「また法律を破ってるな」医者の両親が“統合失調症の姉”を南京錠で自宅に閉じ込め…映画監督の弟(59)が目の当たりにした“家族の危機”――2026年上半期 読まれた記事
2026年上半期(1月〜6月)、文春オンラインで反響の大きかった記事を発表します。家族部門の第5位は、こちら!(初公開日 2026/03/29)。
【画像多数】「また法律を破ってるな」医者の両親に南京錠で自宅に閉じ込められ…24歳で統合失調症になった“医学部の姉”を写真で見る
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1983年、医学部に通っていた姉が統合失調症を発症。医療につなげない両親に対し、弟の藤野知明監督は怒りを募らせる。一時は「突発的に両親を殺してしまうのではないか」と思い詰めたこともあったという。
大学卒業後に実家を離れた藤野監督は、姉や家族の状態をカメラで記録。その記録は後にドキュメンタリー映画『どうすればよかったか?』となり、今年1月には同名の書籍『どうすればよかったか?』(文藝春秋)も刊行された。
南京錠のかかった家で暮らしていた姉は、なぜ25年の歳月を経て入院することになったのか。藤野監督に話を聞いた。(全4回の3回目/4回目に続く)

藤野知明監督 ©文藝春秋
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「また同じ1日が始まるのかと思うと、とにかく怖くて」
――お姉さんを医療につなげない両親に怒りが募り、一時は「殺すかもしれない」とすら思ったのだとか。
藤野知明さん(以下、藤野) 姉のことで両親と口論することが増えて「突発的に何かをしちゃうかもしれない」と考えたことはありました。毎朝、日が昇ってくるのが怖かったんですよね。
鳥がチュンチュン鳴いたり、だんだんカーテンの向こうが明るくなってくるのがわかるんですけど、また同じ1日が始まるのかと思うと、とにかく怖くて。
だから僕、新聞で「子どもが親に暴力を振るった」とか「殺めた」という記事を読むと、事件が起きた時間を調べるんですよ。僕にとっては朝の4時とか5時が一番つらくて危険な時間帯だったので、それが気になって。
自分自身の生活の確立を優先して、横浜で一人暮らしをすることに
――他人事には思えなかったのですね。
藤野 そうですね。怒りをどうやって抑えるかというのは色々と考えていました。頭の中で考えがグルグル回って、ずっと答えが出ないんですね。考えたくなくても考えてしまうのをなんとか止めたくて、音楽を聴いたり散歩をしたり、すごく大変でしたね。
――そういう状態は、藤野さんが実家を出るまで続いたのでしょうか。
藤野 はい。大学を卒業して住宅メーカーの営業職に就いたんですが、北海道の家から遠ければ遠いほど良かったので、配属先が横浜に決まって喜びましたね。姉のことが心配ではありましたが、両親と物理的に距離を置くことで、まずは自分自身の生活を確立することを優先しました。
「怒声が飛ぶことは日常茶飯事」会社でも精神的に追い詰められて…
――実家を出てからはどんな生活をしていたのでしょうか。
藤野 横浜の独身寮で生活を始めたんですが、配属先の営業所が非常に厳しいところで。月に1棟売るのが「ノルマでは無い」と表向きには言われていたんですが、前月に契約をとれなかった社員に対しては、「ゼロ社員教育」というものが行われるんですよ。
――それはどういうものだったのですか。
藤野 統括している上司が講師をやるんですけど、休みの日に出社させられて、ひたすら追及されるんですね。怒声が飛ぶことは日常茶飯事で、何か教育的な意味があってやっているというより、「こんなひどい目に遭いたくなければ来月から契約を取れ」ということですよね。僕も何度か行きましたけど、それはもう大変でした。
――精神的に、さらに追い詰められたのではないですか。
藤野 そうですね。その頃は映画を観ても音楽を聴いても、頭に入らないというか、何も感じなくなってしまって。昔聴いて良かった曲でも、何がいいのかわからなくなるような感じですね。
「また向き合おうと決めていました」家族との縁を切らなかったワケ
――その会社にはいつまで勤めていたのでしょうか。
藤野 入社して1年半くらい経った時に、お客さんのところに向かう途中で偶然、日本映画学校(現・日本映画大学)の前を通ったんですよ。「あっ、こんなところにあるんだ」と思って。ちょうど同時期に『パルプ・フィクション』を観て映画熱が再燃したところだったので、ふらっと教務課に立ち寄って、願書をもらいに行っちゃったんです。
受付で色々と話を聞いてみると、監督コースはすごく人気で、人が少ないのは録音コースだと。音は電気で記録、再生するのですが、大学で物理を学んでいた僕には得意分野だったので、それもあって、会社を辞めて録音コースに入学することにしました。
――家を出てからは、家族とはどういった付き合い方をしていたのでしょう。
藤野 近況を聞くくらいですけど、たまに連絡を取ったり、1年か2年おきくらいに帰ったりすることはありましたね。
――家族と縁を切ったり、連絡を取らなかったりというような選択肢もあったと思いますが、そうしなかったのはなぜですか。
藤野 問題がある家庭だとは思っていたんですけど、そこまで両親に対して憎しみがあったわけではなかったことと、姉はきちんとした治療を受けられない被害者なので、いつか何とかしたいと思っていました。
僕自身、姉の言動でストレスにはなっていましたけど、本人もそうしたくてやっているわけじゃないと思っていたんですよね。
家を出たのも、経済的な自立も含めて「自分の生活を確立しなければならない」と思っていたからだったので、その準備がある程度できた段階で、また家族と向き合おうと決めていました。
「何が起きていたのか、わからなくなる」家の中で録音を始めた理由
――藤野さんはお姉さんの状況を記録するために家で録音をするようになったそうですが、それはいつ始めたのでしょうか。
藤野 1992年に僕が家を出る直前だったので、大学4年生の時ですね。
――お姉さんが統合失調症を発症した83年から9年が経過したタイミングで、なぜ録音を始めようと思ったのですか。
藤野 姉の状態について、両親が「問題がない、正常だ」と言って病院を受診させなかったので、記録を残しておかないと、あとで何が家の中で起きていたのか、わからなくなると思ったんですね。
当時はビデオカメラを持っていなかったので、大学の行き帰りに音楽を聴いていたウォークマンにマイクを付けて録音を始めました。
家を出た後、2001年からカメラを回すようになったのも同じ理由です。両親に撮影を拒否されないように、ホームビデオを回すような感じで、自然に家族風景を撮影することを心掛けていましたね。
「大変な事態になった」自宅の玄関に南京錠と鎖がかけられていた
――書籍では、2005年に藤野さんが久々に実家に帰ると、玄関に南京錠と鎖がかけられていたことが明かされていますが、その光景を目の当たりにして何を思いましたか。
藤野 「もう、一刻を争う大変な事態になった」と思いました。「また両親は法律を破ってるな」と。窓から出入りはできるので完全な監禁ではないにせよ、赤の他人が見たら警察に通報されて、新聞に載ってもおかしくない状況ですよね。
両親が自分たちで治療をするという考えからも逸脱していて、「もう自分たちの手に負えなくなった」という証拠だったと思います。
――なかなか状況が改善しない中で、どんな思いを抱えていましたか。
藤野 こういう時間が20年くらい続くのが自分の人生だと大学4年生の頃に気がつきました。
もう僕は結婚できないかもしれないし、姉も結婚しないだろうから、藤野家はもう断絶なわけですよね。それは別にかまいません。家名のために生きている意識は無かったので。
それで「両親が亡くなった後は僕と姉とで暮らす時間が続くんだろう」と予測しました。それでも一番好きな映像のことを仕事にすれば、ただ我慢するだけの人生ではなくなると考えてきました。
――ご自身の将来や結婚についてはどう考えていたのですか。
藤野 学生時代、親しくなった女性に家のことを話したら音信不通になってしまったことが何度かあったんですね。相手を騙しているようになるのが嫌だったので、デートの1、2回目で話すようにしていたんですけど。そういうことがあったので、結婚して家庭を持つのは難しいだろうと考えていました。
「家の中が混乱を極めていて、危機的な状況」母は認知症になり、姉は症状が悪化
――その後、お母さんの認知症が発症するのですよね。
藤野 2005年頃ですね。母はもともとパソコンも使えたし、インターネットの契約も接続も自分でやっていたような人だったんですけど、だんだん「フロッピーディスクが使えない」とか、ネットの接続について「テレビのアンテナからくる」というようなことを自信満々で言い始めたんですね。
それで僕は「あっ、これは認知症かもしれない」と気付いたんです。父や親戚に説明しても、最初は全然信じてくれなかったんですけど、だんだん症状がはっきりと出るようになっていきました。
――どんな症状が出るようになったのですか。
藤野 母が転んで大腿骨にヒビが入ったのですが、手術を嫌がって病院に行かず、「自分で治す」と言い張って、1年間自室のベッドで生活するようになったんですね。おそらく閉じこもったことが認知症の進行を早めたんだと思います。
次第に「謎の男が外壁をよじ登って、姉に麻酔を注射しにくる」というような妄想を口走るようになっていきました。
――お姉さんのこともある中で、すごく大変だったでしょうね。
藤野 2006年から2007年にかけては家の中が混乱を極めていて、危機的な状況のピークでしたね。姉は南京錠をかけられて以降、外出できなくなり、お風呂にも入らず髪もベタベタで、周囲の状況に関心を示さなくなり「無為自閉」の状態に近づいていました。
話しかけても言葉が少なくなり、目線が合わなくなり、コミュニケーションが一層難しくなりました。
限界だった父を説得し、ようやく姉が入院することになった
――お母さんとお姉さんの身の回りのことは、お父さんがやっていたのでしょうか。
藤野 そうですね。母も姉も病院にかかっていませんでしたから、80代の父が1人で面倒を見ていました。ただその頃、僕が以前から姉について相談をしていた精神科医との間で、姉を入院させるための計画を準備していたんですね。
その医師とは前々から、母の状態が悪くなったタイミングで父を説得すれば、さすがにギブアップして姉の入院に納得してくれるかもしれないという話をしていて。
――自宅でお母さんとお姉さんの2人を看ることが難しくて、ということですよね。説得の結果、お父さんはどういう判断をしたのでしょう。
藤野 やはり父自身も限界だったようで、ようやく納得してくれました。姉には当時、内臓の疾患もあったんです。両親は、姉をどこの病院に連れていくこともできずにいましたが、姉の命のためには、両親は一刻も早く考えを変える必要があったわけです。
だから精神科の病院に入院しながら、内科でもひと通り検査をするという話をしたら「わかった」と納得してくれて。
それで僕と父で、認知症の状態ではありましたけど母のことも説得して、それから家族みんなで姉を説得して、いよいよ姉の入院が決まったんです。姉が発症してからの25年を考えると、信じられないような気持ちでしたね。
撮影=佐藤亘/文藝春秋
(吉川 ばんび)
