横浜に入港した事件当時のバイカル号(新潮社1976年8月撮影)

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変わり果てた姿で北海道の沿岸に

 五木寛之の小説『青年は荒野をめざす』(1967年)で、ジャズミュージシャンを志す主人公・北淳一郎は横浜から船に乗り込んだ。1961年から実在したナホトカ航路、それを行く旅客船バイカル号である。運営はソ連の国営企業。同国の崩壊で航路が廃止されるまで、日本から多くの若者がこの航路でソ連を目指した。

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 東京外語大ロシア語学科で学ぶ女性Aさん(21=当時)もそんな若者の1人だった。1976年7月27日、ロシア語研修旅行団に参加したAさんはバイカル号に乗船。だが8月3日、変わり果てた姿となって北海道の沿岸に浮かんでいた。子供の頃に罹患した小児麻痺で右手は不自由だったが、ロシア語を使う仕事で身を立てようと熱心に学んでいた努力家だった。

横浜に入港した事件当時のバイカル号(新潮社1976年8月撮影)

 船内でAさんと親しくしていた日本人女性は、当時の「週刊新潮」にこう語っている。

「出港して間もなく、2人でバーに行きました。バーといってもコーヒーショップと同じようなものです。午後も二度ほど出かけて、コーヒーを飲んだり、ジュースを飲んだりしました」(1976年10月28日号)

 ロシア人の船員も利用するこのバーはロシア語の勉強に適していたという。Aさんは積極的に話しかけ、彼らの絵を描くなどしていた。死後に見つかった手帳にはこれらのスケッチと、ロシア人7名の名前が書かれていたが、後にAさん殺害犯と“ソ連当局が通知した”ビソーコス四等航海士の名前はない。

一見するときまじめな感じの男

 研修旅行団は総勢20数名。その中でビソーコスを知っていたのはAさん以外に同級生のBくんだけだった。Bくんがビソーコスを認識したのは出航の翌日、28日夕方のこと。

「7時ごろバーに行くと、入り口の航海図の前にソ連の船員とAさんがいて、航路図を見ながら話していました。“イーゴリーに紹介された”と、Aさんが(ビソーコスを)紹介してくれました」(1976年10月28日号)

 イーゴリーとは同船の機関長。Aさんとは以前、Aさんが所属するロシア語劇サークルの船内公演を介して知り合っていた。

 そして、Bくんが見たビソーコスは一見するときまじめな感じ。灰色の髪をきちんと横に分け、背は170センチ足らずだが、腕は太く、手は大きく、体格は良かった。落ち着いた声で、静かに話す。ビソーコスとBくんの会話を横で聞きながら、Aさんはメモをとったりしていた。

 ほかの日本人も寄って来て、ビソーコスは30分ほどバイカル号の航路を説明し、午後7時40分に「用がある」と船の下層へおりていった。バーの入り口のそばにある階段は船底の船員室につながっている。乗客は原則としてこの居住区に立ち入れない。また、“遺体を海に投棄できる唯一の場所”とみられていた船の最後尾にあるメインデッキは、この居住区からしか出られない。

消えた200米ドル

 ビソーコスが去ると、日本人たちは解散し、Aさんは自室に戻った。4人部屋で同室だった女性の話。

「8時5分か10分前に、食事に行こうと私が誘ったんです。4人とも部屋にいて、彼女はベッドで何かゴソゴソしていたので、てっきり着替えてるんだなと思ったんですが、あとで聞くと、それまでと同じ服を着たままだったそうです。で、彼女はどこかをまわるから食事にはちょっと遅れますといって、先に部屋を出たんです」(1976年10月28日号)

 一方、バーの入り口に留まっていたBくんのもとに、ビソーコスが戻って来た。次いでAさんも姿を見せた。ビソーコスはAさんだけをバーのゲームに誘ったが、Aさんから誘われる形でBくんも参加。Bくんが2人を残してバーを離れたときが、Aさんが目撃された最後の瞬間である。

 Aさんは夕食に現れなかった。遺体となって漂流し、北海道の沖合で発見されたのは8月3日のこと。頭部の8カ所に鈍器で殴られたような傷跡と、右前頭部に頭蓋骨亀裂骨折があった。失神状態のまま海に投げ込まれたようで、直接の死因は水死だった。

 彼女のトランクからは約6万円の日本円が見つかったが、200米ドルは消えていた。当時のソ連で米ドルはきわめて貴重。ドルショップで使え、ヤミ両替なら公式レートの数倍になるといわれていた。ソ連当局が研修旅行団の団員たちに事情を聴いた時も、最初に出た質問は「Aさんは米ドルを持っていたか」だったという証言もあった。

帰らないAさんと捜査の壁

 29日午前2時頃、帰ってこないAさんを探していたBくんは、バーで西洋人女性と酒を飲むビソーコスを見かけた。「Aさんを知らないか」とたずねると、「あのあとすぐに別れた」と落ち着いた表情で答えたという。

 バイカル号がナホトカ港に入港した29日午後、研修旅行団の団長はビソーコスとの面談を頼んだが、同船の船長はこれを拒否。だが、折り返して再び横浜に入港した8月2日、船内にビソーコスの姿はなかった。

 船長は横浜海上保安部の係官に乗船を許し、ビソーコスの居室の写真撮影にも応じた。記者会見でも「ビソーコスには十分なアリバイがある」と疑惑を否定したが、8日、ソ連当局が在ナホトカ日本総領事館にビソーコスの拘留を通知。次に横浜に入港する9日には、神奈川県警が任意の船内捜査を行うことになった。

 ところが「すべては公海上の事件」とするバイカル号の面々は、さらに高姿勢になっていた。午後2時50分、横浜・水上署の刑事課長が“沖乗り”(桟橋に着く前に乗船すること)しての鑑識活動を申し入れるが、船長は「本国からの訓令がない」と拒絶。桟橋に着いた午後4時、捜査員2名が船内に入ったが、周辺デッキより内部には入れてもらえず、写真撮影も断られた。

 船長以下3名の幹部船員が「短時間」という条件で事情聴取に応じたのは午後6時を過ぎてから。たったの10分間で、事件当夜の当直航海士は現れずじまいだった。この日、デッキに顔をのぞかせる一般船員もいたが、「ビソーコスはどうした」と問いかけても、「どこのビソーコスのことだ」とニヤニヤするばかりだったという。

精神科病院に送られたという通知

 ソ連外務省は8月14日、在ソ日本大使館にビソーコスの起訴を通知。9月17日には運営企業の総裁が遺族に対して「補償の用意がある」と発言したが、それ以降は音沙汰が途絶えた。

 事態が動いたのは事件から約11カ月後、1977年6月のこと。日本大使館が受けた通告によると、モスクワ市裁判所はビソーコスが精神混乱状態でAさんを殺害し、遺体を船外に投棄したことを断定した。だが、現在のビソーコスは「責任能力を欠く」ため、矯正治療のため精神科病院に送られたという。刑事処分や遺族への補償には触れておらず、いささか強引な幕引きであることは明らかだった。

 日本政府は口上書で裁判の詳細を求めたが、当時は冷戦のさなか。日ソ間の軋轢は深く、遺族の要望でもあったこの依頼に応える動きはなかった。一方で、ロッキード事件など大事件が相次いたこともあり、Aさんの件はメディアからも消えていく。「見舞金1000万円」と「週刊新潮」が報じたのはさらに9カ月後、1978年3月のことだった。

〈漁業交渉や北方領土問題でのソ連の態度を比べるにつけ、さすが社会主義国、“人命”だけは大事になさる、と思ったのだが……。はじめに示した金額はたった400万円。4、5000万円の訴訟も辞さずという遺族に拒否されて、次に示したのがこの1000万円という額〉(1978年3月16日号)

 ナホトカ航路はその後、1986年10月に乗客の亡命騒ぎでメディアに再登場。そして1991年12月のソ連崩壊を受け、1992年に航路廃止となった。Aさん事件の真実は現在も謎に包まれている。

デイリー新潮編集部