もしくは、「東京23区に住む世帯年収3,000万超の家庭出身者」と「人口数百人規模の町村に住む世帯年収400万円程度の家庭出身者」とでは、両方ともが「平等な教育機会を得られた」と言い切れるでしょうか?
 
 昨今ではインターネットが普及しましたから「情報は平等にある」と言い切りたくなりますが、実際には「検索手段がある」ことと「知っている」ことは全くの別物です。

 世帯年収が低くても、十分な才能があれば、進学塾へ特待生待遇で入れたり、給付型の奨学金をもらえたりするかもしれない。でも、それすら知らないので「自分たちには無理」と受験自体を諦める子どもが存在するのに、「学歴・受験は平等」といいきれるものでしょうか。

 同じような文脈では「推薦・総合型選抜」(いわゆる指定校推薦やAO)が「不平等受験」の象徴として叩かれがちですが、一般受験にも「完全なる公平」とは言い切れない側面があることを、忘れてはいけません。

◆わかりやすすぎる偏差値評価

 しかし、いくら学歴や大学受験を重視している人々だとしても、「受験の結果は不平等である」ことなんて、わかっているはず。

 それでも、たかだか学部の入学歴・合格歴程度で人を値踏みするのは、偏差値による分かりやすすぎる相対評価が、18歳を境目にして終わってしまうからではないでしょうか。

 つまり、大学入学以降は、国語・数学・英語・理科・社会(と副教科)のわかりやすい指標以外にも「コミュ力」「体力」「粘り強さ」といった非認知的能力が増えたり、主要5教科で割り切れない横断的な話題が増えたりしますよね。これでは、偏差値を測りたくても測れない。

 だからこそ、年収マウントや勤続企業マウントなどにシフトしていくわけです。

 マウント自体が悪しき風習であることは間違いありませんが、序列の中に存在価値を見出してしまう悲しい習性を振り切れない側面が一定ある以上は、どこまで行っても堂々巡り。

「学歴マウントはよくありません!」と指摘するべきですし、それは簡単ですが、「ダメだ」といって通じるような簡単な話題であればこうも問題になりません。

 むしろ私がここで注目したいのは、多くの学歴厨は、おそらく大人(それも30代以上で、大学生や卒業したてではない)であるにも関わらず、「どうして未だに学歴(=偏差値序列)にこだわり続けるか」。

 もしかすると、「偏差値」に変わるような、分かりやすくてマウントが取れる指標が見つからないがゆえに、次のステージへ移行したくてもできないのかもしれません。