紫式部が直面した2つの悲劇とは(写真:NHK公式サイトより引用)

今年の大河ドラマ『光る君へ』は、紫式部が主人公。主役を吉高由里子さんが務めています。今回は紫式部が青春時代に直面した悲しい2つの出来事について解説します。

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紫式部には、年齢がそれほど違わない姉がいました。生まれて以来、ずっと一緒に暮してきたその姉が、994年頃(式部25歳頃)に亡くなります。

幼い頃に母を亡くした姉妹。式部は、母に甘えるように姉に接したこともあったのかもしれません。

姉が亡くなった傷が癒えなかった

994年前後には、疱瘡(天然痘)が大流行していたので、式部の姉も、この疫病の犠牲者になった可能性があります。大事な人を亡くした式部。その悲しみはなかなか癒えなかったようでした。

妹を亡くした女性と「互いに亡き人の代わりに姉妹になりましょう」と約束。手紙に「姉君」「中の君」(次女、妹)と書き、文通していたようです。

しかし、それぞれが、遠いところに旅立つこととなり、手紙でその別離を惜しむことになります。

式部は歌を詠みます。「北へ行く雁のつばさにことづてよ雲の上がき書き絶えずして」と。「北へ帰る雁に託してください。今まで通り手紙を絶やさないで」というような意味です。

そこには、いつまでも義理の姉妹でいましょうね、それを忘れないでねという式部の想いが込められているように感じます。それとともに、実姉を亡くした式部の心の痛みがスレートに伝わってきます。

この女性からは、返歌がきました。「返しは西の海の人なり」(西の海は西海道のこと。今の九州を指す)と式部は書いているので、文通のお相手の父は、九州のどこかの国の国司に任命されたのでしょう。

文通のお相手の女性は、友達ではなく、式部の親戚だったという指摘もありますが、その女性の返しの歌は「行きめぐり誰も都にかへる山いつはたと聞くほどのはるけさ」というもの。

「任国に下っても、4年の歳月が経てば、皆、都に帰ってきますが(国司の任期は4年)、かえる山・五幡(いずれも地名)と伺っては、本当に遠く離れてしまうことが思われて、いつお目にかかれるかと心細く感じています」と、式部から「姉君」と呼ばれた女性は、式部との再会を心配しています。


越前市にある紫式部公園(写真:T.Fukuoka / PIXTA)

ちなみに、かえる山(鹿蒜山)・五幡というのは、越前国(今の福井県)の地名です。このことから、式部のほうは、都を離れて越前にくだることがわかります。式部の父・藤原為時が越前守に任命されたからです。

姉君と慕った女性が遠方へと旅立つ

「姉君」と呼ばれた女性は、先に家族とともに旅立ったのでしょう、旅先から歌が送られてきました。「津の国といふ所よりおこせたりける」との詞書があり「難波潟群れたる鳥のもろともに立ち居るものと思はましかば」という歌が送られてきたのでした。

「難波潟」というのは、今の大阪湾(摂津国)の辺りを指します。その女性は、海鳥が干潟に群れる光景を目にしたのでしょう。そしてそれは、都の邸で暮らしてきた女性にとっては、感動的な光景だったはずです。だから、歌に詠み込んだものと思われます。

「あの鳥たちのように、あなたといつも一緒に何かしていられたらよいのに」。この歌を見て、式部は涙ぐんだかもしれません。その女性からの手紙を見たときは、すでに越前に下ってからでした。「筑紫に肥前といふ所より文おこせたるを、いとはるかなる所にて見けり」との詞書からその事がわかります。

「いとはるかなる所」というのは、越前を指します。文通相手の女性は、肥前国(佐賀県・長崎県)に赴いたことがここで判明します。女性の手紙を見た式部は、越前で歌を詠みます。「あひ見むと思ふ心は松浦なる鏡の神や空に見るらむ」と。

「あなたにお逢いしたいと思う私の心を何と言い表してよいか、とても口では表せません。でも、きっと松浦(肥前国の地名)の鏡の神様が天翔けて御照覧なさっているでしょう」との意味です。神かけて友情を誓う歌なのですが、どこか恋歌のように感じるのは、私だけでしょうか。

女性からは、年明けてから返歌が届きます。「行きめぐり逢ふを松浦の鏡には誰をかけつつ祈るとか知る」(遠い地を巡り、再び巡り合うことを待つ私は、松浦の鏡の神様に誰に会いたいとお祈りしているとお思いですか)と。2人の熱い友情が伝わってきます。

式部の父・為時が越前守に任命されたのは、996年のことでした。10年ぶりの任官だったといいますから、為時は喜んだと思われます。

失業中であっても、従者や侍女は養っていかねばならなかったので、越前守就任は、為時にとって明るい未来に思えたでしょう。

ちなみに、為時の越前守就任には、1つの逸話が残されています。実は、為時は最初は淡路守に任命されていたのです。

ところが、淡路国というのは下国(最下級の国)に区分されるところ。これを嘆いた為時は、一条天皇に仕える女房に「寒夜も一心に学問に励んできました。それは血涙を流すほどでありました。そうであるのに、その功績も認められず、力量に相応しくない官職に任命されました。任命の儀式のあった日の夜が明けた春の朝、私は空しく晴れ渡った空を眺め、思いにふけっています」との意味の文を託します。

その一文は、一条天皇の目に触れ、天皇をいたく感動させるのです。感動されたばかりか、天皇は俊英を十分に活用できていなかった自らを恥じ、食事も取られず、引きこもってしまいます。

父の出世の裏で、不安を抱く紫式部

その様子を見たのが、藤原道長でした。道長は、自らの乳母子(乳兄弟)の源国盛が越前守に任命されたのを止めて、代わりに為時を越前守に任じたのでした。一条天皇は、道長の処置に大層、満足されたようです。為時の行為は、ある意味、賭けとも言えるものでしたが、それが見事、成功したのでした。

しかし、式部の心情はどのようなものだったでしょう。都から遠く離れた雪国に行かなければならない。住み慣れた都を離れなければいけない。越前とはどのような国であろうか。好奇心もあったでしょうが、不安もまた去来したように思います。

(主要参考文献一覧)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

(濱田 浩一郎 : 歴史学者、作家、評論家)