選抜大会出場が決まり、喜ぶ大阪桐蔭の選手ら(写真:時事)

今や甲子園の常連校で常勝軍団の呼び声も高い大阪桐蔭。同校が初めて甲子園で全国制覇を果たしたのが1991年の夏、しかもそれは創部4年目での快挙だった。

今回はその大阪桐蔭高校野球部の草創期において、チームづくりから携わり、指導者として日本一に導くため尽力した森岡正晃氏に、著書『日本一チームのつくり方〜なぜ、大阪桐蔭は創部4年で全国制覇ができたのか?〜』の中から、結果を出すチームづくりに欠かせないポイントを解説してもらう。

大阪桐蔭は高校野球を変えるチームになる

一体感がなくバラバラな組織は、どんなに優れた人材が集まっても、大きな成果は得られません。リーダーが大きなビジョンを掲げ、本気で取り組んでも、メンバーがリーダーと同じ方向を向いていなければ、チーム力が高まることはないからです。まさに、「笛吹けども踊らず」です。

私は、新しくできた大阪桐蔭に入学してきてくれた選手たちにプライドを持ってもらうために、いい意味での「特別感」を植え付けていました。彼らに言っていたのは、「きみたちは選ばれた特別な人間であり、大阪桐蔭は高校野球を変えていくチームになるんやぞ」ということ。

チームの中心である萩原誠(後に阪神)、井上大(現・東洋大学野球部監督)ら能力の高い選手を「特別に扱う」という意味ではなく、「大阪桐蔭を選んでくれた、一人ひとりの存在が特別」という意味です。

とにかく、日本一を目指すチームに誇りを持ってほしかったのです。

チームに誇りを持つ。

その大切さを教えてもらったのは、PL学園での経験です。

私が甲子園、そしてその先のプロを目指し入学したPL学園では、日々の練習がきつく、逃げ出したくなることが何度もありました。平日は昼には授業が終わるため、13時過ぎから20時まで練習です。40年以上前の話ですから、理不尽な「説教」もありました。

「生まれ変わったあと、もう一度PL学園に入学するか?」と聞かれたら、「もちろん!」と即答できない自分がいます。

では、私自身なぜ辞めなかったのか-、いや、辞められなかったのか。たどりつく答えはいつも同じで、「PLだったから」。

憧れていたPL学園の野球部で、尊敬する監督さんや偉大な先輩たちと一緒に野球ができる。しかも、寮のスペースの関係で誰もが入れる野球部ではない場所に自分はいる。監督さんに認められたからこそ、PL学園のグラウンドで練習ができ、あのユニホームを着ることができるわけです。

3年間心身を鍛えることができれば、いずれはプロの世界も見えてくると本気で思っていました。厳しい上下関係で精神的にきつくなっても、PL学園で野球ができることにプライドを持っていたのです。

チームへのプライドがモチベーションの土台になる

大阪桐蔭に入学が決まった生徒たちにも、同じような話をよくしていました。

「『この学校に入学ができた。このユニホームを着て、野球ができる』という喜びを感じながら、学校やグラウンドに来てほしい」

まだ、創立されたばかりの学校であるため、いきなりこのレベルを求めるのは難しいことはわかっていました。それでも、言い続けることで、学校や野球部にプライドを持つようになってほしかったのです。

これは、社会人でも同じだと思います。働いている企業や自分の仕事に、どれだけ誇りを持っているか。それこそが、日々のモチベーションの土台になるのではないでしょうか。

ただ、「甲子園に出る。日本一になる」と高い志を持って入学してきたとしても、その全員が試合に出られるわけではありません。

1991年当時、ベンチ入りメンバーは15名に限られていました。その後、少しずつ枠が増えていき、2023年夏の甲子園では過去最多となる20名がベンチに入ることができました。

それでも、強豪校になれば100名近い部員がいるわけで、全体の5分の4がスタンドから応援することになります。下級生であればまだ翌年がありますが、3年生にとっては最後の夏。6月頃にはメンバー発表が行われ、夏の大会には出場できないことがわかってしまいます。

また、ケガによって戦線離脱を余儀なくされ、不完全燃焼で高校野球を終える選手も出てきます。

「この野球部に入って良かった」と思ってもらう

言うまでもなく、高校野球は部活動です。試合で活躍する選手であっても、スタンドで応援する選手であっても、学校の生徒であることに変わりありません。

一人ひとりに、「この野球部に入って良かった」と思ってもらえることが、指導者である私の使命だと考えていました。

一番に考えたのは、部員全員が公平に練習できる環境をつくることです。ボール拾いや、声出しだけをしている選手がいないように、グラウンドや室内練習場、ウエイトトレーニングルームを使って、メニューを組んでいく。これは、PL学園で教わったことでもあります。

私が高校生のときから、PL学園は1年生でも練習することができていました。1980年頃の高校野球を考えると、部員が多い強豪校ほど、「1年生は夏までランニングと声出し。ちゃんと練習ができるのは、3年生が引退してから」という学校が多かったように思います。

今思えば、当時のPL学園のやり方は時代の先を行っていたのではないでしょうか。

チームの温度差をなくすのは一人ひとりの責任感

チームを強くするには一体感が大事ですが、その障壁となるのが、ベンチ入りメンバーとそうでないメンバーのチームに対する温度差だと私は考えていました。

そこで私が取り組んだのが、上級生一人ひとりに仕事を任せて、責任感を与えることでした。

「おれがいないと、野球部は回らない。休んでしまうと、誰かに迷惑がかかってしまう」と、一人ひとりが責任感を持つようになればチームへの愛着が湧き、「こいつらと一緒に優勝したい!」と思うようになるのではないかと考えたのです。

野球部の活動には、ボールやバットの用具管理、整理整頓、グラウンド整備、スコア整理など、練習以外にもさまざまな仕事があります。その一つひとつを、上級生一人ひとりに任せることにしました。

ボール係には、球数の管理を任せました。野球のボールは、もっともきれいな新球を試合で使い、試合で使えなくなったものをキャッチボール、ノックボール、バッティングボール、ティーボールと、一つずつ落としていきます。縫い目の糸がほつれてきたときには、カラーテープで覆うなどして補修をすることもあります。

今、それぞれ使えるボールが何球ずつあるのか。指導者が確認したときに、すぐに答えられれば責任者として合格です。ボールがなければ、練習も試合もできないので、ボール係の役割は非常に重要になります。

ボールの管理など以外では、3年生に下級生の指導を任せることもありました。総合的な野球の技術は仲間に劣っていても、走るのは得意、内野のフィールディングは誰にも負けないなど、部員一人ひとりには何らかの特徴があります。

秀でた武器を持っている選手には、「下級生に走り方を教えてやってくれ」とお願いしていました。

人に教えることによって、「自分も誰かの役に立っている」という実感を得やすく、チームの中での存在意義を高めることができます。最近の言葉を使えば、「自己肯定感」と表現することもできるでしょう。

こうしたことから自分の居場所を見つけると、チームに対する責任感が生まれてくるものです。

野球を心から好きな選手が一人でも多くいるチームになるように

甲子園で優勝することが大きな目標でありましたが、レギュラー陣だけが喜ぶ優勝では、高校野球の意味がありません。


大会に入れば、バッティングピッチャー、ボール拾い、対戦校の偵察など、サポートメンバーの力が必要になり、誰か一人でも欠けると、チーム運営は成り立たなくなります。スタンドで団旗を持つのも、野球部の立派な仕事です。

「野球を続けていて良かった」「大阪桐蔭の野球部で良かった」と思うことができれば、大学でも野球を続けたり、野球に関わる職業を目指したり、次の道に前向きに進むことができます。

私は、野球を心から好きな選手が一人でも多くいるチームのほうが、勝負所で力を発揮できるのではないかと思っています。

小さい頃は好きで始めた野球であっても、さまざまな壁にぶち当たり、嫌いになってしまうこともあります。嫌いにさせるようなことがあれば、指導者として失格だと私は考えています。

(森岡 正晃 : Office AKI 晃 代表)