牛を放つ/第0回 牛を放つ

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『叫び』(新潮社)で第174回芥川賞を受賞した小説家・畠山丑雄さんの連載「牛を放つ」を開始します。夏目漱石が芥川龍之介に宛てた「牛になる事はどうしても必要です」という手紙を筆名の由来に持つ畠山さんが、畜産、民俗、神話、文学、絵画など多種多様な資料をあたり、ときに実際の牛に会いながら、「日本一の牛」を探すノンフィクション・エッセイ。そもそも「日本一の牛」とはいったい何なのか。その過程で「牛」あるいは「日本」の新たな側面が見つかるかもしれません。連載開始に先立って、第0回を公開します。

求牛宣言

 日本一の牛がいる。
 どこかにいる。
 その牛はまず、私にとって日本一の牛である。他の人にとってもそうかは、まだわからない。だからまず会ってみることである。会うまでにそのことを、私にとって日本一の牛が、みなにとっても日本一の牛かどうかを考えても仕方がない。
 ただその牛は、この国のどこかで私を待っている。牛舎で、あるいは、牧場で、あるいは、食肉処理場で、あるいはそのどこでもないどこかで。
 その牛は私を待っている。

 どうやって会うか。
 牛は今日本に350万頭以上いる。全ての牛に会うわけにはいかない。どうやって会うべき牛を絞るか。
 私は牛の専門家ではない。だから、「日本一の牛とはどのような牛か?」という問いについては、答えの持ち合わせがない。
 しかし私は私の専門家ではある。だから、「私にとって日本一の牛とはどのような牛か?」という問いについては、答えようがあるはずだ。
 今答えがあるわけではない。それは資料を渉猟する過程で、あるいは実際の牛に会う過程で、輪郭が浮かび上がってくるだろう。仏師にとって仏は見えずとも木の中に眠っているのだ。

 なぜ日本一の牛を私は求めているのか。
 わからない。
 何かを求める理由がわからないことはしかし、その何かを求めているという事実とは何の関係もない。求める過程でそれは明らかにされるだろう。その確信は既にある。

 しかしそれがあなたに何の関係があるというのだろう?
 日本一の牛を求めることは、何らかの比喩ではない。私は本当に日本一の牛を求めるのである。
 初めに断っておくが、私はこれを読むものに何らかの教訓を与えるために牛を求めるのではない。また私はこれを読むものに実生活に応用可能な何らかの技術や知見を与えるために牛を求めるのではない。
 ただ牛を求めるのである。
 言い換えればこれは徹底的に個人的な追跡の記録である。
 にもかかわらずあなたは今この文を読んでいる。
 まだ読んでいる。
 それはあなたが予感を抱いているからだ。この文章があなたにとって何かしらの関係があるのではないかという予感だ。そうでなければあなたはこの文まで辿り着いていない。既にページを閉じている。
 でもあなたはまだ閉じていない。
 既にあなたの想像力には一頭の牛がいる。
 その牛はあなたを見つめている。恐ろしく澄んだ、黒々とした瞳であなたを見つめている。
 あなたはその牛を退けることはできない。
 追放することはできない。
 牛は確かに存在している。
 あるいはあなたはここでページを閉じるかもしれない。
 でももう遅い。
 それでも牛は存在している。
 あるいはあなたより先に私が牛を追い求めるのをやめるかもしれない。
 しかしその場合でも、やはり牛は存在している。あなたの想像力の中に。
 牛はそこで草をはみ、しっぽを振り、げっぷをする。毛並みには光沢があり、生暖かい体温とすえた匂いが伝わってくる。
 あなたは目を瞑り、その牛を忘れようとする。
 うまくいけばあなたは確かにその牛を忘れる。忘れ続ける。
 しかしそれでも牛は存在している。
 あなたは死の間際にその牛を思い出すかもしれない。あるいは思い出すことなく死ぬかもしれない。
 しかしそれでも牛は存在している。
 牛にとって牧場が誰のものかは関係がない。その存在が牧場を支えている。
 誰のものでもない牧場に牛がいる。
 牛には目的などない。
 牛はただ存在している。
 あるいは牧場もいつかは消える。
 それでも牛はそこにいる。
 牛はただ存在している。

Credit:
文=畠山丑雄