大破した機体の外に「放り出された乗客の死体が散乱」…伝説の「UA232便不時着事故」で生存者が見た「戦場さながらの光景」
火だるまの状態で大破しながら回転
第1回【機体が地上に激突、火だるまで大破しながら回転…半数以上が助かり“奇跡”と呼ばれた「UA232便不時着事故」 緊張緩和のため上映された“喜劇映画”】を読む
1989年7月19日、米国アイオワ州スー・シティのスー・ゲートウェイ空港で、不時着機が大破し炎上する大事故が発生した。火だるまの状態で大破しながら滑走路を転がる様子は、いまも事故系ドキュメンタリー番組などで放送されることがある。
この壮絶な事故を起こしたのは米ユナイテッド航空232便のDC-10型機。乗客285人、乗員11人を乗せた状態で第2エンジンが爆発し、制御困難の状態に陥った。そして至った不時着事故だが、死者は112人と半分以下に留まったことで、「スー・シティの奇跡」とも呼ばれている。

その時、機内の乗客たちは何を思い、どう行動していたのか。当時の「週刊新潮」が掲載した生存者たちの証言、第2回では不時着時の激しすぎる衝撃、必死の脱出、トウモロコシ畑に広がっていた悲惨な光景を伝える。
(全2回の第2回:以下、「週刊新潮」1989年8月3日号掲載記事を再編集しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時のものです)
***
危機を前にした乗客たちの祈り
チャールズ・マーツ氏(58)は、「これはよほどうまく着陸しないと、みんな死んでしまう」と思っていた。
「私は、心の中で妻に“さようなら”と言いました。正直言って、“もうダメだ”と思いました。同時に、怒りも込みあげてきた。自分でも飛行機を操縦できるのに“なぜ、他の乗客と一緒に大きなアルミの缶(機体のこと)の中に、いなきゃいけないんだ”と。もし、私が操縦席にいたら、少なくとも自分なりにコントロールしてみることができるのに、“なぜ客席にいるのだ”と心臓はドックン、ドックン、脈を打っていました。1分間に200回くらい打っていたんじゃないでしょうか」
デビー・マッケルビーさんは「もし死ぬのなら子供と一緒に」と祈り、妻が出産を2カ月後に控えていたロン・メイ氏は「自分の赤ちゃんを見る機会がありますように」と願った。
2人の子供の手を握って、テリー・ハードマン氏は「オー・マイ・ゴッド。罪をお許し下さい」とつぶやき、「もしかしたら死ぬのかもしれない」と思ったメル・マクドネルさんは、エミリー・ディキンソンの詩を暗誦し始めた。
遺書を書いたのは、弁護士のジェリー・シェメル氏(29)で、「自分の人生を振り返りながら、無事を祈った」という文面を社用の紙に書き留め、あわせて半年前に生命保険に入ったことを妻あてに記し、その遺書をカバンの中に入れた。
気づいたら逆さ吊りになっていた
墜落時の衝撃は、すさまじいものだった。ベトナム帰りのエングラー氏でさえ、「その瞬間、思わずお祈りの言葉が口をついてしまった」ほどで、
「衝撃は予想していたより遥かに強かった。次の瞬間、機体がひっくり返って転がり始めたんだ。うんと凄いジェットコースターみたいだった。私は失神しなかったがね」
機体は右翼の先端を引っかけるようにして地面に激突。機体は回転して、大きく3つに砕け、上下逆さまの状態で止まった。エコノミークラスの9列から21列あたりまでには生存者が多く、30列以降やファーストクラスは、ほとんど全滅と言ってもよかった。
20列目に座っていたローディ氏(前出)は、
「着陸の衝撃で、眼鏡は吹っ飛び、どこかに行ってしまいました。機体が静止して、気づいたら逆さ吊りになっていたんです。機内には煙がたちこめていて、何も見えないと言ってもいいような状態でしたが、“助かったんだ”とホッとする気持ちで一杯になりました。
シートベルトをはずすと、客室乗務員が、“後ろは火が出ているから危険です”と叫ぶ声が聞こえる。前の方に向かいながら、私のように大したケガのなかった者は、下敷きになっている人やケガをしている人を助け出したりしました。想像できないことかもしれませんが、みんながそれぞれ助け合い、とても統制が取れていたんです」
トウモロコシ畑に死体が散乱
高校で数学とコンピューターを教えているジェイムズ・カール氏の座席は11列目だった。
「どうも、機体は8列目と9列目の間で分断されていたようなんです。“しめた”と思いましたよ。2、3列前に脱出口がポッカリ開いているんですから」
マーツ氏(前出)の座席は27列目とあって、脱出は容易ではなかった。マーツ氏も、やはり、座席から宙吊りという格好だったが、
「シートベルトをはずして下に降り立つと、周囲には煙がたち込めていて、人の叫び声が聞こえてくるんです。窓を叩き割って、そこから逃げようと考えましたが、足で蹴っても割れない。このままでは、煙で窒息してしまう。後ろ側を振り返ると、炎が出ている開口部が見えた。火が燃えているなら酸素があるということだ。ちょっとくらい火傷するかもしれないが助かるんじゃないか、そう思って一気に開口部を走り抜けたんです」
手にカスリ傷を負っただけでトウモロコシ畑に出られたが、そこは「正に戦場さながらの光景だった」という。
「ちぎれた手足、曲がった腕、胃が飛び出した遺体、顔のえぐられた死体、足が2本ともなくなっている女性、頭を抱えたまま動かなくなっている男性、そして、血、血……。機体が割れて放り出された乗客の死体が散乱していたのです」
「どっかへ消えてしまった」1歳の娘
生と死――。こうした飛行機事故には、ドラマがつきものである。運が良かった例もあればその逆も……。
ローリー・マイクルソンさんは、夫と息子2人、それに1歳になる女の子と232便に乗り込んでいた。緊急着陸にあたっての彼女の心配は、「この1歳の娘を離さずにいられるか」ということだった。不幸にも不安は的中し、墜落の衝撃でローリーさんは気絶してしまう。
機外に脱出する時、夫が尋ねた。「赤ちゃんを抱いているか?」。彼女は泣きながら答えた。「どっかへ消えてしまったの」。その瞬間、夫は機内に引き返そうとしたが、煙と耐え難い熱さで、もはや機内に戻るのは不可能だった。
茫然とたたずむ夫妻の前に、1人の婦人が現れる。婦人は、白と青のフリルの衣を着ていた赤ん坊――「どっかへ消えてしまった」1歳の娘を抱いていたのである。機内で泣いている赤ん坊を助け出し、この夫人に託したのは、遺書を書いていた弁護士のシェメル氏だった。
このような“奇跡”が起こる一方で、不運な巡り合わせで事故機に乗り込んだ人たちもいる。パーマー・レイク市のポール・オリバー市長(39)もそのひとり。予定していた便が機体故障のため、キャンセルとなってしまい、やむなく乗った次の便が232便だった。
***
命をかけて兄弟を守った母
2019年7月、生存者たちはコロラド州ゴールデンに集まった。場所は当時の客室乗務員で、その後もユナイテッド航空に勤務していたスーザン・ホワイト氏の自宅。元市長となっていたポール・オリバー氏もそこに招かれ、事故後はスー・シティの病院に4週間ほど入院していたことを明かした。
事故の直後、州兵に救出される姿の写真で注目された当時3歳のスペンサー・ベイリーくんは、ジャーナリスト兼作家として活躍している。2025年のインタビューでは、同乗していた母が命をかけて守ったおかげで、スペンサーさんと兄が助かった事実を明かした。母は兄弟に安全姿勢を取らせ、上から守るように抱きしめていたという。
米国では現在も、生存者の現状などが断続的に報じられている。追悼会などで互いを支え合う姿からは、彼らもまた、痛ましい事故の記憶や“なぜ自分が生き残ったのか”という答えのない問いを抱えて生きている現実がうかがえる。
「傾く方向は常に右なんですよ」――。第1回【機体が地上に激突、火だるまで大破しながら回転…半数以上が助かり“奇跡”と呼ばれた「UA232便不時着事故」 緊張緩和のため上映された“喜劇映画”】では、異変が発生した当初の機内の様子を伝えている。
デイリー新潮編集部
