スズキナオ バンジージャンプをするつもりで家を出る
今日までやらずに生きてきた。最終回を迎えるにあたって、「最後ぐらいはやっぱり派手に、バンジージャンプでもやってみたらどうか」と思った。「大阪 バンジージャンプ」と検索してみる。自分の頭のなかで答えを保留にしたまま、数日が過ぎた。そして「今日行かないと締め切りに間に合わない」という日を迎えたのだった。
いつもだったら缶チューハイ片手に歩いているような近所を、私は高い場所から飛ぶために歩いているのだ
この連載を始める前、今までやらずにいたことを体験してそれを文章にするとして、何をするのが面白いだろうかと、色々なイメージを思い浮かべた。イルカと一緒に泳いでみるとか、ボルダリングのジムに入会してみるとか、エステサロンに行ってみるとか、そういう、普段の自分の生活から遠く離れて見える経験をしてみるのがいいのではないかと。
しかし実際に書き始めてみると、やっぱり今の自分からあまりに離れたことはする気になれず、いつもの日々の延長にありそうな、だけど私にとっては初めての体験である色々なことを試していくことになった。振り返ってみると、我ながらささやかな試みが多く、これでよかったのだろうかと今さら思いもする。
今回、最終回を迎えるにあたって、「最後ぐらいはやっぱり派手に、バンジージャンプでもやってみたらどうか」と思った。自分のなかで意見が割れていて、「でもな、怖そうだし、嫌だな」と思いもする。友達に相談してみたりもした。友達は「そんな無理してやらなくていいんじゃない? そういう連載でもないんじゃないの」と言ってくれた。たしかに……たとえ、ささやかなことだとしても、47年も生きてきてやっと初めて経験することがある。かえってそういう小さな喜びのほうが、ここで私が書く意味が少しはあるのかもしれない。
でもな……もう少し強く、自分を未知の世界に押しやってもいいんじゃないか。読んでくれている人も、たまにはそういうのを期待しているかもしれない。いや、人のせいにしてはいけない、と、逡巡は続く。
「大阪 バンジージャンプ」と検索してみると、大阪の北部・茨木市にある「グラビテート大阪」という施設が一番目に表示された。2025年5月にオープンした施設だそうで、ダムに架かる日本最長の吊り橋からバンジージャンプができるらしい。1回16000円だという。
ホームページ上の動画を見ているうちに怖くなってくる。高所に対する恐怖は歳を重ねるごとに増してきており、とはいえ、「たまにはジェットコースターぐらい乗ってもいいか」と思える程度なので本当に苦手な方と比べたらそこまでではないのだろうが、やはり気は進まない。
自分の頭のなかで答えを保留にしたまま、数日が過ぎた。そして「今日行かないと締め切りに間に合わない」という日を迎えたのだった。昼前からオンラインの会議などがあり、気づけば13時を過ぎてしまっている。バンジージャンプってこういう時間からいきなりやってもいいものなんだろうか。本当は事前に予約していくのが確実なのだろうけど、平日だったら予約なしでもいけるのではないかと、何も知らないくせに、のん気に考えた。
迷っている時間はもうない。とりあえず、バンジージャンプをするつもりで家を出ることにした。いつもだったら缶チューハイ片手に歩いているような近所を、私は高い場所から飛ぶために歩いているのだ。

阪急電車に乗って、茨木市駅まで向かう。近所の駅から30分ほど。それほど遠くはない。ここまでは、いつもの飲み歩きとあまり変わらないような感じで、自分でもこの小旅行(というほどの距離でもない)がなんなのか、まだ掴み損ねているような気持ちだ。

グラビテート大阪は「ダムパークいばきた」という公園に併設されているらしく、その近くまでは駅前から出るバスに乗って行けるようだ。検索して表示された「茨木山手台七丁目」という停留所まで行くバスを、広いロータリーで探す。Tシャツから出た腕に冷たいものを感じ、手のひらを宙に差し出してみると、ぽつぽつと雨粒が降ってくる。
雨。雨の日ってバンジージャンプをしていいんだろうか。人の命を預かるようなアクティビティだし、そのあたりの条件はかなり厳密かもしれない。少なくとも吊り橋の上を傘をさして歩くのは危険だろうから、それは禁止で、だとするときっと今日は無理だな。そう考えると少しホッとして、それはそれで現場まで行って確かめようと思った。
目的の停留所まで行くバスはそれほど本数がなく、バス停で30分ほど待った。やっと来たバスに乗って、走り出したタイミングで時計を見るともう14時半を過ぎている。空は厚い雲に覆われていて暗いし、本当にやる気があるなら、改めていい気候の日を選んで、もっと早い時間に出かけるべきだ。

バスのなかで少し前に書店で買った兼本浩祐(かねもと・こうすけ)『「わたし」が死ぬということの哲学』という新書を読むことにした。私には難しい部分が多く、身体的な死について書いた第一章と意識の死について書いた第二章を読んだものの、書かれていることをちゃんと理解できている気はしない。それでも読んでいるのが嫌ではないというか、自分がずっと気にしている「死」というものについて深く考えてきた人の言葉に触れているだけで気持ちが落ち着くのかもしれない。

その本の第三章で、アメリカのシェリー・ケーガンという哲学者の死に対する考えについて解説している部分があった。
(引用)ケーガンにとっては、死の価値は、死で失われることが予想される幸せの総量に比例します。「幸せ」というのは肯定的な価値ということになりますが、不幸せも人生にはありますから、獲得されるはずの幸せの総量から被るはずの不幸せの総量を引いたものが、死の価値ということになります。当然ですが、これが大きければ残念な死であり、これがゼロになれば、特に生きていても死んでいても同じ、これが大きくマイナスになれば、死んだ方が得という計算になります。
このケーガンの考えは、本書のなかでは、“本当に徹頭徹尾「アメリカン」な”、即物的な考えとして引き合いに出されており、著者の兼本浩祐さんは、ケーガンの理論に面白さを感じつつも、同時にその限界についても考えていくのだが、途中で私は本を閉じ、この、計算式のように“死の価値”がはじき出されるという考えに驚き、それについてしばらく考えてみることにした。
そうだとしたら私の死の価値はどうなんだろうか。楽しい瞬間もたくさんあるが、うまくいかないことも山ほどある。幸せだなと思うとき、これからも生きていくということが面倒になってしまうときもある。プラスマイナスゼロに近いのではないか。生きていても死んでいても同じ……まあ、そこまででもないか。 簡単に答えが出るはずもないことを考えながら窓の外を眺める。バスはずっと街のなかを走っていて、本当にこの先にバンジージャンプができるような場所が現れるのだろうかと思う。少しだけ山が近くなってきたあたりで、私が降りるべき停留所の名がアナウンスされた。私の他にも降りる人がいるようで、停車ボタンはその誰かが押した。
遥か下のほうにダムの水面が見えるのがわかると、膝が震える
新興住宅地という雰囲気の一角を歩き出す。地図アプリで検索すると、たしかにここから徒歩15分ほどで目的地に着くようなのだが、やはりまだ信じられない。こんな住宅地から歩いて行ける場所に、バンジージャンプが。

半信半疑でとにかくナビ頼りに歩く。広い道に出たが、私の他に歩いている人は見当たらない。ふと足元のカラフルなマンホールを見たら、吊り橋とバンジージャンプをしている人の絵が描かれていた。

「DAMPARK IBAKITA」という看板があり、案内所の建物が見えてきた。そこはあくまで公園の案内所であり、バンジージャンプの受け付けはその奥にあるらしい。「吊り橋チケット」「バンジー」「飲食店」と、3つの単語が並んだ案内板が置かれている。

矢印の示すほうへ歩きながら、そろそろ選択を迫られるかもしれないと思って鼓動が速くなってきた。私は実際、どうしたいんだろうか。事前に調べてあったグラビテート大阪のゲートが前方に見えてきた。

ゲートの脇のチケット売り場らしき場所にスタッフの方が立っているのが見える。ということは、営業しているのだろう。さっきまでぽつぽつと降っていた雨も、幸い止んでいた。これほどギリギリになってもまだ、バンジージャンプをするのか、しないのか、まだ決まっていない。それなのに自分は歩みを止めず、チケット売り場のほうに歩いている。
スタッフの方に「こんにちは」と言われ、「こんにちは」と返す。「吊り橋を渡られますか?」と聞かれたので「はい!」と大きな声で返事をした。この施設では、通行料を支払えば、ただ吊り橋を渡るということもできる。そうしよう。まずは吊り橋を渡って、それでバンジージャンプをする気になれば、すればいい。そのように思うと、少しホッとした。
ゲートをくぐるとカフェがあり、そこで食事もできるようだった。朝からほとんど何も食べていなかったので、まずはここで腹ごしらえをしておこう。もし本当にバンジージャンプをするつもりなら、食事はそのあとのほうがいいのかもしれなかった。この時点で私はすでに諦めていたのかもしれない。
大きなチキンの乗った「安威川(あいがわ)ダムカレー」というのを注文して食べた。「ダムカレーカード」というトレーディングカードがついてきて、うれしい。

サラダやポテトもワンプレートに収められており、苦しいほどに満腹になった。私の近くのテーブルに若い男女が座ってソフトクリームを食べていて、ふたりは一緒にスマートフォンの画面を覗き込んでいる。そこから「スリー、トゥー、ワン!」とカウントダウンする声が小さく聞こえてきて、ふたりが「あははは! 今の瞬間、すごい」と笑い合っている。
たぶんそれは、さっきふたりか、あるいはどちらかひとりがバンジージャンプをして、スタッフの方に撮影してもらった動画なのだろう。画面にどんな映像が映し出されているのか、私の位置からはもちろん見えない。「あの、すみません。どんな映像なのかちょっと拝見してもいいでしょうか」と、いきなり声をかける自分を想像して、「怖いよな、そんなやつ」と思って笑いそうになった。
カフェを出ると、目の前にあるのが吊り橋のようだった。吊り橋を支える「メインタワー」と呼ばれるらしい部分の脇に階段があって、ここに登っていけるアクティビティも体験できるらしかった。見上げただけで怖い。

いよいよ吊り橋を渡ってみることにする。全長が420メートルあり、これは歩行者専用つり橋としては最長のものらしい。
最初はなるほどこんな感じなのか、と気軽に歩き始めたが、それは足下がまだ陸に近かったからで、しばらく歩みを進めると、途端に恐怖が襲ってきた。揺れるし、網目状になった足下、遥か下のほうにダムの水面が見えるのがわかると、膝が震える。

怯えつつ、とはいえもう向こう側まで行くしかない気になって少しずつ歩いていく私のうしろから、バンジージャンプのスタッフらしき人が颯爽とした足取りでやってきた。「こんにちは」と声をかけてくれたので、「これって、いきなりバンジージャンプって、できたりするものなんでしょうか」と聞いてみる。「予約する方が多いですけど、空きがあれば当日でもできますよ」とのこと。「割とね、この吊り橋を渡ってみて『こんなもんやったらいけるやろ』っていう感じで当日やる方も多いですよ」と言われ、みんなそんな気軽にバンジージャンプのやる・やらないを決めるのかと不思議に思う。そういう自分もこうして様子を一旦は見に来ていることになるわけで、ただ、私の場合は吊り橋を渡ってみて、「これは無理!」という気持ちがいよいよ明確になった。
私が私の意識だと思っているものは、固定しておらず、いつも変わり続けている
「ちょうどこれから飛ぶ方がいますよ。あの辺りから見えます」と、橋の中腹あたりを指差した。見るのも怖いような、でも見てみたい気持ちもあった。さっきよりスピードを上げて、スタッフの方の背中を追う。

「ここの真下から飛ぶんですよ」と教えてもらって足元を見ると、私の足の網目の下にスペースがあって、そこに階段で降りられるようになっている。バンジージャンプをする人は、そのスペースの端から、下に向かって飛ぶらしい。

今から飛ぶらしい人の姿がそこに現れ、私はそれを見ているだけで怖い。しかし、今から飛ぶ人とスタッフの方々は明るく気さくに話していて、「今日が初めてなんですよね? 正面から飛ぶのと、うしろに倒れるように飛ぶのと、どっちにしますか? 初心者の方がうしろ向きが多いですけど」「あ、じゃあうしろで!」などと会話している。スタッフの方が真上に立っている私を指差して「ほら、上からも見ている人がいますよ!」と今から飛ぶ人に声をかけた。
その人が私を見上げたので、私はとっさに「あ、応援してます」と言って、もう少しふさわしい言葉があったような気もした。
「じゃあカウントダウンしますね! はい。スリー、トゥー、ワン!」と声がかかり、本当に下の人がうしろに倒れ、あっという間に小さくなっていった。「うおおおおー!」と叫ぶ声が響いてくる。

バンジージャンプを無事に終えた人はすぐに橋の上まで引き上げられ、「ナイスバンジーでしたよー!」「やばかったー!」などと会話している。今日、兄妹でここに来て、そのお兄さんが飛ぶのを妹さんが見守ったらしい。「兄妹なんだ! 仲良いなー! お兄さんの初バンジー、かっこよかったな!」とスタッフの方が言うのが聞こえた。
あそこに自分がいたこともあり得たのだろうか……。いやいやいや、無理無理。吊り橋を歩いているだけでこんなに怖いのに。なんとか向こう岸まで渡り終えて、陸に足がついている安心感に全身が満たされた。
そっち側にはスタッフの方がひとり立っていて、「よかったらひと休みしていってください」とベンチを勧めてくれた。

その人と少しだけ話をした。今日も朝から何人もバンジージャンプをしに来て、なかには宮城県から来た人もいた。ここで飛んだ人の多くは、岐阜県のほうにある、倍の高さのある橋に行く。ここでは、最高齢で82歳の方が飛んだことがある。ぜひ今度は飛びに来てくださいと、そんなふうに言っていた。
帰りの吊り橋は、とにかく下を見ないで、真っすぐ、たどり着く先だけを見ることにしたら、だいぶ落ち着いて歩くことができた。「シラートだ、シラート」と、先日見た『シラート』という映画の、主人公が危険な場所を歩き抜けていくシーンを思い浮かべながら進む。
無事に渡りきり、売店でノンアルコールビールを買ってダムを眺めた。バンジージャンプをする前に飲酒をするのはよくない気がして今日は酒を控えていた。飛ぶことを諦めた今、本当はもう酒を飲んだっていいのだが、今日はもうこのままノンアルコールデーにすることにした。

駅まで送迎してくれる有料のシャトルバスを待っていると、さっきバンジージャンプを飛んでいた兄妹が近くにやってきた。「今日は本当に平和な日やった」と、妹さんが言ったのが聞こえた。私にとっては宙吊り状態のふわふわした気持ちが続いた一日が、ふたりにとっては楽しい、いい一日だった。さっきバンジージャンプを飛んだのに、まったくそうは見えないほど、ふたりはゆっくり、落ち着いた雰囲気で駐車場へ歩いて行った。
やってきたバスに乗って30分もすると、JR茨木駅の駅前に着いていた。仕事や学校の帰りの人々だろうか、多くの人が駅舎へ向かって歩いていく。茨木駅の駅舎は地上2階部分にあって、駅前のロータリーから階段を上ると、そこにつながる通路に出る。

下の道路を大型トラックやバスが通るからか、2階部分の通路は時おり細かく揺れるのだが、それをあまり怖がらずにいられるのは、先ほどの吊り橋を経験したからだろうか。駅に向かって歩いていく人々はそんなことは気にせず黙々と進むように見える。とはいえ、バンジージャンプほどわかりやすい形ではないにしても、それぞれに日常から跳躍するふいの瞬間があったりするのだろう。
さっきまで読んでいた本のなかに、私たちは自分の意識が昨日も今日も連続していると考えがちだけど、連続しているのは身体のほうで(その身体のなかでも刻々と細胞が入れ替わったりしているのだが)、脳がその都度、バラバラの記憶のかけらを編集して意識を構成しているというような考え方が紹介されていた。
なかなかすぐには理解しにくい考えだが、ある経験をきっかけにして急に過去の記憶が別の意味を持って見えたりするように、私が私の意識だと思っているものは、固定しておらず、いつも変わり続けているということか。
私はいつも時間の先端にいて、脳が最新の編集で、今の私の意識を作っている。そう思うと少し痛快だった。常に今が最新の私で、過去はどんどん意味合いを変えていく。だとしたら、初めての経験も過去の経験も違いがないというか、全部がいつだって新しいのかもしれない。「じゃあ、ずっと引きずっている辛い記憶はどうなるんだろう」とか、また色々と考えてみながら、茨木駅へゆっくり近づいていく。この道を以前にも歩いたことがあるような気がしたが、それがいつだったか思い出せない。でも少なくとも、こんなことを考えながらここを歩くのは、初めてのことだった。
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スズキナオ『今日までやらずに生きてきた』は今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。加筆修正に書き下ろしを加え、2026年11月書籍化予定です。
Credit:
文・写真=スズキナオ

