「私だけが生き残った」豊川海軍工廠の空襲から81年 金沢市で慰霊の集い 101歳の元女子挺身隊員

終戦直前の8月7日、愛知県豊川市の海軍工場がアメリカ軍の空爆を受け、動員されていた石川県出身の女子挺身隊52人も犠牲となりました。
空襲から81年目の8月7日、金沢市では101歳の元隊員や遺族らが集まり犠牲者を悼みました。
今年101歳を迎えた金沢市に住む西村八重子さん、元女子挺身隊員です。
西村八重子さん「(慰霊碑に手を振りながら)みんな私の親友。私だけが生き残った、みんな死んじゃった」
当時、東洋一の兵器工場と言われた愛知県豊川市の豊川海軍工廠。
1945年8月7日、アメリカ軍の空爆を受けおよそ2500人が死亡、女子挺身隊として石川県から動員されていた52人も尊い命を落としました。
西村八重子さん「(爆撃にあった時)いつもより怖いなと思って、私は正座して地べたに(ふせた)あとのみんなは『きょうの音、大きいわ」と言った後みんな死んじゃった。
空襲を受けた時の深い傷跡は、今も西村さんの右腕に残っていました。
西村八重子さん「爆弾の破片がここに刺さったけど腱は何ともなかった。手を伸ばして居たら、手はなかったかもしれない」
次の世代につなげる活動を模索毎年欠かさずに訪れている金沢市卯辰山の「殉難おとめの像」。81回目となる今年は車いすでの参加で慰霊碑のそばに行くことは叶いませんでした。
多くの友人の命を奪った戦争。犠牲者を悼み終戦の翌年につくられた歌を今でもしっかりと覚えています。
西村八重子さん「私だけがこうして長生きさせてもらって、死んだ人に申し訳ない」
元隊員で慰霊の集いに参加しているのは西村さんただ1人。参加者も年々減少が続いています。
元隊員の長男で世話人の中山正一さんは、次の世代につなげていく活動を模索しています。
世話人・中山正一さん「若い人たちになんとか引き継いでやっていただけるようにしないといけない時期がとうに来ているので、そいういうことをどうやって行くか継承をどうやっていくか毎年考えていかないといけない」
西村八重子さん「どんなことあっても来れる間はきます」
