信長の法要が「政治戦」の舞台に? 秀吉が3000人の大葬儀で示した織田家の主導権
歴史研究家の市橋章男氏とアシスタントの浜崎友里氏が、YouTubeチャンネル「なるほど! 歴史ミステリー」にて「【信長の死後、戦はすでに法要の場で始まっていた】秀吉はなぜ3000人の大葬儀を行ったのか?お市・勝家との知られざる政治戦!信長の死後、法要までもが主導権争いの舞台になっていた 豊臣兄弟歴史解説31」と題した動画を公開した。動画では、信長亡き後の織田家で、法要や葬儀までもが主導権争いの舞台となっていった過程を詳しく解説している。
動画では、清須会議後に深まっていった羽柴秀吉と柴田勝家側の対立に焦点を当てている。織田信孝は当初、安土城の修復が終わるまでの間、信長の嫡孫・三法師を岐阜城で保護していた。しかし、受け入れ態勢が整い始めても三法師を引き渡そうとせず、やがて若君の代理として文書を発給するなど、織田政権の主導権を握るかのような振る舞いを始めたという。三法師の存在は、秀吉と勝家側双方にとって、自らの正当性を示す重要な意味を持つようになっていった。
さらに市橋氏が注目するのが、信長を弔う法要だ。阿弥陀寺では信長の四十九日法要が営まれ、その後、百日忌にはお市の方を中心として妙心寺大嶺院で大規模な法要が行われた。多くの織田家武将が参列する一方、秀吉はそこに加わっていなかった。これに対し秀吉側は、京都・大徳寺で信長の実子である羽柴秀勝を喪主に立て、大規模な葬儀を開催。約3000人もの僧侶が列をなしたともされ、朝廷や有力者を巻き込んだ一大行事となった。信長を「誰が弔うのか」が、そのまま織田家の主導権をめぐる政治的な意味を持ち始めていたのである。
その後、秀吉は信孝が岐阜城に留め置いていた三法師を「救い出す」という大義名分を掲げ、織田家の有力武将たちから次々と同意を取り付けていく。そして大軍で岐阜城を包囲し、信孝を降伏へと追い込んだ。市橋氏はまた、お市の方にとって秀吉は「信長の遺産を食い荒らす」存在として映っていたとし、両者の厳しい関係にも言及する。信長の死後、武力による直接対決に至る前から、法要や葬儀、大義名分をめぐる政治戦がすでに始まっていたことが見えてくる内容となっている。
動画では、清須会議後に深まっていった羽柴秀吉と柴田勝家側の対立に焦点を当てている。織田信孝は当初、安土城の修復が終わるまでの間、信長の嫡孫・三法師を岐阜城で保護していた。しかし、受け入れ態勢が整い始めても三法師を引き渡そうとせず、やがて若君の代理として文書を発給するなど、織田政権の主導権を握るかのような振る舞いを始めたという。三法師の存在は、秀吉と勝家側双方にとって、自らの正当性を示す重要な意味を持つようになっていった。
さらに市橋氏が注目するのが、信長を弔う法要だ。阿弥陀寺では信長の四十九日法要が営まれ、その後、百日忌にはお市の方を中心として妙心寺大嶺院で大規模な法要が行われた。多くの織田家武将が参列する一方、秀吉はそこに加わっていなかった。これに対し秀吉側は、京都・大徳寺で信長の実子である羽柴秀勝を喪主に立て、大規模な葬儀を開催。約3000人もの僧侶が列をなしたともされ、朝廷や有力者を巻き込んだ一大行事となった。信長を「誰が弔うのか」が、そのまま織田家の主導権をめぐる政治的な意味を持ち始めていたのである。
その後、秀吉は信孝が岐阜城に留め置いていた三法師を「救い出す」という大義名分を掲げ、織田家の有力武将たちから次々と同意を取り付けていく。そして大軍で岐阜城を包囲し、信孝を降伏へと追い込んだ。市橋氏はまた、お市の方にとって秀吉は「信長の遺産を食い荒らす」存在として映っていたとし、両者の厳しい関係にも言及する。信長の死後、武力による直接対決に至る前から、法要や葬儀、大義名分をめぐる政治戦がすでに始まっていたことが見えてくる内容となっている。
YouTubeの動画内容
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