中日に入団して活躍した板東さん

写真拡大

 元プロ野球の中日ドラゴンズのエースで、タレントしても活躍した板東英二さんが7月22日に慢性心不全のために死去。86歳だった。徳島商のエースとして準優勝に導いた1958年夏の甲子園大会では6試合63イニングで83もの三振を奪い、現在も残る大会記録となっている。その板東さんに生前、「もしも甲子園に出なかったらどんな人生だったか」と尋ねたところ「小学校の先生」という答えが返ってきた。職業として野球を選ぶとは夢にも思っていなかったというが、野球を始めたきっかけを聞くと、意外にも「体が小さかったから」という答えが返ってきた。【前後編の後編】

 6年前の本誌・週刊ポストの取材に対しての答えだったが、貧しかった幼少期の話が絡んでくる。

「四国・徳島の片田舎ですからね、体の大きな子供は相撲、小さい子供は野球と決まっていました。ただ、中学では野球部ではなくバレー部でした。野球はグローブやスパイクを自分で買わないといけなかったが、うちは貧乏で買えなかった。バレー部は学校にボールが4個あったので自分で買わなくてよかったんです。

 それが中学2年生の時に野球部に欠員が出て、先輩から勧誘を受けた。ボクがライトを守るとすごい球で返球したものだから、ショートに抜擢され、3年生になってピッチャーで4番に座りました。わけもわからないうちに61連勝という記録を残していました」

ウサギに石を投げて自給自足の生活

 中学で野球を続けたのも「貧乏生活だったため」と話した。

「地肩が強かったんですね。ウサギに石を投げて捕まえていましたから。ウサギの動きより速く石を投げられたし、コントロールもあったんでしょう。当時は自給自足。もちろん家で食べるためですが(苦笑)。

 中学の野球部で野球を続けたのも、部員仲間がトウモロコシや麦とかを持ってきてくれたり、地場産業のたばこの葉っぱをブローカーに流して小遣いを稼げたからです」

 教員を目指していた板東さんは普通科の鳴門高に進む予定だったが、結果として徳島商に進学した。

「徳島商の野球部関係者が自宅へスカウトに来た。すると両親が勝手に話を進めてしまったんです。部長の家に下宿し、学費も野球部の後援会が出してくれることになっていた。両親としても口減らしですよ。

 商業高校で簿記やそろばんが授業に入ってくると、勉強はついていけなかった。成績は急降下ですよ。野球部に練習もきつかった。ただ、野球部を辞めようにも後援会から授業料が出ているので学校まで辞めないといけなくなる。それで野球を続けたが、練習は年中無休、グラウンドで聞こえる百貨店のチャイムが鳴ってから1時間半なので、毎日夜10時半までやってました。それから自転車で帰る。それでも教員になりたいから最低限の勉強だけはやっていましたね」

 板東さんが甲子園大会に出場したのは1年夏と3年夏の2回だ。

「1年生では補欠でした。当時は下手でも3年生がレギュラーになる時代でしたからね。3年生の夏は延長18回再試合も含め、83三振を奪っての準優勝。でも、当時はどれだけマスコミが騒いでいるかもわからなかった。初戦で17三振を奪った時も、カメラマンが宿舎にたくさん来ましたが、怖くてトイレに隠れていたほど。ずっとあとで凄いことだとわかったが、当時はどれだけ三振の記録を作っても、それをもってプロ…ということは考えてもいなかった。

 逆に野球で大学に行けるという噂を聞いて、嬉しく思いましたからね。関西大や早大にも野球で行こうと思っていたし、慶応大からも練習に参加して欲しいと言われて行ったこともありますが、行ってみるとセレクションでした。いずれにしても、大学に行くことになっていました」

契約金2000万円、長嶋さんより上だった

 にもかかわらず、徳島の自宅にはプロ野球のスカウトが大挙して押し寄せた。

「全球団から話が来ましたが、巨人だけは手紙がきた。オヤジが"家まで来い"と返事して、巨人が"生意気なヤツだ"と獲得を断念したそうです。結局、オヤジが契約金に目がくらんでしまった。当時、宝くじの1等100万円の時代に2000万円ですからね。(地元の)板東町の土地が全部買えるようなカネでした。長嶋(茂雄)さんの契約金が1800万円。それより上だった。前年に松山商で優勝投手となった空谷(泰)さんが中日に入団して200万円だったそうです」

 ただ、板東さんが中日を選んだのは契約金に目がくらんだからではなかったと力説していた。

「実は、ボクの初恋の人は愛知から徳島の中学に転校してきた人なんですけど、再び愛知県に戻っていた。それもあって、ボクも名古屋の中日に行くことにしたんです。プロでは広島の長谷川良平さんに続いて2番目に小さかったから活躍できるとは思っていなかった。だから夏の甲子園がなければ、なんとか大学まで進んで小学校の教員になっていたと思いますよ」

 とにかく明るく楽しい話をする人だった。合掌。

【前編から読む】

■取材・文/鵜飼克郎(ジャーナリスト)