと、ワーカホリックで仕事ばかりだったので、母と私が一緒にいる時間の方が圧倒的に長かったことも関係しているかもしれません。
「布団叩きで叩かれるようになりました」自分の思い通りにならないと激しく怒る
――おおたわさんは、お母さんから暴力も受けていたそうですね。
おおたわ しょっちゅう叩かれていました。手でも叩かれていましたけれど、手を使うと彼女の手も痛いから、途中から布団叩きで叩かれるようになりました。
自分の思い通りにならないと腹が立ってしまう様子で、一度火が点くと制御ができなくなるんですよね。たまたま母が私の部屋に抜き打ちで来た時に漫画を読んでいたとか、学校帰りに文房具屋さんに寄って15分帰宅が遅れたとか、その程度のことで激しく怒るんです。
「お灸を据えると良い子になる」という迷信がかった話をどこかで聞いてきた母がよく、私に「手を出しなさい、お灸を据えるから」と言ってタバコの火を近づけることがありました。その度に「ごめんなさい、もうしませんから、二度としませんから」と必死に謝って、根負けした母が舌打ちをしながらタバコの火を消す、ということが何度もありましたね。
娘を痩せさせるために母が飲ませたものは…
――容姿や服装について、何か言われることもありましたか。
おおたわ とにかく否定されていましたし、事あるごとに「気に食わない、可愛くない」と言われていました。
幼稚園や小学生の頃は自我があまりありませんでしたが、少し大きくなって「こういう髪型にしたい」と言うと「センスがない、可愛くない、似合わない」とことごとく貶されるんですよね。
美容室で前髪を可愛く切ってもらって帰ってきたのに、母から「似合わない」と言われて全然違う風に切り直されてしまったこともありました。
母にとって私は分身のようなもので、自分から離れて1人の綺麗な生き物になっていくことが耐え難かったのでしょうね。自分よりも、下の存在であって欲しかったのだと思います。
――お母さんから、下剤入りのミルクセーキを飲ませられたことがあったそうですね。
おおたわ 小学校の高学年か、中学生の頃だったと思います。勉強をしていたら、母が「ミルクセーキを作ったよ、飲みな」と言って乳白色のドリンクを持ってきてくれたんです。
母がそんなことをしてくれるのは本当に珍しいことだったので、すごく嬉しかったんですね。最後の一口を飲み切った時、母は笑いながら「それね、下剤が入っているんだよ」と言いました。
ストレスのせいか当時の私はすごく太っていて、肥満児に近い体型だったんです。母はそれが気に食わなくて、下剤を飲めば痩せると思い込んでいたために、ミルクセーキに入れて飲ませたのでしょう。
――ひどくお腹を壊したのではないですか。
おおたわ 翌日、トイレにこもりっきりになるほどの下痢に襲われましたが、母は何ひとつ心配する様子はありませんでした。
撮影=鈴木七絵/文藝春秋
〈「家のあちこちに注射器や血で汚れた服が散乱して…」母親が毎日薬物を乱用、薬がないと暴れ出し…おおたわ史絵が明かす、学生時代の壮絶な家庭環境〉へ続く
(吉川 ばんび)
