映画「わたしの知らない子どもたち」の一場面 (c)2026 K2 Pictures・AOI Pro.

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 終戦後、全国に約12万人いたとされる戦争孤児を描いた映画「わたしの知らない子どもたち」が今秋、全国で公開される。

 西川美和監督(52)は、普通の子どもたちが路上生活を余儀なくされた時代を過去のものにしてはならないとの思いを作品に込めた。(浅野榛菜)

映画「わたしの知らない子どもたち」今秋公開

 舞台は終戦直後の東京。焼け野原となった街には闇市が広がり、年齢や育った環境も異なる家族を失った子どもたちが身を寄せ合っていた。孤児となった12歳の少女・琴子は、好きだった音楽を諦め、髪を切り、名前も変えて少年として生きる道を選ぶ。

 広島出身の西川監督は、オリジナル脚本の「蛇イチゴ」(2003年)で監督デビューし、「ゆれる」「永い言い訳」などを手がけた。今回の映画を制作したきっかけは、前作「すばらしき世界」。原案となった小説には、戦後、行き場を失った子どもたちも描かれており、その存在が頭に残っていたという。

 小さい頃から、学校で原爆について学び、戦争と向き合うのはつらいと感じていた。当時を知らない世代の自分が扱っていいテーマなのかといった葛藤もあった。戦争孤児に関連する本などを読み、過酷な人生について知る中で、「本当に忘れていいのか」という思いが芽生えた。当事者の証言を聞き、オリジナルの脚本を完成させた。

 作中では、子どもたちがあらゆる手段で戦後の混乱を生き抜く様子のほか、軍国主義を推進する教師だった女性の目線からみた戦後も描かれ、誰もが戦争の影響なしには生きられなかった時代を印象づける。

 戦争孤児に詳しく、脚本に協力した浅井春夫・立教大名誉教授は「戦争が始まれば、個人の自由や選択といった人としての尊厳が奪われるのが現実だ。そうした人間が人間でなくなる側面がリアルに描かれることで、戦争の実態を知ることができる」と指摘する。

 西川監督は「体験者は高齢化し、いずれゼロになってしまうが、作品を通じて戦争の歴史が共有されていけば、思いは引き継がれる。映画を通じ、子どもや親の世代が関心を持つきっかけになれば」と話している。

 映画には、琴子役の小八重葵美さんのほか、二階堂ふみさんや竹野内豊さん、役所広司さんらが出演。10月16日から、東京や大阪など全国で上映される。

「終戦からが本当の闘いだった」

 映画「わたしの知らない子どもたち」の制作にあたり、戦争孤児の当事者も証言などで協力した。

 吉田由美子さん(85)(茨城県鹿嶋市)は、1945年3月の東京大空襲で両親と生後3か月の妹を失った。

 当時、吉田さんは3歳で、疎開準備のため、近くにある母親の実家に預けられていて無事だった。幼いながらに「夜なのに空が明るい」と思ったことを覚えている。

 6歳で新潟県の親戚宅に引き取られると、毎日掃除や洗い物を言いつけられ、労働力として扱われた。家事をして過ごす中、親戚から「お前も親と一緒に死んでくれればよかったのに」との言葉を浴びせられた。

 この一言で初めて、いつかは迎えに来てくれると信じていた両親が、亡くなっていたことを悟った。両親の声も顔も記憶になく、遺骨の行方もわからない。小学生の頃に親戚からもらった両親の写真が唯一の生きた証しで、今でも大事な宝物だ。

 「戦争は人の命を奪うだけでなく、生き残った人の人生も変えました」。そんな戦争を二度と繰り返してはいけないとの思いで、10年ほど前から、小学校などで講演を続けてきた。

 今回、監督側から声がかかり、制作に向けて監督や子役の子どもたちにも自らの人生を語った。真剣なまなざしに、戦争を知ろうとする熱意を感じたという。

 「終戦となり、孤児になってからが私の本当の闘いだった。映画は、頼る先がない中、必死に生き抜いた当時の子どもたちの声を代弁してくれている」と語る。

 ◆戦争孤児=国が1948年に行った「全国孤児一斉調査」によると、アメリカの統治下にあった沖縄県を除き、孤児は約12万3500人に上る。帰る先を失って駅や路上で暮らした「浮浪児」は調査の対象には含まれておらず、実際の孤児の数はさらに多かったとみられる。