思いがけない言葉を投げられ、傷ついたり動揺したりしたことで気づきにつながり、自分自身がより良い方向へ変化するきっかけになることもあります(写真:metamorworks/PIXTA)

「こうみられたい」「こんなふうにならなければいけない」と、他者を気にして生きづらさを抱える人は多いでしょう。広島にある名門女子校、ノートルダム清心中・高等学校校長の神垣しおりさんもそのひとりでした。

しかし、ある言葉がきっかけで生きづらさが軽減したといいます。その一言について詳しく聞いてみました(神垣さんの著書『逃げられる人になりなさい』から一部抜粋し、お届けします)。

進歩は傷つく言葉から生まれる

言葉には人を励まし、癒す力があります。しかし、ときには言葉が相手の心を傷つける刃物になることもあるものです。日々多くの方と接する身として、何気なく発した言葉が誰かを攻撃する武器にならないよう気をつけなければと自戒する毎日です。

しかし、受け取ったときはとてもショックだった言葉が、その後、自分を変える大事なきっかけになることもあります。

高校3年生のとき、ある友人に「あなたは八方美人ね」といわれました。

言葉とは不思議なもので、それが何十年前のものであったとしても、大きな影響をもたらしたものは鮮明に覚えています。

その友人がどんな意図でいったのかはわかりません。でも、面と向かって突然言われ、動揺しました。また、自分はそんなふうに見えていたのかと傷つきもしました。

今思えば、当時は、人から嫌われたくないという思いが強く、それが行動にも表れて「八方美人」という言葉になったのでしょう。その後、自分の意思をもっと大切にしようと意識するようになりました。

それでもまだ、完全に自分を変えるには時間と経験が必要でした。

「鎧を着ている」と言われて

20代後半、ふたたび私は、核心をついた指摘を受けます。教職員研修の一環として、カウンセリングのワークショップに参加したときのことです。

ロールプレイでクライアント役をしていた私に、講師がこう言いました。

「あなたを見ていると、鎧を着ているみたい。あなたは長い間イミテーションの部分がかなりあったのではないでしょうか」

「イミテーション(にせもの)」という言葉は、まさに図星でした。当時の私は、八方美人と指摘された頃と同じように、人の顔色を伺いながら行動していたのです。ハッとする私に、次の問いが投げかけられました。

「自分と本気で、とことん向き合いましたか」

なにも答えられず、ただ涙があふれ、人前にもかかわらずつきものが落ちたように泣きじゃくったことを覚えています。

当時は、子育てが始まったばかりで慣れないことだらけ。また教員としての経験も浅く、「こうあらねばならない」「こんなふうに見られたい」という思いにがんじがらめになっていました。

その頃の教え子に会うと、「あの頃の先生は、ほんとにすごく遠かった」「昔の先生は、顔がこわばっていて怖かった」と指摘されます。「もう、昔のことは言わないで」と冗談交じりに頼みつつ、申し訳なかったと心の中で謝るのです。

そのときは泣くことしかできませんでしたが、少し時間を置くと、改めて自分という存在を鎧に押し込め、取り繕っていたのだと気づきました。

それから長い時間をかけて、こう思うようになりました。

「きちんとしなければ」「人に貢献したい」とがんばってきたけれど、その前に自分をしっかり見て、いたわることが大事なのではないか。

そして、自分の気持ちをないがしろにせず受け止めながら、他者とつながっていくことが、自分を愛するということではないか。

それから、生徒への対応も少しずつ変わっていきました。

自分の弱さを出してもいい

自分の弱さを出してもいい。教員として生徒と一線を引くのではなく、気を楽にして、お互い人間対人間としてかかわりを持とう。そう思えるようになったのです。

もちろん、さすがに指摘を受けたそのときは落ち込みました。

でもしばらくして、ふと「そうか、私は今そんな状態なんだな」と思ったのです。今の自分を受け入れようと感じた瞬間でした。

そのとき、少し変化が生まれたような気がします。

ただ、そこで止まってはダメなのだということもわかりました。厳しい指摘を受け入れた上で、変化していかなければ進歩はないのだと。

だから少しずつ、人の目を気にして着ていた鎧を脱ぐことを意識しました。そして、自分のやりたいこと、言いたいことはなんだろうと考えながら、行動するようにしたのです。

今も、試行錯誤は続いています。しかし歳を重ねた今、その積み重ねが知らず知らずのうちに、自分を解き放ってきたのだと実感しています。

原動力のひとつとなったのが、若かりし日、痛みとともに受け止めた言葉です。

涙とは、言葉にしたくてもできない思いがあふれて出てくるものなのでしょうか。

少なくとも、私の場合はそうだったかもしれません。カウンセリング研修で人目をはばからず泣いたように、昔からよく泣く子でした。自分の気持ちをうまくいえないぶん、涙がすぐポロポロこぼれてくるのです。

しょっちゅう泣くので親に叱られ、どうしたらいいかわからず、また泣く。そんな子ども時代でした。

今でも思い出すのが、授業参観で泣いてしまった日のことです。小学3、4年生の頃でした。

先生にあてられ、母親にいいところを見せたくて一生懸命答えたのに、それが明らかに期待はずれの答えだったとわかったときです。先生の微妙な表情からそのことを読み取った瞬間、私は席でワッと泣きはじめました。

泣くのは悪くない

涙腺が特別弱いのは大人になっても変わりません。つらいときや苦しいとき、うれしいとき、感動したとき、いまだによく泣きます。

とくに、学校行事で生徒たちや卒業生たちの晴れ姿を見ると、ここまで苦労してがんばってきたのだなと思い、ジワッと涙がにじんでくるのです。涙もろさの克服は、私にとって長年の課題です。


しかし、涙の効用を実感しているのも事実です。

一時期、「涙活」という言葉が流行しましたが、涙を流すことで感情をコントロールしている側面もあるといいます。実際に、悲しいときもひとしきり泣いたら落ち着いて、「悲しむのはこれでおしまい」と思えるものです。

泣くという行為は、自分で感情を抑えられないときの“対症療法”なのかもしれません。しかし、心を癒やし、今を受け入れて進むために、あなどれない力を持っているようです。

大人になると、つい涙を我慢することも多くなりますよね。でも泣くことを許すのも、自分に対する優しさのひとつではないかと、泣き虫の私は感じています。

(神垣 しおり : ノートルダム清心中・高等学校校長 NGOサラーム(パレスチナの女性を支援する会)代表)