AIが教育現場にもたらす好機と脅威とは(写真:symmyy/PIXTA)

教育現場でもAIの導入や活用が急ピッチで進んでいます。しかし、AIが教育に与える影響はすべて良いものとは限りません。AIによって教師の役割や生徒の学び方が変わり、本来重視すべき教育の本質や目的が見失われる危険性もあります。

本稿は、教育現場において、AIがもたらす好機と脅威について、学校改革プロデューサー・カリキュラムマネージャーである石川一郎氏の新著『捨てられる教師』よりご紹介します。

教師を悩ませている「宿題をどうするか」問題

生成AI──膨大な学習データを元に、ユーザーの問いかけに応じて答えを「生成」するAIの登場は、私たちに大きな驚きをもたらしました。

画期的だったのは、生成AIの仕組み自体もそうですが、何より「パソコンとインターネット環境さえあれば、誰もが使うことができる」という点ではないでしょうか。プログラム言語などいっさい必要なく、普段使っている自然言語でプロンプトを入れたらAIが答えを生成してくれる。この点こそが、登場するや否やユーザー数が爆発的に増えた理由にほかならないでしょう。

そんな生成AIは、キーワードひとつで立ちどころに情報を提示してくれる検索エンジンや、集合知の新たな形として瞬く間に広まった「ウィキペディア」に匹敵する、いや、それ以上の大きなゲームチェンジャーと言ってもいいかもしれません。そのため、この最新テクノロジーの登場に対しては、創造性や生産性の向上を期待する喜びの声と同時に危機感を訴える声も多く聞かれます。

いったい何をもって真に「人間オリジナルの創造物」と言えるのか?

生成AIを使って創造したものを、そのユーザーの「作品」と呼ぶか否か?

こんな議論が早くも芸術界、文芸界をはじめ各界で巻き起こっています。生成AIを大きな驚きと警戒感をもって受け止めているのは、教育界も例外ではありません。生成AIの使用を認めるべきか、禁止すべきか──すでに国内外の学校、自治体、政府で対応が分かれています。

EU諸国では早くも、学校に限らず国民にChatGPTの使用を禁止、制限する動きが見られました。また、アメリカのニューヨーク市やシアトルでは、同域内の一部の公立校の端末からChatGPTにアクセスすることを禁止しています。

さらに中国では、あまり不思議ではありませんが、ChatGPTへのアクセスがブロックされています(いずれも2023年10月時点での状況)。

一方、日本では、比較的歓迎されているといっていいでしょう。2022年のリリース直後には、SNSに「ChatGPTにこんな指示を与えたら、こんなすごいことになった」といった投稿があふれかえり、仕事の能率、生産性が上がるという感激の声もよく聞かれます。

ただし、とりわけ日本の学校や教師を悩ませているのは、「宿題をどうするか」という問題です。生成AIを使えば、算数ドリルも自由研究も読書感想文も、生徒がほとんど頭も手も動かすことなく完成してしまう。

それでは宿題の意味がないということで、2023年6月、ちょうど夏休み前の時期には、東京都教育委員会が文部科学省に先駆け、全都立校に「宿題における生成AI使用への注意喚起」を通達しました。

「使ってはダメ」では防げない

その後、2023年7月には文科省が、「初等中等教育段階における生成AIの利用に関する暫定的なガイドライン」を公表。教育現場にいる人なら、すでにご存じかと思いますが、次のような内容になっています。

■教育における生成AIの使用──適切な例

・子どもたちがグループで考えをまとめたり、アイデアを出したりする途中段階で、足りない視点を見つけ議論を深めるために活用すること。
・英会話の相手として使うこと。
・「情報モラル」を学ばせるため、あえて生成AIの誤った回答などを使って、その性質や限界について生徒に気づかせること。など

■教育における生成AIの使用──不適切な例

・生成AIのメリットやデメリットなどを学習せずに、子どもたちに使わせること。
・生徒が読書感想文などのコンクールやレポートを提出する際、生成AIが作ったものを自分の成果として提出すること。
・定期考査や小テストなどで子どもたちに使わせること。など

いずれも妥当な内容といっていいでしょう。

とはいえ、インターネット環境下でパソコンを開けば、誰でも生成AIを使えるわけです。生徒からパソコンを取り上げるわけにもいきません。しかも生成AIを使ったかどうかを完璧に見極めるすべはないに等しい。生成AIは「小学校4年生のような文体で」といったオーダーにも巧みに応えてくれるため、かつて問題だった親などによる代筆のケースよりも、ずっと見抜きにくくなっているのです。

となれば、いくら「宿題に使ってはダメ」と言っても、一定数の生徒はひそかに生成AIを使って宿題をすると考えるほうが自然でしょう。

では、どうしたらいいのか。教師は生徒に対して疑心暗鬼になりつつ、「使っちゃダメ」と通達するしかないのでしょうか。生徒から「なぜか」と問われても、「それがルールだから」と言うほかないのでしょうか。あるいは、生成AIを使ってできないような課題を何とか考え出して、与えなくてはいけないのでしょうか。

宿題が教師の「アリバイ作り」になっていないか

生成AIを使って宿題をすることを禁止するかどうか。禁止するなら、どのように守らせるか。これらは問題の本質ではありません。

私は「生成AIを使って宿題をすることの是非」よりも先に、今こそ問うべきことがあると考えています。それは、そもそも宿題というものが、教師にとって単なる「アリバイ作り」になってはいないだろうか、ということです。

まず、宿題とは何のために出すものなのでしょう。授業で習ったことを確実に定着させるため。授業で習ったことを自分なりに発展させるため。本来は、こうした目的意識の下で出されるものであるはずです。

ところが、それが単に「休みの間に生徒たちを遊びほうけさせないためのもの」になってはいないだろうか?

「宿題を出すのは、面倒見がいいことである」という勘違いはないだろうか?というのが私の疑問なのです。

その宿題を通じて、生徒がいかに学習内容を定着させるか、あるいは発展させるかは二の次で、「休みに入る生徒たちに、何かしら取り組むべき課題を与えた」という事実そのものに意味がある。宿題の内容・効果は別として「宿題を出した」という事実をもって教師の役割を果たしたと見なす。そんな、まさしく教師の「アリバイ作り」のために、宿題が利用されているように思えてなりません。

教師も親も、そして生徒自身も、宿題とはそういうものだと思ってしまっている。だから教師も親も「宿題をちゃんとやりなさい」と命じることしかできませんし、生徒は親や教師にそう言われるから、渋々取り組むしかありません。

その宿題の「本当の意味」、伝えられますか?

そんなはずはない、と思われたのなら、少し考えてみてください。「読書感想文」を書くことには、どのような意味がありますか? 「自由研究」には、いったいどんな意味があるのでしょう?

これらに対し、表層的な答えではなく、生徒も心から納得できるような答えがあるのなら、「こういう重要な意味があるからこそ、生成AI任せではなく、自分でやる必要がある」と自信をもって言えるでしょう。

生徒だって、その宿題をすることが本当に自分のためになると理解すれば、自分の力で取り組むはずです。生成AIはおろか、親などの手を借りることもないでしょう。

生成AIを使って宿題をすることを禁止するかどうか。禁止するなら、どのように守らせるか。これらは問題の本質ではないと私が述べた理由が、ここにあります。

生成AIが登場してからの教育界の混乱は、単に、この非常によくできたツールが登場したために、改めて「生徒が自分で宿題をやらない」という危機感が高まっているだけにすぎません。言ってしまえば、かつては「家族に手伝ってもらってはいけません」と言っていたものが、「生成AIに手伝ってもらってはいけません」に成り代わっただけでしょう。

宿題のあり方を問い直す


そう、生徒が自分で宿題をやらないという現象は、今に始まったことではないのです。他者が書いた読書感想文や自由研究がフリマアプリで取引され、問題になったのも記憶に新しいところです。生成AIの登場をきっかけに問題が改めて顕在化しただけであって、生徒が自分で宿題をやらないことを生成AIのせいにするべきではありません。それ以前に宿題のあり方を問い直さなくてはいけない。

教師の「アリバイ作り」のためなどではない、本当に意味のある宿題ならば、あえて生成AIを禁止するまでもないわけです。今も昔も、宿題とは本来、自分で取り組むことに意味があるべきものです。

ところが、いつしか宿題は教師たちの「アリバイ作り」となり、「自分の力で取り組むべき、本当に意味のある宿題」ではなくなってしまった。これこそが問題の本質なのです。

そして、このように問題を捉えてみれば、生成AIの登場は教育にとって悲劇ではありません。むしろ真に有意義な教育環境のもと、使いようによっては子どもたちの学習効果を格段に高め、思考力や想像力、創造性を育むことに寄与する非常に有用なツールとなりうるでしょう。

(石川 一郎 : カリキュラムアドバイザー/21世紀型教育機構理事)