「風、薫る」(NHK)では直美(上坂樹里)の夫が日清戦争へ出征。直美のモチーフである鈴木雅について調べたライターの村瀬まりもさんは「雅の夫も軍人だったが、朝ドラとは時代設定などが異なる。そもそも彼は戊辰戦争で戦った武士だった」という――。

■直美の新婚生活にホッコリしていたら…

直美「私……。一人でこの子を産むの?」
小川「すまない」
直美「私、吾郎さんがひとりにしないって言ってくれたから結婚して、吾郎さんとだったら、私でも母親にって……吾郎さん、絶対いい父親になるから……(中略)帰ってこなかったら、許さないから。すっごく怒るから」

「風、薫る」第22週「明るい未来」より

9月25日放送で完結。いよいよ最終月に突入する朝ドラ「風、薫る」(NHK)。ダブルヒロインのひとり、直美(上坂樹里)は陸軍軍曹の小川吾郎(甲斐翔真)と結婚し、初めての子を妊娠した。

教会で育てられた親のない子で“世をすねている”系だった彼女がその孤独な境遇を脱して自分の家庭を持つという展開と、心優しい小川との質素ながらも幸せそうな夫婦生活の描写に、「わーん、よかったね、直美!」と筆者のようにホッコリしていた人も多いだろう。

しかし、小川は性格が素直で職業もちゃんとしており、妻の職業を尊重し日々の食事まで作ってくれるなんて、ダメ男の多い朝ドラヒロインの夫としては、ちょっと完璧すぎた。

彼は若い近衛兵、舞台は日清戦争が始まった明治27年(1894年)に入り……と、イヤーな予感もする。果たして、直美の出産を待たず、出征していった小川はどうなるのか?と気をもんでいたら、台湾での戦闘で重傷を負い、広島の陸軍予備病院に運ばれて死亡したことが明かされた。やっぱりか……。

日清戦争(写真=小沢謙信『幕末明治の写真』p.340/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

■モチーフ・鈴木雅の夫も戦病死していた

そんな不安をかきたてられたのは、直美のモチーフである実在した看護婦・鈴木雅(まさ)の夫が戦病死しているからだ。

写真提供=医療法人知命堂病院
鈴木雅の写真 - 写真提供=医療法人知命堂病院

夫の名は鈴木良光、最終的に陸軍少佐にまでなった軍人だった。明治時代の陸軍省発行『陸軍武官録』などには、その氏名がしっかりと記録されている。「明治十二年明治天皇御下命『人物写真帖』」にも写真が掲載され、皇族や臣下(政府高官や軍人)として選ばれた4531人の中に入っている。

ただ、ドラマと大きく違うのは時代設定。鈴木良光が戦病死したのは日清戦争ではなく、それから遡ること17年前に内戦の西南戦争で負った傷がもとだった。

そもそも良光は、小川のように明治維新後に軍隊教育を受けた軍人というよりは、刀で戦ってきたサムライだった。父親は徳川幕府の陸軍奉行並支配・鈴木良右衛門で、将軍に対面が許される“御目見(おめみ)え”の旗本。鈴木家は小石川御薬園(現在の小石川植物園)の近くに250坪の屋敷を構えていたという。けっこうなセレブだ。

小石川植物園(写真=Guilhem Vellut/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

■戊辰戦争で戦い、五稜郭で降伏

幕末期、仕えていた将軍・徳川慶喜が大政奉還し、慶応4年(1868年)、鳥羽伏見の戦いに父と共に参戦したとき、良光は18歳ぐらい。もう立派な一人前の武士だった。その後も父子は薩長を中心とする新政府軍には屈せず、全国を転戦し、ついには函館にまで渡って五稜郭に立て籠もった。

幕臣や土方歳三ら新選組の生き残りが最後まで抗戦した場所だが、結局、リーダーの榎本武揚(のちの明治政府外務大臣)は降伏。良光も榎本に呼びかけられて投降した。

蝦夷共和国(旧幕府軍)の総裁だった榎本武揚(写真=北海道大学図書館所蔵資料/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

しかし、良光の父親はここに至っても降伏なんかしたくないと函館からさらに北方領土方面に逃れ、二度と本土に戻ることはなかったという。まるで漫画『ゴールデンカムイ』のような、いや、それすら超えるエピソードである。

実は、鈴木雅の父親・加藤信盛(千三郎)も旧幕臣。幕末に旗本大番格に出世し、やはり新政府軍に最後まで抵抗した。鳥羽伏見で戦い、五稜郭でも戦って生き残ったというから、良光父子とは戊辰戦争で同志となり、戦場で生死を共にした間柄だったのではないか。そんな彼の長女・雅と良光が結婚したのも、偶然ではないだろう。

鈴木良光が新政府軍と戦った五稜郭、北海道(写真=京浜にけ/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

■爆笑問題・太田が演じる役柄

「風、薫る」に爆笑問題の太田光が演じる患者の遠藤が唐突に出てきて、「(自分は)戊辰(戦争)の生き残りだよ」と言っていたが、雅の父親や夫の史実がこのキャラクターに反映されているのかもしれない。

明治4年(1871年)、鈴木良光は榎本武揚に推薦され、陸軍東京鎮台第三分営へ大尉心得として入営した。明治5年(1872年)に陸軍大尉、明治7年(1874年)、大阪鎮台歩兵第九連隊第二大隊所属となる。旧幕府の陸軍はフランス式の訓練を受けていたので、そういった経験も評価されたのか。

そして、明治10年(1877年)、大隊長心得(大尉)として西南戦争に出征した。

『陸軍省官員録』明治9年6〜12月、国立国会図書館デジタルコレクション

■田原坂の戦いで桐野利秋と対決

良光にとっては、かつての敵、新政府軍の中心人物だった薩摩の西郷隆盛が起こした反乱。だから、奮闘したのだろうか。激しい銃撃戦となった「田原坂の戦い」(熊本県)で一隊を率いた良光は、反乱軍の指揮官・桐野利秋の馬を奪ってみせたという。このとき銃創を受けたらしい。

その勇気ある功績が認められて、少佐に昇進した。その後、西郷たちが籠もる鹿児島の城山まで南進し、最前線で戦った。

小林永濯画「鹿児島新報田原坂激戦之図」、左が官軍、右が西郷軍。明治10年(早稲田大学所蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

雅との結婚は、西南戦争が終結した翌年。良光の足の太ももには銃弾が残ったまま、手術などで取り出すこともできなかったという。兵隊としては勤務不可能になったのか、明治13年(1880年)には陸軍の戸山学校(東京都新宿区)の教官になる。

ところが、良光の足の傷はしだいに悪化し、仙台に異動となったあと、明治16年(1883年)10月、療養願を提出し免職。12月5日、衛戍病院にて死去した。享年34歳もしくは35歳だった。

彼との間に一男一女をもうけた雅は、25歳の若さで未亡人になってしまったのだ。そのとき、長女はまだ4歳、長男は2歳だった(『別冊太陽 大関和 明治のナイチンゲールたち』)。

■夫を失った後悔から看護婦に

わずか5年ほどの結婚生活だった。

雅は夫を失ってから桜井女学校附属看護婦養成所に入ったが、看護婦を志したのは、傷に苦しむ夫をうまく看護してあげることができなかったという後悔からだったという。「風、薫る」のりん(見上愛)のモチーフとなった大関和と出会うのも、ドラマとは順序が逆で、それからの話である。

写真提供=医療法人知命堂病院
左から鈴木雅、アグネス・ヴェッチ、大関和 - 写真提供=医療法人知命堂病院

鈴木雅と良光夫妻について残っている記録は少ない。雅は和のように本なども出していない。しかし、雅がいかに亡き夫を愛していたかは、25歳で死別したのにその後の生涯、再婚しなかったこと、40代で早くも看護婦の仕事を引退した後、かつて良光と新婚生活を送ったという京都へ引っ越したことで推察される。

京都へ移住したのは病弱な息子のためでもあったという。仕事では看護婦派遣の組織「慈善看護婦会」を立ち上げて成功させるなど、当時の女性としてはマネジメント能力を大いに発揮した人だったが、私生活ではシングルマザーとして2人の子を育て上げるだけで精一杯だったのかもしれない。ただ、生活にかかるお金は、軍人だった夫の遺族年金が支給され、困ってはいなかったという。

【参考記事】「風、薫る」直美のモチーフ鈴木雅は看護学校で最も英語ができたが米国留学をドタキャン…京都で隠居したワケ

■この時代の「看護」が意味したもの

昭和15年(1940年)、日中戦争で孫が出征していくのを見届け、雅は82年の生涯を閉じた。

幕末から明治の内乱の時代、日清・日露戦争を経て大戦が始まるまで、雅と同世代の女性は相次ぐ戦争に翻弄されるしかなかった。

だが、「風、薫る」でも広島の陸軍病院が登場したように、そこにはナイチンゲールのように負傷した兵士を看護する女性たちがいた。この時代の看護とは、父親や兄弟、夫や息子、孫といった家族を兵隊に取られる女性たちの“せめてもの抵抗”だったのかもしれない。

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村瀬 まりも(むらせ・まりも)
ライター
1995年、出版社に入社し、アイドル誌の編集部などで働く。フリーランスになってからも別名で芸能人のインタビューを多数手がけ、アイドル・俳優の写真集なども担当している。「リアルサウンド映画部」などに寄稿。
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(ライター 村瀬 まりも)