賃上げについて報道されても、実感がないのはなぜか。知日派ジャーナリストのリチャード・カッツさんは「1995年から2024年にかけて、日本人の労働生産性は40%増えたにもかかわらず、実質賃金は2%下がった。これは、企業が余剰金を留保してきたからだ」という――。

※本稿は、リチャード・カッツ『給料を上げれば日本は復活する』(ハヤカワ新書)の一部を再編集したものです。

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■30年以上、実質賃金が伸びていない

もしあなたが経営者で、従業員の賃金を10パーセント減らしたとすると、あなたの会社の利益は増えるだろう。しかし、経営者がみな、そのような行動をとったとすると、顧客はどうやって会社の製品を買うだけの収入を手にすることができるのだろうか。

製品が売れなければ、会社は生産を縮小し従業員を解雇することになり、生産能力拡大のために資金を投入する理由もなくなる。となると、いったいどうして経済が健全に成長していけるのか。端的にいえば、この問題こそが日本の失われた30年の大きな要因だ。こんにちの実質賃金は、1995年と変わっていないのだ。

経済学者には300年ほど前からわかっていたことだが、少数の人だけがやればうまくいくことであっても、全員がやれば大きな害を生む場合がある。1世紀前、1930年代の大恐慌の時代に、著名な経済学者のジョン・メイナード・ケインズはこの原理を用いて、賃金カットが大恐慌をいっそう深刻にした過程を明らかにした。こうしてケインズは、またたく間に近代マクロ経済学を打ち立てたのだった。

■世帯貯蓄率は14%→0.7%へ減少

このような知見があるにもかかわらず、日本の企業は何年も賃金を抑えてきた。この点が、2025年なかば時点で日本の実質消費支出が12年前より若干落ち込んでいる最大の理由だ。

それならばなぜ、財務省も経団連も自民党の財政タカ派も、この問題をなかなか理解しないのだろうか。なぜ、消費者は倹約しすぎで消費に使わず貯蓄に回しているという誤った作り話をしてきたのだろう。

実質所得が低迷するなか、人々は消費を維持するため貯蓄を徹底的に減らしている。世帯貯蓄率は1990年には所得の14パーセントだったが、コロナ禍の数年を除く2013年から2023年の期間は平均0.7パーセントと大きく下がったというデータがあるのに、なぜ無視してきたのか。

たしかに近年は、安倍晋三や岸田文雄、石破茂ら、賃上げを求めてきた首相もいる。しかし、彼らは最低賃金を引き上げた以外には、崇高な議論をぶち上げるだけで具体的な施策に移そうとはあまりしていなかった。

■正社員の実質年収も515万円→500万円に

このあと詳しく述べるとおり、賃金をふたたび上昇させるために日本政府ができることはたくさんある。最低賃金引き上げの加速、男女間での、また正規・非正規労働者間での同一労働同一賃金を義務づける法律の執行、失業者が新しい雇用を見つけられるよう支援する、いわゆる「積極的労働政策」の実施だ。

ところが、安倍晋三は、法人税を引き下げるいっぽうで消費税を2倍にして、人々をいっそう困窮させた。これが、企業の賃金緊縮政策とあいまって、正規労働者の年間賃金と諸手当を合わせた物価調整後の金額が1996年の515万円をピークに2024年には3パーセント近く低下し500万円にまで下がっていることの要因である。GDPが伸び悩んでいるのももっともだ。

じつのところ、ここ10年にわたる低成長率をなんとか維持するためだけでも、日本政府は「最後の手段」に頼らざるをえなくなっていた。それは財政支出を拡大することであり、そのため、2015年から2025年にかけてのGDP増加額の50パーセント以上を財政支出の増加が占めている。低賃金によって、日本は赤字依存症に陥った。

■減税をめぐり、転向した高市首相

2024年の衆議院選挙と2025年の参議院選挙で、自民党は衆議院、参議院とも過半数を失った。選挙戦で野党は、(全品目もしくは食料品に対する)消費税率を一時的に引き下げるよう訴えていた。自民党は消費税引き下げに反対の姿勢を示し、石破は辞任を余儀なくされた。

石破の後継者を決める自民党総裁選で、高市早苗は選挙運動期間中に減税反対の態度を表明していた。ところが首相になり、主要野党が食料品に対する消費税を恒久的に撤廃することを訴えはじめたとたん、食料品に対する消費税を2年間ゼロにする時限措置を支持したのだった。ただし、それにかわる財源として赤字国債をあてることはしないと約束した。

地滑り的勝利をおさめたことで、高市は国会で野党の票を集めるために自分が望む以上のことをしなくてもよくなり、また自民党の財政タカ派と財務省をおもんぱかってやりたいことを手控える必要もなくなった。

令和7年10月21日午後、衆参両院にて首相指名投票が行われ、高市早苗議員が、伊藤博文初代内閣総理大臣から数えて第104代目の内閣総理大臣として指名された(写真=首相官邸/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons)

財務省はこれまでずっと、たとえ一時的にであったとしても消費税を一部減税することには反対で、それは一時的が無期限になるのを恐れているからだ。

■生産性向上の恩恵は企業がひとり占め

ここ数十年にわたり賃金が抑制されてきた先進国はけっして日本だけではないが、日本のケースは最悪だ。

1995年から2024年にかけて、平均的な労働者が生み出す1時間あたりGDPが40パーセント増えているにもかかわらず、1時間あたり(物価調整後)実質賃金は30年前より2パーセント下がっている(図表1を参照)。企業が余剰金を留保してきたからだ。

このため、GDPに占める経常利益の割合は、1994年の5パーセントから2025年なかばには18パーセントと爆発的に伸びている。

出所=『給料を上げれば日本は復活する』

さらに悪いことに、企業はこうして得た利益で投資を増やして経済を潤そうとはしない。利益は帳簿上積み上げておくだけであり、長いあいだ休閑地にされたままの農地も同然だ。

■賃上げされたのは一握りの人だけ

一部の人は、賃金問題は現在解決されつつあると主張し、2024年と2025年の春闘で名目賃金が大幅に引き上げられたことを指摘する。だが、それは事実ではない。

一つには、春闘に参加しているのは労働者の16パーセントにすぎないからだ。残りの84パーセントの労働者は、これほどの賃上げを得られなかった。

さらに重要なことは、賃金は上がったものの、物価の上昇に追いついていないことだ。その結果、物価調整後の時間あたり実質賃金は2024年と2025年の1月から8月までの期間を通じて低下の一途をたどっている。物価上昇を上回るペースで賃金が上がるようになるのか、上がっていくならいつなのかは、まだわからない。

健全な経済では、労働者の生産性が向上すれば、市場の力によって長期的には賃金が上がっていく。1時間あたりの生産量が2倍になれば、賃金も2倍になるはずだ。

日本の経済学者、宇沢弘文が1961年に証明したとおり、生産性に伴って賃金が上がらなければ、あらゆる面でマクロ経済が不安定になる。または、企業は生産したもののすべてを売ることができなくなる。日本が抱えているさまざまな病――低い成長率とデフレ、慢性的な財政赤字、銀行危機、さらには弱い円まで――は、このような症候群の典型的な症例なのだ。

■日本の賃金と生産性のギャップは最悪

資本主義経済は1800年代以降、GDPと賃金がともに成長するという教科書どおりのモデルにおおむね従ってきた。正常な自己修正のプロセスによって、大きな逸脱が避けられていた。その後ここ40年のあいだに、何かが変わったのだ。多くの先進国で、賃金の上昇が生産性の上昇に大きく後れをとるようになった。

それでも、イタリア、フランス、イギリス、デンマーク、フィンランドといった国では、想定どおりに動向が推移してきた。

日本企業は長らく利益を内部留保し、賃金を抑制してきた。 出所=『給料を上げれば日本は復活する』

図表2のグラフで斜めになった線は、生産性の上昇に見合って賃金が上昇している状態を示している。多くの国が斜めの線より下に位置している。日本の賃金と生産性のギャップは、明らかに最悪だ。

■「犯人」はテクノロジーと貿易と移民?

このような状況はすべて、人ではないものの力による結果だ、とするエコノミストもいる。まずテクノロジーによるものであり、それほどの影響力ではないものの、グローバル化によるものだという。

パーソナル・コンピューターやインターネットが普及し工場の自動化が進んだため、未熟練労働者と中程度の技能の労働者に対する需要が少なくなったのだと論じる。コンピューターによって、事務職の多くが削減された。自動車産業では、数十年前なら3人の労働者を要した生産業務を一人でできるようになったため、雇用が大幅に落ち込んだ。

テクノロジーと貿易がすべての、または主要な要因だとするなら、政策立案者は現在の傾向に歯止めをかけようにもなすすべもないだろう。一般の労働者は、人でないものに責任を負わせるより人間を責めたがるものなので、ドナルド・ドランプやフランスのマリーヌ・ル・ペン参政党といった扇動的な政治家や政党は、とくに肌の色が違う人たちの国がかかわる貿易や移民、外国企業のせいにしたがる。人々が移民と輸入こそが犯人だと思い込んでいるなら、強権的指導者が問題を解決できると考えるだろう。

実際には、テクノロジーも貿易も移民も現状の説明にはならない。過去にも、労働力の削減につながるようなテクノロジーの大きな進歩は何度も見られた。そのことによって賃金が一時的に悪影響を受けたとしても、時がたつうちに、ほぼかならず市場が自己調整されていった。

■なぜ先進国の中で「格差」が生じたのか

1800年代初頭に工場生産が始まると、繊維業の熟練労働者たちが自分たちの仕事を奪いつつあった工場の機織り機械を破壊する運動(ラッダイト運動)が起きた。1世紀前には、電話をかけるたびに、電話交換手が手動で交換台を操作していた。1930年代か1940年代の映画に出てくるような交換台だ。

いまでもそんな交換台を使わなければならないとすると、アメリカでは3000万人の交換手が必要になる。しかし、近代的な電子交換機が登場しても賃金は下がらなかった。以前の雇用が、もっと高いスキルを備えもっと高い給料を支払われる労働者におきかえられたからだ。

事実、長期的に見ると、農業用トラクターや工場用織機、電子交換機は生活水準の向上に不可欠だった。こうした発明が、一般の人々の手に入るあらゆる商品を生み出し、さらには人々を肉体労働から解放し、より高度な技能を要する雇用へと引き上げたのだ。

私たちは、テクノロジーが主要な要因ではありえないとわかっている。すべての先進国が同じテクノロジーを利用しているのだから。にもかかわらず、日本では賃金がまったく上がらないままで、イギリスでは生産性を上回るペースで上がっている。

■労働者に政治力がある国、ない国

すでに2001年時点で、のちに国際通貨基金(IMF)のチーフエコノミストになるオリヴィエ・ブランシャールは、賃金を抑制しているのはテクノロジーでなく政治だと論じていた。つまり、雇用主の政治力に比較して労働者の政治力が低下しているのだ。

この現象はOECD加盟国の大半で見られるが、日本とアメリカで最も深刻だ。日本では、1960年から1975年にかけては従業員の3分の1が労働組合に加入していたが、現在では組合に加入する従業員はわずか16パーセントだ。

他の国では、労働組合との結びつきが強い政党がそれ以外の政党と交替で政権を担ってきた。そのような状況は日本ではなかなか起きない。例外は2009年から2012年にかけて短期間、民主党が政権についたときだけだ。賃金の上昇が生産性の上昇を上回っている4カ国のうち3カ国がスカンジナビア諸国で、これらの国では労働党が大きな政治力を握ってきた。

日本の賃金問題には終身雇用もかかわっている。

■転職を封じた日本の独自ルール

競争的労働市場のもとでは一般に、生産性の向上に伴って賃金が上昇していく。ここでいう競争的労働市場とは、労働者がより高い賃金を払ってくれる雇用者を求めて勤務先を移る自由があるという意味だ。そのような状況では、より大きな交渉力をもてる。

じつのところ、日本で1890年代に雇用者側が終身雇用制を導入したのは、労働者が高い賃金を求めてひんぱんに職場を変えるからだった。

そのため、雇用者たちは競合他社からの労働者を採用しないことで合意した。そのときに、「会社は家族」という考え方は昔からある日本の文化的伝統に根ざすものだという神話がつくり出された。ひと握りの経営者が市場を支配し労働移動が少ない産業では賃金が低いということを、経済学者はずっと前から知っている。

要するに、賃金と生産性のギャップは、テクノロジーの問題でも文化の問題でもなく、力関係によるものだ。

■転職市場の拡大は日本を変えるか

明るいニュースは、才能あふれる若い世代の日本の労働者たちが勤務先を変えながらみずからの状況を改善しようとしていることだ。

1982年には、一つの会社に10年勤続した25歳から29歳の労働者のうち70パーセントが、その後の10年間も同じ会社に勤めていた。ところが、彼らより15年あとで労働市場に参入した人たちのあいだでは、同じ会社にとどまる人の割合は52パーセントに下がっている。同様の傾向は30歳から34歳の年齢層のあいだでも見られ、それほど顕著ではないものの、より高い年齢層でも見られる。

コインの両面のように、中途採用を行なう企業の割合は1994年にはわずか35パーセントだったが、2019年には70パーセントと2倍になった。こうした企業のなかには、従業員1000人以上で伝統的に終身雇用が定着していた企業も含まれている。

リチャード・カッツ『給料を上げれば日本は復活する』(ハヤカワ新書)

企業が転職を受け入れざるをえなくなった理由の一つは、労働力不足により、経験を積んだ労働者が流出していることだ。同じように重要な理由は、デジタルテクノロジーの発展により、社内のスタッフが自社に必要なスキルを持ち合わせていないケースが増えたことだった。

何より明るい材料は、能力が高いミッドキャリアの人材を引き寄せようと、企業が次第に賃金プレミアムを提示しなくてはならなくなっている状況だ。2009年には、転職した男性のうち給料が10パーセント以上アップした人はわずか15パーセントだった。その割合は、2017年時点(入手できた最新のデータ)で27パーセントと、2倍近くに達している。

悲しいことに、このように給料が上がるケースは、最も能力の高い25パーセントの労働者にほぼ限られている。先に図表1と図表2で見たとおり、大部分の労働者にとって、実質賃金はここ30年のあいだ停滞したままだ。

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リチャード・カッツジャーナリスト
「週刊東洋経済」特約記者(在ニューヨーク)。ニューヨーク大学で経済学の修士号を取得。専門は日本経済および日米関係。日本に関する月刊ニュースレター「The Oriental Economist Report」を20年にわたり発行、現在はブログ「Japan Economy Watch」を運営。カーネギー国際問題倫理評議会の元シニアフェロー。著書に『腐りゆく日本というシステム』『不死鳥の日本経済』(東洋経済新報社)、『「失われた30年」に誰がした──日本経済の分岐点』(早川書房)がある。
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(ジャーナリスト リチャード・カッツ)