『幻の光』では、能登・輪島市民の台所として親しまれた「輪島朝市」の様子が映し出されている。道の両側に並ぶ店で活きのいい魚、貝、海藻や季節の野菜などが販売されている。© 1995 TV MAN UNION

芥川賞作家・宮本輝の同名小説が原作、『万引き家族』の是枝裕和監督の長編映画デビュー作となった1995年の映画『幻の光』が「能登半島地震 輪島支援 特別上映」と題してBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にてリバイバル上映中。8月2日より公開され、動員も好調とのことで、今後も全国で順次公開が予定されている。

石川県輪島市を舞台に「生と死」「喪失と再生」というテーマを、陰影深い映像に昇華させ、ベネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞(撮影に対して)を受賞した同作。

かつて渋谷で営業していたミニシアター「シネ・アミューズ」のこけら落とし作品として上映され、連日満席を記録する話題作となった。同作の合津直枝プロデューサーは「輪島市の協力がなければ、映画は完成していなかった」と語っている。

公開から29年後に能登半島地震が起きる

それから29年後の2024年元日。能登半島地震で輪島市は甚大な被害を受ける。そこで合津プロデューサーは「今こそ映画を通して輪島市に恩返しを」という思いから、デジタルリマスター版で新たに再生した同作のリバイバル上映を企画。収益から諸経費を除いた全額をロケ地となった輪島市に寄付し、1日も早い復旧復興を祈念することを目的としている。

そこで今回は、本作の企画を担当したプロデューサーの合津直枝氏と、本作の撮影を担当した中堀正夫氏に当時の撮影の話、輪島への思いを聞いた。

――合津さんは「輪島がなければ『幻の光』は生まれなかった」と言っていますが。

合津:ちょうどテレビに限界を感じることがあり、テレビではできないものをつくりたいと思うようになった時に宮本輝さんの短編小説『幻の光』の映画化を企画しました。

宮本さんからは1000円という破格の値段で映画化権をいただくことができました。テレビドラマでは通らないような企画を映画でやってみようという考えだったのですが、始めてみるとそんな簡単じゃなかった(笑)。

――企画を成立させるまでに3年以上の月日が経ったそうですが。

合津:やはり地味な話でしたから。お金も集まらない、配給のメドもたたないまま、3年という月日が経ってしまいました。

ある会社の方からは「こんな暗い映画を誰が観るんだ」と台本を投げ返されたこともありました。そんなこともあり、わたしはもう映画づくりを諦めるつもりで、(あらためて主人公の足跡をたどるべく)輪島に旅をしたんです。


プロデューサーの合津直枝氏。1998年に映画『落下する夕方』で監督デビュー。その後もプロデューサー、ディレクター、脚本家、映画監督、舞台演出など幅広いジャンルで活躍している。 (写真:筆者撮影)

その旅の途中でふと立ち寄った輪島市観光協会で、本田さんという事務局長の方と出会いました。そこで現状をお話ししたところ、「お金(製作費)は出せないけど、こちらでやれることは応援します」とおっしゃっていただきました。

それまで誰も応援してくれなかったのに、突然応援するという方が現れたのが、本当に驚きで。そこから『幻の光』の企画ははじまったんです。そうやって諦めようと思って出た旅で本田さんと巡り合うというのも、映画の神様がいたのねっていう感じがしました。

輪島の朝市の風景も残っている

――地震による火事で、輪島朝市周辺の風景も変わってしまいましたが、そんな輪島朝市の風景がきちんと映し出されているところも、この映画を観る意味があると思います。撮影をした時の朝市はどんな感じだったんですか?

中堀:もうそのままですね。こちらからは何も言わない。お店を出した、そのままで撮っていました。


撮影監督の中堀正夫氏。『無常』『帝都物語』『悪徳の栄え』『屋根裏の散歩者』『姑獲鳥の夏』など実相寺昭雄監督との名コンビで広く知られている。(写真:筆者撮影)

合津:輪島の皆さんは本当に優しかったです。事務局長の本田さんには本当にお世話になりまして。旅館組合や朝市組合、商工会議所の方たちも「本田さんが言うなら」ということで、快く協力してくださいました。


「輪島朝市」は能登半島地震で発生した火災によって近隣の住宅がおよそ200棟以上、5万平方メートルにわたって焼失した。現在も復旧作業が進められているが、完全復旧まではまだ時間がかかりそうだ。(写真:筆者撮影)

――『幻の光』という作品は、ベネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞(撮影賞)を受賞した作品ということで。中堀さんにとっても思い出の深い作品なのでは?

中堀:撮る前はドキドキでしたよ(笑)。

合津:ベネチアのコンペには世界中から2000本ぐらいエントリーがあるそうで。当時は是枝(裕和)くんも新人、江角さんも新人、プロデューサーのわたしも新人。もちろん中堀さんは巨匠ですけど、とはいえそもそもは国内では誰も気にしてくれない作品でしたから。

そんな中で世界の13本に選ばれるわけないなと思っていました。でもベネチアのコンペに選ばれて、賞をとったことで日本での風向きは完全に変わりましたね。

――中堀さんといえば、『帝都物語』をはじめとする実相寺昭雄監督の映画の撮影を数多く手掛けてきたベテランですが、中堀さんに撮影を頼もうとした理由とは?

合津:やはりこちら側が新人なので、実質的に動いてくださる方はプロ中のプロにお願いしなければ成立しないと思ったからです。現場ではある意味、キャメラマンがリーダーですから、中堀さんにお願いしたというわけです。

この映画は輪島の方がいなければ完成しなかったですし、こういうプロ中のプロの方のサポートがなかったら完成しなかった。だから今回、こういう形で『幻の光』を上映するというのも、輪島の皆さんに恩返しと、新人を支えてくれたスタッフの面々に感謝したいという思いもありました。

当初は尼崎で撮影を考えていた

――前半はどちらで撮影したんですか?

合津:いちおう(原作の舞台である)尼崎にロケハンに行ったんですけど、その時は高速ができていて。宮本輝さんが描いた情景とまったく違っていたんで、中堀さんのアドバイスもあって(東京の)三河島で撮影しようということに。

中堀:自分は日暮里で生まれたんですが、三河島とかには、尼崎と同じような感じに見える場所があるんですよ。撮影はちょうど(1995年の)阪神・淡路大震災のころでしたね。

合津:クランクインが1月末予定で、1月17日が阪神・淡路大震災ですから。もしロケ地を尼崎にしていたら、映画は完成していなかったかもしれません。

――1995年の阪神・淡路大震災の年に撮影された映画が、能登支援のためにおよそ30年ぶりに上映されるというのも不思議なめぐり合わせですね。

合津:宮本さんの伊丹のおうちも阪神・淡路大震災で半壊していますから。

中堀:宮本さんはエキストラ出演もされています。その時に「なんかいい映画になるんじゃないか、という漠然とした予感がありました」とおっしゃってくださっていましたね。

――なんといっても主人公が嫁いだ先の漁港、鵜入の景色もすばらしいなと思いますが。

合津:珠洲のほうからずっと南下して探してまわったんです。でも鵜入がちょうど撮影にも手頃ないい形で。見つけた時は、わたしたちを待っててくれたのねと思いました。本当にきれいな場所だなと思いました。


『幻の光』より。映画では、能登の漁港・鵜入の風景が美しく映し出されている。 © 1995 TV MAN UNION


現在の鵜入の景色。震災により海底が隆起し、輪島港には船が港に入れなくなっている。護岸の岩には白い隆起跡がついている(写真:筆者撮影)

中堀:やはり能登のああいう景色は広い画面が効いてくるから。鵜入の家は、大工さんが裏の板を全部剥がして新しいのを張って。それを美術スタッフが(経年劣化を見せるために)焼いて、またそれをブラシで擦ってと。

合津:年末返上でやってくれました。

中堀:最初(準備段階)は監督も来ないはずだったんですけど、そこまでやってもらったんだから。監督も、(主演の)江角さんも来て。自分たちがどういうところでやるのか、見たほうがいいよということで。来てもらいましたね。

まるで仕込んだかのように降った雪

――能登の景色が非常にすばらしかったのですが。

中堀:最後の雪のシーンなんかも、突然降ってきたものなんですよ。黒澤(明)組だったら大扇風機を8台ぐらい持って雪を降らせるところでしょうが、われわれにそれはできない。だからあそこは偶然なんです。


『幻の光』の一場面。雪が降る中で映し出される幻想的な葬列のシーン。変わりやすい能登の天気が生み出した奇跡的なショットだ。© 1995 TV MAN UNION

合津:私たちも現場で息をのみました。誰が仕込んだの? 違うよねって。

中堀:こんなもの仕込めるわけない(笑)。その前には、江角さんがバス停でひとりで待ってるシーンを撮っていたんです、どピーカン(晴天)で。

でも、この葬列もどピーカンじゃ話にならないだろうからということで、こっちは後にして。地元のエキストラさんに坂道の上に集まってもらって、撮ったんですよ。

あそこはぶっつけ本番で撮っていたんですけど、途中レンズの前を何かがちらついて。最初はゴミかなと思ったんですけど、それが雪だった。

――ちょっと前には晴れていたんですよね?

中堀:僕は高校のときに金沢にいたことがあるので、能登のこともいろいろと知っているんですけど。あそこは晴れたり、曇ったり、雪が降ったりというのがしょっちゅう起きるところだから。だからこういう偶然も起きるわけなんですよ。

――輪島の方の協力ということもそうですが、この映画には本当にいろんな偶然というか、奇跡が詰まっている映画だったんですね。

中堀:ポスターのスチール写真(藤井保氏)も最後の日に撮っているんですよ。実はこの時、雨が降ってきたので、周囲にビニールを貼って。雨を全部切って、それで撮ったんです。

だからなかなかトーンもよかったですね。すでに照明部が片付けをはじめていたんですが、スチールに音は関係ないですから。そうやってみんな手伝ってましたね。

――地元の方とお酒を飲んだりしたんですか?

中堀:僕は酒は飲めないんですけど、ただそんな暇はなかったですね。朝出て、夜帰って寝るというだけなんで。ただちょうどその頃、僕がカップラーメンのコマーシャルをやっていて。その会社が1週間ごとにカップラーメンをダンボールで民宿に送ってくれて、民宿の人にお湯だけ用意してもらったりもしていましたね。

合津:私の製作費ではカップラーメン代は出せなかったから(笑)。ありがたかったですね。でも(撮影場所の家の改修を引き受けてくれた)大工の坂下久造さんもそうでしたが、現場をのぞくことはなくて。彼は事前に家を改修してくれるだけで、あとはそっとしておいてくれた。それはすごいなと思いますし、ありがたかったですね。

――今回、デジタルリマスターで生まれ変わった『幻の光』はどうですか?

中堀:リマスターした画面を観て、自分でもこんなにきれいだったのかと思うくらいよかったですね。だからここ(取材場所となったBunkamuraル・シネマ 渋谷宮下)のスクリーンで観たんですが、DCP(映画館などでデジタル上映をするためのフォーマット)になったということもありますが、コントラストが見事で。しっかりとしていてよかったですね。

合津:あと音もよかったですよね。

中堀:最後の、ふたりが岩場にやってくるところは引きの画面なので、ワイヤレスマイクで録ってるんですけど、もう亡くなりましたが、録音部の横溝正俊さんが「音はこれでオッケーですから。仮に再撮するとしても、次は絵だけ撮ってくれればそれに合いますから」と。


無印良品、JR、日清食品など大手企業の広告写真を手がけた藤井保氏が撮影したポスター用のスチール写真 © 1995 TV MAN UNION

あそこでは江角さんがすすり泣く声まで聞こえてくるんですから。あれも嵐みたいな状況だったけれども、とてもいい状態で録音されていますよ。

傷ついた主人公が輪島で癒やされる

――輪島を舞台に、そうした奇跡が積み重なってできあがった映画ですから、多くの人に観てもらいたいですね。

合津:わたしも年を重ねて、いろいろな喪失だったり、悲しいことも重ねてきているわけです。『幻の光』でも、傷ついた主人公が、輪島で癒やされて生活していくわけです。それが何だか重なって見えてくるんですよね。

この映画の1カットは長いので。そこが考える間になって、それが29年前よりもっと深く沁みるというか。それは今日、(上映初日に)劇場に来てくれたお客さまもそうおっしゃってくださって。とてもうれしい感想でした。


輪島塗の箸製造元である岩多箸店がチャリティグッズとして制作した「輪島うるし箸2本セット(黒赤・千すじ)」(3000円)を上映劇場で販売。こちらも収益が輪島市に送られる。© 1995 TV MAN UNION

(壬生 智裕 : 映画ライター)